桜咲く季節
朝、目が覚めて、一番最初に気づくのは、私のことを抱いて離さないような甘えた腕の温もりだ。
それから、同じ柔軟剤の匂いがする部屋着の生地の肌触り、穏やかな鼓動の響きとまろやかな寝息、眠たいまぶたを開くと、大好きな人が眠っている。
私は少し身じろぐと、腕を伸ばして彼の頬に触れてみる。髭の感触を指先でたどられると、くすぐったそうに唸って──紅磨くんは、私の覗きこんで「悠海さん」と蕩けるように咲う。
「おはよう」
「ん。おはよう」
「もう朝?」
「うん。だいぶ夜明け早くなったね」
「四月だもんなあ……」
言いながら紅磨くんは大きなあくびをして、ボブの長さに切ったばかりの私の髪を撫でる。
「桜が散る前に、花見デートしたいな」
「今度のお休み、公園でも行く?」
「うん。へへ、悠海さんと桜見るのも七回目だね」
「私たち、もう七年かあ」
「あっという間だよね」
私はこくんとして、紅磨くんの胸にしがみつく。紅磨くんは自然と私の背中をさすってくれる。
ここが私の居場所になって、七年以上の月日が流れた。でも相変わらずここは温かくて、安らかで、心が落ち着く。そんなふうに、いつまでも一緒にいられる男の子が現れるなんて、あきらめてしまったときもあったけど──
「朝ごはん、用意しなきゃね」
「うー、もう少し悠海さんをこうしてたい」
「遅刻するのは紅磨くんでしょ。休みの日に、いくらでも一緒に寝坊してあげる」
そう苦笑すると、紅磨くんはむくれたものの、素直に私の軆を解放した。私はゆっくり上体を起こすと、カーテンが抑えきれない朝の陽光を振り返って、軽く伸びをする。
すずめがさえずっていて、暖房をつけていなくても暖かくなった。
紅磨くんはまたあくびをしながら、仰向けで目をこする。私がセミダブルのベッドを降りようとすると、「悠海さん」と手に紅磨くんの手が重なった。振り返ったのと同時に、手を引っ張られて、私は前倒しになって──
唇に、紅磨くんの唇が柔らかく触れる。瞳が間近で触れ合い、紅磨くんは顔を離すとくすりとした。私も笑ってしまい、紅磨くんの額をさすってあげて、「コーヒー用意して待ってる」とベッドを立ち上がった。
駅を少し離れた十階建てのマンションの五階、この部屋にふたりで暮らしはじめたのは、ちょうど二年前の春だ。紅磨くんの大学卒業が切っかけだった。私と紅磨くんは、同じファミレスで何年もバイトをしていたから、新生活を始めるお金はわりとあった。
心理学を学んだ紅磨くんは、卒業して一年目は心理カウンセラーの資格試験の勉強をしていた。検定試験は一発合格こそ叶わなかったけど、次の年の夏に合格して資格を取得した。
そして秋に精神科の病院に採用され、現在、紅磨くんは先輩のカウンセラーに助けられながら働いている。やりがいはあるようでも、病院の場所が離れているのと勉強や報告が山積みなので、紅磨くんの生活は朝早く、夜遅くになった。本音では、無理をしていないか心配しているのだけど、紅磨くんは私を抱きしめて「充電」することで頑張っている。
私は紅磨くんが夏にファミレスを辞める半年前、今から一年とちょっと前に、先に長年勤めていたファミレスを辞めた。かなり惜しんでもらったけれど、ちょうど駅前の心療内科が非常勤の心理士を募集していることを知ったのだ。私も一応、そういう大学を出て、資格も持っていたりする。
紅磨くんと一緒に、クリニックを開くのがいつのまにかふたりの夢になっていたから、私は再び勉強するのも兼ねて心療内科の面接を受け、そうしたら採用してもらえた。そんなわけで、すべて正直に話してファミレスは円満に辞めて、今もその心療内科に勤めて、思春期あたりの子のカウンセリングを受け持っている。
紅磨くんと私がつきあっていることは、ファミレスでは伏せていたので、辞めるときになってみんなに知られて、けっこう驚かれた。そのときですでに私は三十歳だった。そして紅磨くんは、当時二十三歳。仲がいいのは知られていても、年齢差でみんな想像していなかったみたいだ。
三十を超えた誕生日は軽くへこんだものの、「悠海さんは俺に決めてくれてるから先の心配はいらないよ」と紅磨くんは微笑んでくれた。きっと紅磨くんの言う通りなのだと思う。私はもう、ひとりぼっちになる心配はない。
私たちの朝はパンが多い。今日はロールパンの切れ目にハムとチーズを挟んで、電子レンジのオーブン機能で軽く焼いた。バターをたっぷり入れたスクランブルエッグを作って、サラダチキンとレタスとトマトに、サウザンドドレッシングをかけたサラダも用意する。ミックスで作ったコーヒーに、私は砂糖ひとつ、紅磨くんはふたつ。
そんな朝食の香りが届いたのかどうか、顔を洗ってきた様子の紅磨くんがダイニングキッチンに現れた。自分のマグカップを取ると、甘めのコーヒーに口をつけてふうっと落ち着いた息をつく。
「悠海さんは、今日出勤?」
「うん。何か、変なこと知っちゃって複雑なんだけど」
「医院長のこと?」
「そう」
「俺には分かんないなー。不倫してバツイチとか」
「バツイチはいいんだけど、不倫っていうのがわりとショッキングだった」
「悠海さんは浮気なんてされないからなあ」
私が噴き出して、「自分で言うんだ」なんて言っていると、電子レンジのベルが鳴った。扉を開けると、パンが焼けた匂いとチーズが溶けた匂いがふわりとただよう。
「えー、悠海さん、俺は浮気すると思ってる?」
「ふふ、しないよね。そこはすごく信頼できる」
「へへっ。十二のときから、俺は悠海さんだけだよ。あのとき、俺は悠海さんのそばにいるって約束したから」
私ははにかんで咲ってしまいつつ、お皿に乗せたロールパン四つをテーブルに並べた。紅磨くんは椅子に腰を下ろし、私もその正面に座る。「いただきます」と言ってくれてから、紅磨くんはスプーンでたっぷり半熟のスクランブルエッグをすくって食べる。
そんなふうに朝食を共にすると、紅磨くんはばたばたと朝の支度を始めて、六時に起きたのに七時になる前に「じゃ、いってきますっ」と出勤してしまう。残された私は、食器を洗ったり着替えた服をかごにまとめておいたり、あれこれ家事を済ましてから化粧などの身支度を始め、八時頃に部屋を出る。
四月の朝の陽射しが、並ぶマンションの窓、歩道の街路樹、走っていく車、そんな景色をきらきらと照らしている。まだ春雨が降る前なので、空は青く広がって、よぎる風はかすかな冬の名残でひやりとしていた。まだまだ四月の頭、今週末ならまだお花見に間に合うだろう。今年も紅磨くんと桜を見れるのは幸せだなあ、なんて思っていると、二十分も歩けば駅前に出る。
ちなみに私が辞めたファミレスも同じ駅前なので、今の職場の近所だったりする。別に気まずさはないので、気軽によくそこでお昼を食べたりして、今ではすっかりお客さんだ。
とはいえ、一緒に働いていた頃の子も少なくなって、残っているのは二、三人になっていると思う。辞めちゃった子とは会うこともないんだろうなあ、としんみりしていると、私の現在の職場である雑居ビル三階の『七重クリニック』に到着した。
「おはようございます」
そう言って、関係者専用のドアから直結する更衣室に顔を出すと、受付のふたりの女の子がすでに来ていた。ひとりは遠藤さん、もうひとりは藤尾さんといって、遠藤さんがひそひそと話してきたところによると、医院長の七重先生の不倫相手は藤尾さんだったらしい。
だった、というか──今は、晴れて恋人同士なのか。あんまり詳しく知らないし、知ろうとも思わないけれど、ひとまず遠藤さんも藤尾さんもにっこりと「おはようございます」と返してくれて、上辺であっても人間関係がこじれてはいないので助かっている。
九時に午前診が始まるので、私も荷物をロッカーにしまって白衣を羽織る。受付のふたりは八時四十分くらいから、九時を待たずにやってきた患者さんを受けつけはじめる。
私が診ている子たちは学齢の子が多いものの、午前診に訪ねてくる子も少なくない。学校に通うことができない子供は、今、本当に多い。それはイジメであったり、貧困であったり、障害であったり──
私では対応できないようなときは、ちゃんと七重先生がアドバイスをくれる。仕事は本当にできる人なんだけどなあ、と心理室に入る前に挨拶した七重先生の、今年四十歳になるとは思えない屈託ない笑顔を思い出して、吐息をついてしまう。
そして私は、自分のところに患者さんが来るまで、心を診るために使っているパズルやカードを用意したり、予約と照らし合わせてカルテをPCで確認しておいたりする。
七重先生は、藤尾さんと結婚しないのだろうか。藤尾さんのほうが、それを望んでいるのは何となく感じる。七重先生は飄々として、そんな気は見せていない様子だ。
一度は結婚した人もいるのに。それを解除して、特に新しく家庭を築くこともなく。結婚って、そんなに嫌になってしまうものなのだろうか。
私には、結婚はとても憧れるものだけど──結婚したら、紅磨くんとも何か変わってしまうのだろうか。それでもやっぱり、私は紅磨くんの奥さんになりたいと願ってしまうけども。
午前診は十二時で受付を終了するけど、診察は十三時過ぎまで長引くことが多い。ますます子供の来院が増える午後は、ベテランの心理士さんが入ることになっていて、私は午前診で上がる。紅磨くんにも、帰りは遅くならないようにと言われているから、この勤務スタイルはちょうどよかった。
紅磨くんは昔から私が夜道でひとりにならないように心がけている。私が午後診にどうしても出たときは、タクシーで帰る約束だ。今日の午前診は十三時半頃に終わり、「お疲れ様です」と受付のふたりに頭を下げると、私は職場をあとにした。
このあと、ファミレスで食事を取ったりするわけだけど、毎日通っていたらお金が持たない。スーパーで適当に買い物して、部屋に帰って有りあわせの昼食を取ることもある。今日も夕食の材料を買って、十五時過ぎにマンションに帰ってくる。
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