望まぬ事態
ぽかぽかした陽気のあと、ひどい大雨が続いたと思ったら、一瞬にして春は初夏にもぎとられた。すぐさま真夏日が登場し、どこで何人、熱中症で運ばれたとかニュースが流れる。このあいだ春の洋服を引っ張り出したのに、この気候なら夏服も用意しておいたほうがよさそうだ。連休の最後の日、そんなことを思ってクローゼットを開いていると、スマホが耳慣れない通知音を鳴らした。
スマホを置いているベッドスタンドを見た。こんな音、設定してたっけ。そう思いながら歩み寄ってスマホを手に取り、眉を寄せた。生理の記録アプリからの通知だった。私はそこまで不順じゃないから、一週間前の通知とかは切っている。それはあんまり聞いたことない音だ、と思って、不意にあれと思った。
そう、私はそんなに不順じゃない。だいたい予想通りに来る。けれど、春先からぼんやりしていて気をつけてなかった。最後の生理って、いつだった……?
慌ててアプリを開く。トップ画面に、こんなメッセージが表示されていた。
『生理が遅れていませんか?
もし妊娠の心当たりがあるならチェックを!』
息を、大きく吸い込む。と同時に、心臓が脈打って、それを最後にすべて止まった気がした。
え……?
何……?
妊娠……?
真っ白の頭で、私はがくんとその場にへたりこんだ。茫然と空を見ているうち、寝起きに次第に聴覚が戻るときみたいに、脳内でざわざわと不穏が黒くさざめいてくる。
嘘。嘘。嘘! どうしよう。妊娠? 私、妊娠したかもしれない? 生理が来てない。そう、一ヵ月以上来てないと思う。
どうすればいいの? 怖い。吐きそうくらい怖い。生むなんて無理。育てるなんてもっと無理。じゃあ堕ろす? どうやって? お金は?
どうしよう、怖いよ。やめて。やめてよ。私、あんな人の赤ちゃん、欲しいなんて思ってない──!
無感覚に涙があふれてきて、指先が震えてきてスマホも取り落としてしまう。
誰か。誰かに、言う? 相談する? 聞いてもらえるの? 友達? 茉優? 蓮菜? ……ダメ、どうしてちゃんと「つけて」って言わなかったのって、私が怒られる。
おとうさんとおかあさんなんて、もっと言えないよ。誰? 誰が私のそばにいてくれるの? こういうとき、私のそばにいてくれるのは──
涙を手の甲で何度もぬぐいながら、がくがくする手首に必死に力をこめた。そして、スマホを手にするとトークアプリじゃなくて、電話帳を呼び出した。そこには一番上に彼の名前がある。
名前をタップしようとして、心がきしむ。あの日つけられた爪痕。それでも、情けない嗚咽までこぼれてきて、私にはどうしようもなかった。
だって、こんなときは、あいつしかいないじゃない。
思い切って名前をタップした。コールが聞こえて、息を震わせながらスマホを耳にあてる。
お願い。お願い。出て。ねえ、今だけでもいい。それでもいいから、私のところに来て。
『あー? どうしたよ』
鼓膜にその声が流れこんできた瞬間、私はわっと泣き出してしまった。何度も蒼樹の名前を呼んで、蒼樹の名前しか呼べなくて、次第に電話の向こうの蒼樹の声が、驚きから緊迫したものになっていく。
『何だ? どうした、つばめ』
「蒼樹……ど、しよう、蒼樹……」
『何だよ、あーっ、お前、今どこだ?』
「い、家……部屋……」
『家だな? 分かった、十秒で行く』
ばたばたと駆け出す物音がスマホから聞こえる。私は涙が重たくて頭がずきずきしはじめていた。がちゃっとドアを開く音。また駆け足。ゆっくり、どうにか、頭をもたげたとき、スマホの中からと同時にチャイムと激しくドアをたたく音がした。
私が立ち上がれずにいると、『蒼樹くん、』とおかあさんのびっくりした声に、『すみません、つばめの部屋』と鋭く返したかと思うと、「つばめっ」と蒼樹がスマホを握ったまま私の部屋に飛びこんできた。
「あ……蒼樹、蒼樹……っ」
蒼樹はドアを閉めてから私に駆け寄ると、スマホは床に放って私を腕に抱きとめた。息を引き攣らせていた私は、蒼樹の部屋の香りを感じて、急につっかえが取れたみたいに咳きこんだ。「大丈夫だから」と蒼樹は私を支えるようにきつく抱きしめる。
「落ち着け。大丈夫だ。俺がいる」
「蒼樹……」
「大丈夫。大丈夫だよ」
蒼樹は私の頭を撫でて、あやすように「大丈夫」と何度も言ってくれた。私は蒼樹の胸にしがみついて、何とかしゃくりあげるのを抑えようとしたけど、なかなか止まらない。それでも蒼樹は私をずっとなだめてくれていて、私はだいぶん経ってから、こわごわと顔をあげた。
「蒼樹……どうしよう」
「うん?」
「わ、私……赤ちゃん……」
「……は?」
「でき、た……かも」
「………、えっ──」
「ふ、文喜くん、ときどき、つけてくれなくて。私、それすごく嫌だったんだけど、何か、言うタイミングとか分からなくて。そしたら、何か、生理来なくて……」
「………」
「ど、どう……しよう、どうしたら……蒼樹……」
蒼樹は私をじっと見つめた。目を見開いて、怒っているのがありありと分かった。ああ、やっぱり蒼樹も怒るんだ。そう思って私が身をすくめて目をつぶると、急にぎゅっと肩を抱かれて、必然的に耳元で蒼樹の声が響いた。
「大丈夫だ。俺がついてるから」
「え……」
「とりあえず、病院行くぞ。生理来ねえって、まだ調べたわけではないんだろ?」
「びょ、病院……」
「いつも行ってる婦人科とかないのか」
「やだ……ダメだよ」
「だってお前、まずははっきりさせねえと、」
「もしできてたら? いつものとこじゃ、おかあさんも知ってるもん。先生、絶対おかあさんに言っちゃうし」
「……じゃあ、何にも知らないとことか……あー、女ってそういうの平気なのか?」
「怖いよ。怒られるもん。何で彼氏にはっきり言わなかったって、絶対怒るよ」
「………、なら──お前、ちょっとだけ、ひとりで大丈夫か?」
「えっ」
「……ちっ、ああいうのどこに売ってんだ……薬局か?」
「蒼樹、いや、ひとりにしないで」
「すぐ戻ってくる。お前はとりあえず深呼吸でもしてろ」
「蒼樹っ」
「大丈夫。お前をひとりにして、ほっといたりしないから」
蒼樹の体温が、匂いが離れる。私はまた頭の中をひどい恐怖感に囲まれて、がくりとうずくまってしまった。「つばめ」と何だか遠くから声がする。
「俺のことだけ考えてろ」
「……え」
「彼氏のことも、周りの奴らのことも、腹の中のことも今は考えなくていい。俺のことだけを考えろ」
「……蒼、樹」
「俺もお前のことだけ考えてるよ。いつも。ずっと」
顔をあげたのと同時に、頬を涙が伝っていく。蒼樹の顔がすぐそばにあって、キス、と思ったけど、蒼樹はただ私の額に額をこつんと当てた。なぜかそれで、涙がふわりと途切れる。
「待ってろ」
蒼樹はそう言うと、立ち上がって部屋を出ていった。「つばめ、何かあったの?」と不安そうなおかあさんの声に、「彼氏と喧嘩してやさぐれてるだけですよ」という蒼樹の返事が聞こえた。「彼氏!?」とおとうさんの声がしたけど、もうそれは、おとうさんと同じく何も聞いていないはずなのに、おかあさんが抑えこんでくれたようだった。
私はゆっくり、息をした。深呼吸して、蒼樹のことだけを考えた。いつも一緒にいる幼なじみ。いつまでも一緒にいるなんて、絶対に嫌だと思っていた。いつのまにか、一番そばにいないといけない人になっていた。俺もお前のことだけ考えてる。その言葉を私は躊躇も猜疑もなくすうっと飲みこめる。バカ蒼樹。そんなの知ってる。みんなが私の隣にいつもあんたを当てはめようとするんだもん。そんなこと、ほんとは、とっくに気づいてた──
蒼樹が息を切らして買ってきたのは、市販の妊娠検査薬だった。「使い方知らねえけど、とりあえず見ねえわ」と蒼樹は私に背を向けた。
その背中をじっと見つめてから、私は裏面の使用方法を読んで、下着を脱いで初めて自分で自分の膣に指をさしこんだ。これでいいのかな、とおりものと区別がつかないものをシートに乗せた。それから、何分も目をつぶって、祈って、とっくに結果が出ている頃になってそうっとまぶたを押しあげる。
真っ白、だった。
「あ……」
私が声をもらしたことで、蒼樹の背中が動く。「つばめ?」と呼ばれて、私は急いで立ち上がると蒼樹の背中に抱きついた。
「うおっ、な、何だよ──」
「白! 何にも出てこない!」
「え、いや、それは大丈夫な奴なのか?」
「大丈夫な奴! できてない! 箱に書いて──」
「声でかいんだよ。何のためにごまかしたんだよ」
「よかったあっ。蒼樹、ねえ、よかったっ」
「……んー。まあ、念のため病院は行けよ?」
「え、何で」
「一応、何か、ちゃんとしてないだろうがっ。腹が痛てえとか適当なこと言っといて、とりあえずいつもの病院には行け」
「……分かった」
「よし。あと、お前、ちゃんと胸あるな」
「っ、バカっ」
抱きついていた背中を今度は突き飛ばすと、蒼樹は振り返っておかしそうに咲った。その笑顔に私も咲ってしまうと、「しかし、お前のシャンプーって、よく生産停止にならねえよな」と蒼樹はいつも通りの毒なんか吐く。「いい香りだからですー」と私がつんと言い返すと、蒼樹は柔らかく微笑んで、「俺もそう思う」と言った。
「えっ──」
「俺もその香り、好きだ」
「……で、も」
「でも」
「あ、蒼樹は……香水とかだし、シャンプーの匂いなんて……」
「別に悪くないだろ。いいんじゃね?」
蒼樹を見た。蒼樹は少し照れたようにそっぽを向く。そんな蒼樹に私は満面の笑顔になり、その腕にしがみついてみた。蒼樹は私を見て、頭をよしよしとしてくれたあとに、ふと真剣な顔になる。
「で、つばめ。頼みがあんだけど」
「うん、何?」
「彼氏呼び出せ」
「えっ」
「お前がそいつの顔見たくないなら、俺だけでも会ってくる」
「な、何? 会ってどうす──」
「殴るに決まってんだろうが」
私がぎょっとしてしまうと、「お前なあっ」と蒼樹は私の肩をつかんで向かい合った。
「今、どんだけの想いしたんだよ? 俺は想像つかねえわ、マジで。男だし。でも、女にそういう想いさせたらいけないのが男なのは分かる」
私は蒼樹と見つめあい、それでも躊躇ってしまったものの、「分かった」と小さく答えて、まだ蒼樹のスマホとつながったままだったスマホを拾いにいった。通話料の言い訳考えなきゃだ、これ。そんなことを考えつつ、私はトークアプリの通話で、文喜くんに無理を言って地元にまで来てもらうことを承諾してもらった。
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