角砂糖をちょうだい-11

結婚したらその先は

 特に何事も起こらない毎日がしばらく続いた。
 五月が終わりかけて、雨模様の日が増えてきた。その日も今にも降りそうな曇り空で、室温もむしむししている。もう梅雨かあ、なんて思いながら、夕食を作り終えた私は、テーブルのスマホを手に取った。いつのまにか着信がついている。
 紅磨くんかな、と思ったら、最近連絡を取ることがずいぶん減ってしまっていた、親友の南乃だった。
『生きてるー?
 あたしは育児でちょっと死んでるわ。
 こどもはかわいいんだけど、旦那の協力がぬるいっていうか。
 ワンオペってほどじゃないんだけどさ。
 時間あったら、愚痴聞いてくれー。』
 あまり弱音を吐くことがない南乃からのメッセ内容に、私はまばたきをする。南乃は二十代のあいだに結婚も出産も済ました。子供はふたりで、姉の杏子あんずちゃんと弟の林檎りんごくんだ。最後に南乃に会ったのは、林檎くんが生まれた二年前の秋だろうか。
 紅磨くんのことも、その前のことも、全部知っている南乃は心強い話相手だった。連絡しなきゃと思いつつできていなかったことを申し訳なく思いつつ、私はリビングに移動する。
 念のため、紅磨くんに『南乃と電話してるかも。ごはんはできてるよ。』とメッセを送っておいた。既読はつかない。まだ仕事中なのだろう。
 ならゆっくり話しても大丈夫かな、と南乃のトークルームに戻ると、通話ボタンをタップした。スマホを耳に当てると、すぐコールが途切れた。
「あ、南乃?」
『悠海? おう、久しぶり』
「久しぶり。今メッセ見た。ごめん、ぜんぜん連絡できなくて」
『ほんとだよ、ちゃんと連絡できるんじゃん』
 南乃は誰より私にざっくり物を言ってくれる。その感じが懐かしくて、つい笑ってしまう。
「ごめんごめん。ここのとこ、仕事とか家事とかいそがしくて」
『彼氏ともいちゃいちゃだし?』
「う、まあ、否定はしない。ほんとごめん」
『いいよ、あんたが幸せに恋愛してると安心だわ』
 私の幸せじゃない恋愛も知る南乃の言葉に、「うん」と私はうなずく。紅磨くんに出逢う前、私は本当にひどい恋をしていて、死ぬことすら考えた。南乃は全部知っていて、それでも私にあきれず親友でいてくれている。
「ありがと、南乃。杏子ちゃんと林檎くんは元気?」
『あー、元気元気。杏子はあたしのメイク道具いじりだしてさ、へったくそに口紅塗ったりしてんの』
 私はまた笑って、「女の子だね」と杏子ちゃんのあどけない笑顔を思い出す。
「杏子ちゃんは三歳だっけ」
『来月に四歳になるけど。林檎も秋に二歳かな』
「早いなー。林檎くん、赤ちゃんのときに見たっきりだ」
『また見に来なよ。彼氏と一緒でもいいし』
「そうだね。紅磨くん、子供欲しいってこないだ言ってたから、うらやましがるかも」
『え、子供作んの? 籍入れたの?』
「ううん、まだ。さすがにそしたら、連絡してるし」
『そっか。結婚もまだ?』
「結婚しようねとは言われてる。もう紅磨くん以外ありえないし。具体的なことはまだ」
『えー、大丈夫かなあ』
 声を上げる南乃に、「いやいや」と私は肝心なことを言う。
「紅磨くん、まだ二十四歳だよ? 仕事決まってまだ一年なんだよ」
『えっ、そんな年下だっけ』
「そんな年下です。ななつ下です」
『ななつ……なるほど、そうなるのか。じゃあ、資金貯めてる感じだ』
「うん。紅磨くん、開業するのも夢だしね。ほんとにお金がいるんです」
『あはは。悠海のほうは、新しい仕事続いてる?』
「続いてるよ」
『心療内科だっけ。何か医院長がおもしろいんだっけ?』
「おもしろいというか──まあ、軽い」
『仲良くできてる?』
「何とか。どうも女好きだけどね」
『たぶらかされるなよー。あんた、年上に弱い面もあるんだから』
「さすがに、先生は遠慮するかな……」
 南乃がからからと笑うと、電話の向こうで『だれー』と女の子の声が聞こえた。『ママのお友達だよ』と南乃は杏子ちゃんをなだめ、『何か言ってみな』とごそごそと音がする。
『ママのお友達ですかー?』
 舌足らずな女の子の声に、私は「はい、そうですよー」と答える。きゃっきゃっと喜ぶ声がして、『ママ寂しがってるから、会いにきてくださいー』と杏子ちゃんは言い、『こら』と南乃はスマホを取り返したのか、『ごめんごめん』とまた声が聞こえてくる。
『こないだ、旦那とちょっと言い合いになったから、この子たち心配してんの』
「あ、育児の協力がないって」
『んー、まったくないわけじゃないけどね。子供たち寝かしつけてるあいだ、お皿とか洗ってくれたらすごい助かるのにさ、そういう協力ないんだよね』
「そうなんだ」
『旦那も外で働いてるからって、分かってるんだけど』
「うーん、それはどうなのかな。育児って母親だけで頑張るものではないし、協力してほしいって話し合っていいと思うよ。言い合いになると、子供たちが怯えちゃうかもしれないから、落ち着いてね」
『ふふ、無料カウンセリングだ。そうだよね。何かさー、林檎のおむつとか気づいたら換えてほしいの。臭うぞって報告は別にいらないわけ。旦那も換え方は知ってるんだしさ』
「そういうおかあさん、けっこう多いよ。ほんとに孤立感に追いつめられて、子供連れて心療内科に来る人もいるから」
『そうなんだ。あたしも悠海先生受診しようかなー』
「つらくなったら、冗談じゃなくて来ていいからね。もちろん、私がこうやって話聞くのでもいいんだけど」
『そうする。ありがと、ちょっと楽になった』
「無理しないで。私は南乃の味方だし、杏子ちゃんも林檎くんも大好きだから」
 南乃は「ありがと」ともう一度言って、小さく鼻をすすった。本当に、溜めこんでいたみたいだ。「今度、紅磨くんと会いに行くね」と約束すると、「その前に、あんたたちの結婚式呼んでほしい」と南乃は言い返し、「早めに頑張ります」と私は苦笑した。
 そうして話していると、向こうで旦那さんが帰宅した様子が耳に届いた。「いつでも連絡してね」と言うと、「おう」と南乃は答えて、私たちは通話を切った。二十代で結婚して、出産して、それでも、うまくいかない大変なことってあるんだなあと思う。
 紅磨くんは、私と一緒に子供を育ててくれる旦那様になるかな。なってくれるといいな。紅磨くんと育てるからこそ、きっと恵まれた子を愛おしいと感じるだろうから。
 六月に入ると、一気に毎日が雨に湿気るようになった。その日の診察では、母親が席をはずすと「おうち帰りたくない」と言い出した引きこもり気味の低学年の女の子がいて、丁重になだめながら話を聞いた。どうやら、父親に問題があるようだ。
 付き添いの母親とのカウンセリングになると、一方的に怒鳴られることがあるらしかった。「でも離婚したらあの子を育てる経済力がない」とおかあさんのほうも泣きそうだった。
 ふたりが帰って、対応できる機関がないか探しているうちに、ずいぶん時間が経ってしまった。はたと気づくと十四時半が近く、慌てて片づけをして心理室を出る。受付のふたりも昼食に出てしまったのか、すがたがなかった。
 診察室を覗くと七重先生がいたので、少しだけさっきの母子のことを相談してみた。こういう相談には七重先生はまじめに聞いて、アドバイスをくれる。「娘さんはここまで通院できてることを褒めてあげて。おかあさんのお金の問題をクリアにしたいなら、自立支援から勧めてみてごらん」と言われて、私はこくんとした。「じゃあ、今日は失礼します」と頭を下げると、「彼氏によろしくねー」といつもの調子で言われて、私は苦笑しながら診察室を出た。
 脱いだ白衣をロッカーにかけて、スマホに返信を急ぐ着信がないのを確認すると、バッグを肩にかけた。傘を忘れずに更衣室を出て、エレベーターで地上に出る。
 水気を帯びた風が少しひんやりした。歩く人のほとんどが傘を持っているものの、さしてはいない。私は空を見上げて空中に手をかざし、降ってないな、と確認して足を踏み出そうとした──ときだった。
「とにかくっ、先生につきまとうのやめなさいよっ」
 聞き憶えのある声に私はそちらを見た。ついで目を開く。そこで叫んでいるのは受付の藤尾さんで、腕をつかまれているのは茉莉紗さんだった。
 え、ととまどっていると、「先生には私がいるんだから!」と藤尾さんはぎりぎりと茉莉紗さんを睨めつけ、茉莉紗さんはそれを見返して迷惑そうな色を滲ませる。
「藤尾さん、何してるんですかっ」
 我に返った私は、声を上げてふたりに駆け寄る。通り過ぎる人はちらちら目を向けるものの、立ち止まる人はいない。藤尾さんは私を見ると、遠慮なく睨みつけてきた。
「あんたが先生とこのガキを引き合わせたんでしょ」
「えっ、……まあ」
「見たのよ、このガキが先生と会ってるの! 最近、ずっと私と会ってくれないと思ったら、こんなガキと遊んでるなんて」
「先生は、わりとそういう人──」
「私は違う! 先生は、私のために奥さんとだって別れてくれたんだからっ」
 茉莉紗さんがうんざりした顔をしている。そんな茉莉紗さんをちらりとして、ほんとに先生と会ってたんだ、と思ってしまう。少しは、先生に心が動いていたのかな。
 ともあれ、茉莉紗さんだけでも解放しないと。そう思って、「放してあげてください」と茉莉紗さんの腕をつかむ藤尾さんの手をはらおうとしたときだった。
「茉莉紗ちゃんっ」
 背後から慌てた声がして、振り向くと白衣を着たままの七重先生だった。私は一歩引いて、そこに先生が割りこんで、茉莉紗さんを引き留める藤尾さんの手を振りはらう。茉莉紗さんを背後にかばうと、「何やってんの」と藤尾さんを見つめた。藤尾さんは先生を見上げると、「そんな、若いだけの女のどこがいいの!」と表情を崩して泣き出した。
 先生はため息をつき、ちょうどよく来たな、と思ったら私の腕を引っ張る人がいてかえりみる。遠藤さんだ。「あたしがスマホで先生呼んだわ」と遠藤さんが言い、やっと納得する。
「茉莉紗ちゃん、大丈夫だった?」
 泣き出した藤尾さんは置いておき、七重先生は茉莉紗さんに軆を向けた。茉莉紗さんは氷点下の冷え切った顔をしていた。先生もまずいと感じたらしい。「この人はね、」と説明しようとしたものの、茉莉紗さんは「興味ありません」とさえぎった。
「彼女、やっぱりいたんですね」
「いや、この人はほんとただの腐れ縁──」
「その人のために奥さんとも別れたんでしょう?」
「まあ、そのときは、」
「じゃあ、腐れ縁だろうが、責任取ったほうがいいと思います」
「もう僕はこの人に興味な──」
 茉莉紗さんの鋭い平手打ちが、最後まで言わせなかった。「やるじゃん、あの子」と遠藤さんがつぶやく。先生はぶたれた頬に触れて泣きそうな目を茉莉紗さんに向け、しかし茉莉紗さんの零度の瞳は揺らがない。
「少し、いい人かなと思ってましたけど。知識だけの人ですね」
「茉莉紗ちゃん、」
「人の気持ちをぜんぜん分かってない。なのに、よくそんな仕事できますね」
 そう吐き捨てると、茉莉紗さんは身を返し、縛った黒髪をなびかせてその場を立ち去った。「茉莉紗ちゃん」と先生は追いかけようとしたけど、「先生、午後診あります」と遠藤さんがそれを止める。「でも、でも、」と先生は子供のように遠藤さんにすがろうとしても、「あの子は先生にはもったいないです」と遠藤さんはきっぱり言ってしまう。藤尾さんはまだわんわん泣いている。
 ああ、もう。いつこうなってもおかしくなかったけれど。先生の言動を考えていたら、致し方ないけれど。それでも、ついにこうなってしまったかと虚脱して考えてしまう。

第十二章へ

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