桜の終わり
「何でホワイトデーのクッキーなんだよ」
昼食に使ったらしい食器を洗っていたおばさんに挨拶してから、蒼樹の部屋に入る。やっぱりあの香水の匂いがする。
蒼樹はベッドに腰かけて、中身を取り出すなりそう言った。
「だって、もうバレンタインのチョコ売ってなかったし」
「何でもいいだろ。って、いや、ポテチは何でもよすぎるな。しかも、うすしお」
「何がよかったの」
「いいけどさ。コーラもらうわ」
蒼樹はペットボトルのキャップをまわし、コーラをごくんと飲む。私は蒼樹の動いた喉仏を眺めて、その首に紗由里ちゃんの細腕がしがみつくのを想像してしまって、また勝手に息が苦しくなった。蒼樹は何だかんだ言ったくせに、やっぱりクッキーの箱の包みを開いている。
「彼氏にはちゃんとチョコ与えたのかよ」
「与えたって。あげたよ」
「ふうん。順調なんだな」
「まあ、うん」
一瞬、脳裏にコンドームのことがよぎる。でも、男である蒼樹に相談しても、あんまり分かってもらえないかもしれない。というか、幼なじみに避妊について話すなんて恥ずかしい。
蒼樹は四角いラングドシャクッキーを口に投げこんでいく。さくさく、という音に、サンドされたホワイトチョコレートの甘い香りが混ざる。「おいしいですか」と訊くと、「コンビニの菓子は最強です」と返ってきた。私は笑って、ちょっとあいだを置いてから、蒼樹の隣に座る。
「口直しとか言ってたけど、紗由里ちゃんのチョコ、嬉しかったでしょ?」
「んー?」
「好きな女の子からのチョコだもん」
「……まあな」
蒼樹は小さく苦笑いを見せてから、クッキーをあっという間に食べ終えてしまった。私はうつむいて、ちょっとだけシーツを握りしめる。蒼樹は無造作にポテチのふくろを開けながら、突然、「どうかしたか?」と訊いてきた。
そう訊かれて、なぜか急に涙がこみあげてきたのでびっくりした。何で。涙なんか。まばたきでどうにかあふれるのは我慢したけど、一滴、こぼれるのを抑えられずに髪で顔を隠す。
「……蒼樹は」
「ああ」
「紗由里ちゃんと、幸せ?」
「さあ。どうだろうな」
私は自分の黒いタイツの爪先を見つめる。まだ少し、ぼやけそうになる。
「お前は?」
「……えっ」
「彼氏と幸せかよ」
「し……幸せに決まってるじゃない」
「ふうん」
ぱりぱり、というポテチを食べる音がして、どうにか涙目が落ち着いた私は、不自然にならないように蒼樹を見る。蒼樹は、私のことをじっと見つめていた。視線が重なると、蒼樹はしばらくまだ私を見ていたけど、ふと初めて見るくらいの優しさでにっと微笑んだ。
「よかったな」
私は一瞬、どんな顔をしたらいいのか分からなくなった。
……蒼樹。
ばか。
何でそんなに優しく咲うの。
それは、紗由里ちゃんだけに向けておきなさいよ。私は、蒼樹にとってただの幼なじみでしょ? 都合のいい口直しでしょ? 何でも、ないんでしょ……?
──その日から数日後、特に誰と約束するでもなく私は街に出た。たまに服やアクセサリーに目を止めたりしながら歩いていると、「あっ、つばめちゃん!」と聞き憶えのある愛らしい声が後方に聞こえた。
私は足を止めて振り向き、すると、人混みを縫って駆け寄ってきているのは、小さな黄色のTシャツに細いデニムのジーンズを合わせた紗由里ちゃんだった。思わず顔が引き攣りそうになったのをこらえ、私はただ気弱な笑顔を浮かべる。と同時に、「つかまえたっ」と紗由里ちゃんは私の腕をつかんだ。美しく彩られた爪が今日も目に入る。
「ひとりでどうしたの? あ、違う? デート中だったらごめん」
「あ……」
デート中、って言えば離れていくかな。それは何となく分かっていたのに、「ひとりだよ」と私は答えてしまった。
「ほんと? あたしも今日はぼっち!」
「蒼樹と、一緒じゃないの?」
「んー、何か、今日は親友の子と遊ぶとか言ってた。ほんとかな? 蒼樹にそんな親友とかいる?」
「いるよ。中学のときから、長川くんって子と仲がいいの」
「長川? 知らないけど、そうなんだあ。つばめちゃん情報なら確かだね。はあ、よかったあ」
大きくため息をつく紗由里ちゃんに、「心配だったの?」と訊いてみた。「そりゃそうだよっ」と紗由里ちゃんはちょっと怒ったように意気込んだ。
「あたしは、蒼樹の友達に紹介されたりとか、そういうのないしさあ。だから、親友がいるとか初めて聞いたし」
「そ、そうなんだ」
「都合いい嘘つかれてないかなとか、蒼樹のこと分かんないから、考えちゃうし。えー、あたしおかしいかな? 嫉妬深い?」
「え、えと……蒼樹なら、大丈夫だと思うよ」
紗由里ちゃんは大きな瞳で私を見つめてから、ふと睫毛をうつむけると「いいなあ」とつぶやいた。
「そんなふうに蒼樹を信じられるって、めちゃくちゃうらやましい」
「信じてる、というか」
「あたしはぜんぜんダメ。蒼樹の前では何にも考えてないようにしてるけどさ、ほんとはたくさんのことが怖いんだ」
私は紗由里ちゃんの長い睫毛を見て、そっか、と思い出した。中学時代は、爪を見ているときだけが楽しいような、そんなおとなしい女の子だったのだっけ。やはり、そんなにがらりと変わってしまうわけがない。
「紗由里ちゃん」
たぶん初めて私が彼女の前でその名前を呼ぶと、紗由里ちゃんははっとしたように顔をあげた。
「……あ、何か──ごめんねっ? 愚痴だねえ。うざかったよね──」
「私、ちょっと喉渇いたから、一緒にお茶しない?」
「へっ……」
「あの──あっ、もちろんおごるからっ」
慌ててそう付け足すと、紗由里ちゃんはぱたぱたとまじろいだのち、急に泣き出しそうな表情になった。ついで、「ごめん」と艶やかな唇がこぼす。
「え?」
「あたし、つばめちゃんのこと、すごく嫌いなのに」
どきんとして、思わず視線を狼狽えさせたけれど、紗由里ちゃんは私の腕をつかんだまま言葉をつなぐ。
「あたしのほうが蒼樹と仲いいんだって、つきあってるんだって、思うんだけどね。ダメなの。どうしてもつばめちゃんには勝てなくて」
「そ、そんな……蒼樹は、きちんと紗由里ちゃんのこと好きだよ」
「分かんないよ。そんなの、何にも信じられない。あたしが告って、断るのも面倒だったからとか、どうせそんなのだもん。それとも、つばめちゃんの代わりに抱ける女が欲しかったのかなあ?」
「っ……、」
「……ごめん。お茶したいって言ってもらって、嬉しいのに、何言ってんだあたし。つばめちゃんのこと嫌いだけどね、でも、仲良くできたら初めて蒼樹に近づける気がするの」
「……紗由里ちゃん」
「って、こんなこと言ってたら仲良くなれないよねえ。やっぱ、つばめちゃんと仲良くなるのは無理だなあ。蒼樹のこと好きだから、それは無理だなあ」
「私は──」
「つばめちゃんも、あたしのこと嫌いでいいから。優しくしなくていいし。だから、その……蒼樹のことは取らないでね……?」
私は目を開いた。その瞬間、紗由里ちゃんはぱっと手を放して、すぐに人だかりの中に紛れこんでいった。私はその場にたたずんで、腕に残った小さな爪痕を見た。
蒼樹のこと、取るなんて、そんなこと……
やがて、あちらこちらにピンク色の桜が咲きはじめて、景色がぱあっと明るくなった。春か、とぼんやり思いながら、私はまた、大学に二回生として通いはじめた。何だかはっきりしない目をしている私に、茉優も蓮菜も「相変わらず色ボケしてていいねえ」なんて笑う。私はそれに何とか笑い返しながらも、あの小さな爪痕がくっきり刻まれた心に圧迫されて、何だかずうっと酸欠状態になっているみたいな感覚だった。
「どうかした?」と文喜くんが私を覗きこんでくる。蒼樹もクッキーを食べながらそう言ってくれたなあと思った。あのときは涙が堰を切りそうになったのに、文喜くんに言われても何もこみあげるものはなかった。
たぶん、何にもないんだな。そう思ったから、「何でもないよ」の私は空っぽのまま答えた。「そっか」と文喜くんはうなずいたあと、「今日、俺の部屋に来れる?」とささやいてくる。私は文喜くんを見て、ゴムつけてくれるならねっ、とかわいく言えないかなと思った。思ったけど、やっぱり言えなくて、黙ってこくりとして文喜くんと手をつないだ。
青空を、桜の花びらがひらりと横切っていく。
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