ざわつく胸
そうして、私は狩原くんとおつきあいをすることになった。夜、いろんな人が見る大学でのグループはまだ恥ずかしくて、茉優と蓮菜にそれぞれメッセでそれを伝えた。ふたりともスタンプをいくつも並べて喜んでくれて、翌朝には「おめでとう!」「つばめについに春が来たねっ」とハグしてくれた。
校門のところでは狩原くんが私を待っていて、「おはよう」と手をさしだしてくる。どぎまぎしてしまったものの、「おはよう」と私がはにかみ咲って、その手を握り返すと、どこからか「マジなのか!!」「狩原あっ!」という銃撃されたような男の子たちの声がした。「ほっといていいから」と狩原くんはからからとして私の手を引き、私は周りが気になりつつも、狩原くんの白いシャツの背中を追いかけた。
ふと一瞬、昨夜の蒼樹の黒いTシャツの背中がダブる。けれど、私の手を取って先導する背中は、もう蒼樹じゃなくなったのだ。
そのあと、すぐに大学は夏休みに入り、狩原くんとは順調にデートの回数を重ねた。私たちの距離はどんどん縮んで、つばめ、文喜くん、と自然に言い交わすようにもなった。デートの帰り、電車を待っているときにホームの自販機があるスペースに誰もいなくて、初めてキスをした。
淡く触れあわせた唇を離して、瞳を重ねると面映ゆさに咲ってしまった。ああ、ちゃんと幸せだ。大事にしてもらえている。そんなことを実感して、つないだ手に力をこめる。文喜くんも私を右腕で抱き寄せて、「つばめが好きすぎてやばい」と参ったような声でささやいた。
砂糖菓子みたいに甘く蕩ける夏休みが終わろうとしていた頃、その日も文喜くんとデートした私は、少しずつ短くなってきた夕暮れの道を歩いていた。マンションが近づいて何となく顔をあげ、思わず足を止めた。
伸びた金髪。ちらつくピアス。黒と赤のパンクなファッション。そんな男の子が、マニッシュなショートカットの女の子と向かい合って笑っていた。
蒼樹。……と、女の子。知らない子、だと思う。誰だろう。
蒼樹とは、あの夜以来だ。文喜くんとのことを「勝手にすれば」と言われた夜。
ずいぶん久しぶりに感じる幼なじみのすがたに、何となく狼狽えて動けずにいると、女の子のほうが私に気づいた。その子は蒼樹の肩をたたき、こちらをしめす。
ふっと向けられた蒼樹の視線にどきりとかたまると、彼は失笑して、「つばめ」と普通に私を呼んだ。文喜くんの穏やかな低音とは違う、でも落ち着いた低い声だ。
私はなおも足踏みしそうになったものの、別に気が引ける理由なんてない、と自分に言い聞かせ、靴音を響かせてふたりに歩み寄った。
「蒼樹。久しぶり」
そう言って、また背が伸びたような蒼樹に顔をあげると、「化粧するようになってんじゃん」と相変わらず真っ先にそんなことを言われる。「化粧くらいするよ」と眉を寄せて返すと、「デートにすっぴんで来られたら男のほうが泣くか」と蒼樹は笑いを噛んだ。
「美坂さん、彼氏いるんだ?」
女の子が愛らしい響きの声で言い、私はやっと彼女を見た。髪型や服装はさっぱりしていても、顔立ちはぱっちりした瞳や毛穴のない小鼻、厚めの唇がかわいくて、折れそうにほっそりしているのに胸のボリュームはある。何か、もしかして、モデルとかやっているのかもしれない。それくらい、自分の魅力をぎゅっとつかんだ女の子だ。
というか、『美坂さん』って──
「え……と、私のこと」
「知ってるよお。同じ中学だもん。美坂さん、相変わらず綺麗だねえ。さらさらロングヘア変わんないなあ」
「あ、……どうも。えと、すみません、私はあなたのこと──」
「あははっ、そりゃ知らないよねえ。あたしは中学時代は陰キャだったから。じゃあ初めまして、見元紗由里です」
「ミモト……さん」
「紗由里でいいよお。あたしもつばめちゃんでいいかな?」
「あ、はい。ぜんぜん」
「ふふ。今はね、あたし、蒼樹と同じ専門に通ってるの。こいつ服飾じゃん? あたしは美容系」
「美容……って、モデルさん……」
「いやいや、モデルさんを飾るほうね。ネイルの勉強してるの」
「ああ……」
「自分のサロン開くのが夢なんだー。中学時代からマニキュア好きでさ、綺麗にした爪見てるときだけは幸せだったんだよねえ」
「そう、なんですか。ええと、蒼樹とはその頃からのお友達……とか」
紗由里ちゃんは首をかたむけて私を見て、それから蒼樹を見上げた。「言ってもいい?」と紗由里ちゃんが何やら蒼樹に確かめると、「いいんじゃね」と蒼樹は肩をすくめる。私がきょとんとしていると、紗由里ちゃんはふくよかな胸を押しつけるように蒼樹の腕にくっついて、満面の笑みで言った。
「あたしたちもデートしてきたのっ。仲良くなったのは、合コンの帰り道が一緒だったからでーすっ」
「えっ……」
私は蒼樹を見た。合コン。デート。突然には頭の処理が追いつかない単語に、ついおろおろしてしまうと、「ったく」と蒼樹は息をつく。
「何で、お前が吠え面なんだよ。お前も彼氏とデートだったんだろうが」
「ほ、吠え面ってっ。え、蒼樹、この子とつきあってるの?」
「そうだけど」
私は、何か言いかけた。けど、言いそうになった言葉が我ながら不可解だったので、飲みこんだ。
何、やってるの。こんな軽そうな女の子。遊ばれてるだけじゃない。
「何? 言いたいことあるならどうぞ?」
紗由里ちゃんがにこにこしながら言ってきて、私はどきっとしてさらに口をつぐむ。この子、私が何を言おうとしたか、もしかして分かっている? 無邪気そうな感じでも、何だか怖い。「お前、何か圧あるわ」と蒼樹が言い、「えーっ、そうかなあ」と紗由里ちゃんはころころと咲った。
「あたし、つばめちゃんとも友達になれたら嬉しいなあ。昔から憧れてたし」
「え、……と、ありがとう」
「てか、あの頃の感じだと、つばめちゃんが蒼樹をゲットしてなかったの意外」
「ゲットって俺は何だよ」
「あはは。そっか、つばめちゃんにも彼氏がいるのかあ。よかったあ」
そう。そうだ。私にも彼氏がいる。文喜くんがいる、のに……どうして、紗由里ちゃんのほがらかな笑顔に、こんなに心が暗くさざめくのだろう。
「そうだ、つばめちゃん」
「は、はいっ?」
「よかったらだけど、連絡先交換しない?」
「えっ」
「いや、深い意味はなくて。ただ、蒼樹とのこと、つばめちゃん公認だと嬉しいなあって」
お願いするように手のひらを合わせる紗由里ちゃんの指先は、確かに鮮やかに彩られている。オーロラがかった紺色を背景に、濃い金色のラメが星みたいで、さらにパールやモチーフが華やかだ。
「……あ、ええと……」
「嫌かな?」
「いえっ、そんな。いいですよ」
「もう、こっちこそ敬語いいよお」
私はぎこちない笑顔を繕いながら、バッグの中を見てスマホを手にした。けれど、慌ててしまって思わず取り落としそうになる。そのスマホを蒼樹の手が素早く受け止めて、蒼樹は画面を見たあと、私に突き返してきた。画面──は、指紋認証しない限り、真っ暗なはずだけど。やや焦りながら設定を思い返していると、「充電切れてるっぽかったぜ」と蒼樹は紗由里ちゃんに言った。
「だから、連絡先交換は今度にしとけ」
私は蒼樹を見た。蒼樹は私を見ない。
……察して、くれたのかな。あんまり、この子と連絡先とか交換したくないと思ったのを。
私はただ黙って蒼樹の手からスマホを受け取る。
「えー。充電切れとか、夜道の万が一で困る奴じゃん。もう暗いし、つばめちゃん帰ったほうがよくない?」
「俺らが引き止めてんだろ。──つばめは帰るだけだよな」
「あ、うん」
「じゃあ、俺は紗由里を送ってくし。帰り、気をつけろよ」
蒼樹はそう言うと、紗由里ちゃんがくっついていた腕で、細すぎる腰を抱いて「行くぞ」と歩き出した。紗由里ちゃんは蒼樹に寄り添って明るく笑っていて、ふたりとも、もうこちらを一瞥もしなかった。
いや、それとも闇を縫って、突っ立っている私を眺めて嗤ったりしたのだろうか。そんなわけの分からない被害妄想が、ちくりとこめかみを刺す。
蒼樹に、彼女。まあ、それは、できるか。蒼樹のことは、あの夜だって私もかっこいいなと思ってしまったし。というか、昔からバレンタインにチョコをもらったりして、地味にモテていた気がする。
そう、私にだって文喜くんが現れた。蒼樹にも好きな人ぐらいできる。それは何も悪くない。悪いことじゃない。だから、ざわざわと胸に群がってくる、蒼樹を責めたいようなこの気持ちは、おかしい。
紗由里ちゃん──か。勝手に畏縮してしまったけど、蒼樹がつきあうと思ったくらいなのだから、悪い子ではないのだろう。距離感が率直すぎる気がしたけど、“陰キャ”の中学時代にそういう感覚を学べなかったのかもしれない。
でも、このまま仲良くしようとされるのは、私が嫌なような気がする。連絡先も、やっぱり交換したくない。私は紗由里ちゃんとは何の関係でもない。幼なじみの彼女。そんなの、私には友達になりたい要素でも何でもない。
もちろん、だからと言って敵意はないし、本当に、どうでもいいのだ。私には関わってほしくない。蒼樹と紗由里ちゃん、ふたりで仲良くしておけばいい。
【第六章へ】