君は壊れやすいから-9

愛のない行方

 駅前で私の隣でこまねいて文喜くんを待っていた蒼樹は、完全にヤクザだった。いらいらしているというか、怒りのオーラがすごくて、改札を抜けるために通りかかる人は、みんな蒼樹を避けていく。
 私へのモラハラにも見えるのか、憐れむような目を向ける人もいた。「あ、暑いね」とか私もついぎこちなくなって言うと、蒼樹は私をちらりとしてから、無言でそばの自販機でお茶を買うと押しつけてきた。
 冷たいミニペットボトルを受け取りながら、私が赤ちゃんできたかもと言ったときも、蒼樹はとっさに怒ってたなと思った。私を怒るのだと思った。でも、あれもどうやら、同じ男としての文喜くんに対する怒りだったらしい。私は苦みもまろやかなお茶をひと口飲むと、「蒼樹」と今度は落ち着いた声をかけた。
「何だよ」
「私ね、文喜く──彼氏のこと、思い浮かばなかったの」
「あん?」
「というか、妊娠したかもってなって、あの人の赤ちゃん欲しくないと思ったけど、誰かにこれを相談するって考えたら、彼氏はぜんぜん浮かばなかった」
「………、」
「友達とか親とかは浮かんだけど……みんな怖くて。蒼樹だけ、私のそばにいてくれる気がした」
「……そうか」
「だから──」
 そこまで言いかけたときだ。夕方が近づいて乗る人も降りる人も増え、混雑している改札から「つばめ!」と私を呼ぶ声がした。私は顔を上げ、なぜか小さな恐怖感を覚えた。でも、隣の蒼樹が「あいつか」と舌打ちしたのが聞こえ、ひとりじゃない、と自分に言い聞かせた。
 文喜くんは人をかき分けてこちらに駆け寄ってくると、当然、私よりも私の隣でガンをつけてくる蒼樹をとまどい気味に見た。
「え……えと、つばめ、この人──」
 言い終わる前に、蒼樹は文喜くんに大股で近づき、乱暴に胸倉をつかんだ。「ちょっとっ」と私もさすがに止めてしまう。
「ああっ? お前、暴力はダメとかまた優等生なこと言うなら、」
「い、言わない、言わないけどっ。殴ってほしいけど」
 私の言葉に文喜くんが目を開き、蒼樹はこちらを一瞥するとふうっと息をついていったん手を放す。文喜くんは明らかに蒼樹を警戒しながら、私を向いた。
「何、つばめ、どういう──」
 何を、言えばいいのだろう。言いたいことはたくさんある。
 妊娠したかもって思った。何でゴムつけてくれなかったの。そういうところがいい加減なあなたとは別れたい。
 でも、どんな言葉もなかなか声をともなわない。私がうつむいて黙りこくってしまうと、「用事がないなら」と文喜くんは厄介を感知したのか後退った。
「俺も、ヒマじゃない──」
「つばめがあんたのガキ孕んだぞ」
 首を刎ねるような直球を蒼樹が冷え切った声で投げつけた。孕んでは、いなかったのだけど。あえて訂正しなかった。文喜くんは驚いた顔になって、蒼樹に顔を向ける。
「は……っ?」
「あんた、学生の分際で、ゴムもつけねえでつばめとやってたらしいじゃん。どうすんの? 責任取るよな?」
「責……任って、」
「生ませて育てるか、金出して堕ろすかだろうが」
「っ──」
「分かってたんだろ? だからゴムつけなかったんだよな?」
「そ、それは……つばめだって、何も言わないし──」
「女のせいかよ? ふざけんなよっ、つばめの軆を何だと思ってんだっ」
「な、何、そもそもあんた──」
「うるせえ、女は性欲処理機か? 違うだろ、ひどいことしたら壊れんだよっ。大事にしなかったお前のせいで、つばめがどれだけっ──」
「……蒼樹」
「つばめがどんな想い味わったと思ってんだっ、お前みたいなクズ野郎、マジで同じ男なのが腹立つ」
「蒼樹、もういいよ」
「よくねえんだよっ。クズ野郎、とりあえずガキは堕ろすほうでいいな?」
「そ、それは……でも、今、お金が、」
 言い終わらないうち、蒼樹は素早く文喜くんの胸倉をつかんで引き寄せかと思うと、どすっと音を立ててそのお腹を深く殴った。文喜くんはつぶれるような声を上げ、こぶしを刺されたお腹を抱え、アスファルトに膝をつく。蒼樹はそれを冷たく見下ろし、「よかったな、これでつばめの腹に溜まったもんも流れるだろうよ」と吐き捨てた。
 文喜くんは涙目で私たちを見上げる。私はポケットに入れてきた検査薬を、文喜くんの足元に投げた。咳きこむ文喜くんはそれを見たけど、何なのか分からないようだった。「……ほんとに」と私は絞り出すように言った。
「赤ちゃんできてたらどうしようって、怖かった……っ」
「……え、」
「一瞬で、あなたの赤ちゃん欲しくないって思った。絶対愛せない子だったんだよ。できてたら、……もう私ごと死んでたかもしれない」
「……つばめ」
「だから、もう私たち別れよう。私、きちんとしてくれる、だからこの人の赤ちゃんが欲しいって思える人とつきあいたい」
「な……んでっ、だって、いつも何も言わな──」
「おいクズ、ふたりめ堕ろすか?」
 蒼樹が割りこんで、文喜くんは見るからにびくつく。けれど、私たちが一緒に立ち去ろうとすると、「……ただの浮気じゃないか」と文喜くんの声がして、私と蒼樹は振り返る。
「そいつ……どうせ、新しい男なんだろ? そいつとつきあいたいから、こんな芝居やって俺を納得させようとしてるんだろっ。ふざけん──」
 私は立ち上がりかけていた文喜くんに駆け寄り、手を振り上げてその頬をしたたかに引っぱたいた。手のひらで音と痛みが弾ける。
「あなたのこと、ほんとに好きだったんだからっ……それ以上は、醜いこと言わないで」
 文喜くんは、ぼろぼろになったような目で私を見た。私はその目から目をそらし、身を返す。蒼樹は鼻で嗤っただけで、もう文喜くんには興味がないように私の隣に並んだ。
 蒸した空気がただよう中、日が茜色に暮れはじめていた。駅前の小さな商店街の中を、私も蒼樹も黙って歩いた。喉がからからで、さっきのお茶を飲むと、蒼樹は私の手からそれを奪って自分も飲む。そしてそのまま空にしてしまったらしく、ペットボトルを道端のゴミ箱に投げ入れた。
「何かさ」
 不意に発された蒼樹の声は、ようやくトゲが抜けていて、「うん」と私は応じる。
「俺、新しい男っていうか、お宅よりだいぶ古い男ですよって言いかけた」
 蒼樹はくつくつと笑いを噛む。私も咲ってしまいながら蒼樹を見上げ、「何かそれ、こじれそうだよ」と肩をすくめる。
「俺もそう思ったから黙っておいた」
「……ふふ。何だかなあ、あの人、優しかったんだけどなあ」
「お前、ほんとああいう感じの男好きなー。尚里にちょっと似てた」
「長川くんはちゃんとしてるでしょ」
「してるから、あいつは姉貴と今日も仲良しだろ」
「そうだね。おねえさんと結婚するのかな」
「するだろうな」
「いいなあ。私は──」
 また誰かと、そういうふうに、なったりするのかな。私はそれで幸せなのかな。蒼樹じゃなくても、大丈夫なのかな。
 抜けていく風はまだ軽くて、涼しく私の長い黒髪を揺らす。シャンプーの匂い。それに、蒼樹からただよう香りもする。

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