ずっと幸福であるように
その夜、夕食の豚肉の生姜焼きを紅磨くんと食べながら、昼間のことを話した。「うわー、修羅場だ」と紅磨くんはキャベツの千切りにサウザンドドレッシングをかけて、「茉莉紗さんは先生に愛想尽かしただろうなあ」と私はタレが染みこんだ生姜焼きを口に運ぶ。「茉莉紗がデートまでする男なんて、初めて聞いてたのにな」と紅磨くんはもさっとキャベツを頬張ってもぐもぐとする。
「あー、どうしよう、明日仕事行きたくないなあ。ぴりぴりした空気になっちゃいそう」
「心療内科としては由々しいね」
「出勤したらすぐ心理室こもろう……そして何も知らないみたいに帰ってくる。しばらくそうする」
「あんまり、そこで無理しないでね。別の職場も考えててもいいと思うよ」
「……そうだね。はあ、七重先生、仕事に関しては尊敬してるのになあ」
「いや、プライベートで職場乱す時点でダメでしょ」
「そうなんだけど」と言いつつ、私は肉じゃがのほくほくしたじゃがいもを頬張る。ぼんやり、面接したときの七重先生を思い出した。
あのとき、先生は私のことを──
翌日、霧雨が降る中を恐る恐る出勤すると、空気は張りつめるどころか淡々としていた。誰も昨日のことに触れなくても、それでいらいらしている様子はない。そこはちゃんと、メンタルクリニックとして切り替えるのかもしれない。何だかんだプロかあ、と思いつつ、白衣を着た私はその日も心理室で子供たちの心を診て過ごした。
十三時過ぎにひと区切りついて、給湯室で紅茶を飲んでいると遠藤さんが「悠海先生、お疲れ様ですー」と入ってきた。「お疲れ様です」と答えていると、遠藤さんは冷蔵庫の紙パックのミルクティーを取り出し、ストローに口をつけてから「やっときちんと別れたらしいですよ」と言った。
「えっ」
「七重先生と藤尾さん。昨日の夜、話し合ったみたいで」
「そう、なんですか」
「藤尾さん、あたしに引き継ぎの方法とか訊いてきたんで。辞めるのかもしれませんね」
「……そうですか」
「そうでもならなきゃ、あたしが辞めそうでしたけど」
「私も彼氏に辞めてもいいんじゃないって言われました」
「考えますよねー。七重先生はやっぱいいお医者様だなと思うんで。正直、藤尾さんのほうが辞めるならほっとしますね」
「私も、お医者様としては七重先生はすごいなと思ってます」
「ふふ。頑張って、ふたりであの女たらしをサポートしていきましょうね」
「そうですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
遠藤さんはにっこりして、それから「お昼食べてきます」と中身が残っているらしいミルクティーを冷蔵庫に戻すと、給湯室を出ていった。
私は砂糖の溶けこんだ甘い紅茶をすすり、別れたのかあ、と思った。藤尾さんは、七重先生と結婚まで考えているようだったし、ショックだろうな。私だって、いまさら紅磨くんと別れることになったら立ち直れない。
先生と藤尾さんが改まって別れたと聞いて、茉莉紗さんはどう反応するだろう。かなりかたくなに怒っていたけど──そんなことを思っていると、がちゃっと給湯室のドアが開いて当の七重先生が顔を出した。
「悠海ちゃん。よかった。探してた」
「何ですか?」
「室沢さんって患者さんが急に来てて。待合室にいる。もう午前診終わったけど──」
「行きます。娘さんも一緒ですか?」
「いや、娘さんひとりなんだ。悠海ちゃんにママを助けてほしいって」
私は表情をこわばらせ、待合室に向かった。患者さんのいなくなったそこで、藤尾さんが女の子と向かい合っていた。私に気づくと、藤尾さんは立ち上がって頭を下げ、身を引く。「莉菜子ちゃん」と私がひざまずいて声をかけると、髪も服も雨に濡れてぼろぼろと泣いている七歳の女の子は顔を上げた。
「悠海、せんせ……」
「ママは一緒じゃないの?」
「ママ、パパに怒られてて……私、パパがいないからお部屋から出てたの。そしたら、パパがお仕事早く終わって帰ってきて」
「うん」
「パパが、自分に会いたくなくて引きこもってるなら、家から消えろって、私のことお庭に出したの。それをママが助けようとしたら、パパがママのことたたいて」
私は莉菜子ちゃんの足元を見て、靴を履いていないことに気づく。汚れた靴下が湿っている。たたき出されて、そのままここに駆けこんできたのだろう。
「パパと同じおうちにいたくない……。ママのこと怒ってばっかりで怖い……」
「そうだね……ママがつらいと莉菜子ちゃんもつらいもんね」
「助けて、悠海先生。ママのことも助けて。パパから助けて」
「莉菜子ちゃんのことは、僕が児相に相談してみよう」
いつのまにか背後にいた七重先生が、いつになくしっかりした口調で言った。
「悠海先生は、おかあさんに莉菜子ちゃんはうちが預かってることを伝えて。おとうさんに察知されないようにね」
先生がてきぱきと指示を出して、「はい」と答えた私は一度莉菜子ちゃんをぎゅっと抱きしめて頭を撫でて、軆を放した。「室沢さんのスマホの番号、ひかえてありますか?」と藤尾さんに訊くと、「あるはずです」と藤尾さんは受付の中に入ってファイルをめくる。七重先生は莉菜子ちゃんの隣に座り、優しく話しかけている。
私は莉菜子ちゃんのおかあさんのスマホに電話をかけたけれど、まだ立てこんでいるのか、出る気配がない。しかし、こちらの着信がついているだけでも、何か察して折り返し連絡をくれるだろう。それを七重先生に伝えると、先生はうなずいて「莉菜子ちゃんはベッドで休ませてあげよう」と具合が悪くなった患者さんのための仮眠室に莉菜子ちゃんを連れていった。私がベッドサイドに付き添い、先生は「心当たりに一時預かりだけでも頼んでみる」と仮眠室を出ていった。
とはいえ、莉菜子ちゃん自身が殴られたわけではないのと、どこの児童相談所も飽和状態なので、なかなか受け入れ先が見つからなかった。やがて午後診が始まってしまい、七重先生は私と莉菜子ちゃんに謝って、診察に入った。
夕方が終わりかけた頃、強くなってきた雨の中から莉菜子ちゃんのおかあさんが病院に駆けこんできた。莉菜子ちゃんの無事を確かめると、ずぶ濡れのおかあさんは安堵をあらわにしていた。旦那さんが出かけて、庭を見たら莉菜子ちゃんがいなくてかなり焦ったらしい。警察に、とスマホを取って初めて着信に気づき、傘も投げ出して走ってきたそうだ。
私は七重先生が児童相談所に保護してもらうよう計らっていたことを話した。すると、おかあさんは首を横に振り、「この子と実家に帰ります」と言った。実家には莉菜子ちゃんの病弱な祖母しかいなくて、けして養ってもらえないのは聞いている。そして、その祖母の医療費などをはらってやると言われたので、今の旦那さんと結婚したのだと。
「自分では面倒見れないってあの人に甘えたから、こんなことになったんです。でも私の母だし、莉菜子だって私の娘だから。莉菜子が誘拐されたかもって思って、初めて、この子を守れるように自立しなきゃって思いました」
私は莉菜子ちゃんのおかあさんを見つめ、いつも不安げに揺れていた瞳が決意を固めているのを見取ると、「私もいつでも手助けしますので」と言った。おかあさんはうなずき、「ありがとうございました」と頭を下げた。ふたりは診察の合間の七重先生にも挨拶し、病院をあとにした。旦那さんが帰宅している危険を考え、このまま荷物すらまとめずに実家に直行するそうだ。
落ち着いた、と思った頃には二十時が近かった。更衣室に向かう前に、待合室を通って藤尾さんに頭を下げると、藤尾さんは目は合わせなかったけど軽く会釈を返してきた。
更衣室でスマホを見ると、紅磨くんから着信がついていて『悠海さん、今どこ?』と心配するメッセが届いていた。私は通話をタップして、スマホを耳に当てた。ワンコールで紅磨くんが『もしもしっ』と出た。
『悠海さん。今、俺もう部屋なんだけど──』
「ごめん、ばたばたして。まだ病院なの」
『え、また医院長の女沙汰……?』
「まさか。患者さんに大変なことがあって、付き添ってただけ。今から帰るよ」
『迎えにいくよ。暗いし』
「疲れてない?」
『大丈夫。悠海さんこそ疲れてない?』
「うん。紅磨くんの声聴いたら、元気出た」
『へへ。俺も悠海さんに何もなくてほっとした。今夜は俺が夕飯作ってあげる』
「ほんと? じゃあ、買い物して帰らないとね」
『そだね。よし、じゃあ歩いて二十分くらいだよね。ビルの一階で待ってて』
「分かった。雨降ってるから、気をつけてね」
『了解っ』
そうして通話を切ると、私は荷物をまとめて病院を出た。大粒の雨が降りしきっていて、莉菜子ちゃんには忘れられない雨になるだろうなあなんて入口の軒先に立つ。
濡れたアスファルトの匂いがして、降る前は冷たかった空気は、降り出した今は蒸して生温い。
南乃や莉菜子ちゃんのおかあさんを想い、結婚してそれがゴールじゃないんだなと闇を切り裂く銀色の糸を見つめた。私は紅磨くんとはおつきあいが長くて、結婚にたどりつけたら幸せだなあなんて思うけれど、そこからまた新たに始まるのだ。紅磨くんは子育ては手伝ってくれると思う。私にひどいこともしないと思う。それでも、何か問題が起きて、つまずくことってあるのかな。
そんなの全部杞憂で、紅磨くんと結婚しても、今まで通り穏やかで幸福だといい。そんなことを祈っていると、雨音の中から名前を呼ばれた気がした。顔を上げると、傘をさした紅磨くんが水溜まりを蹴散らかして駆け寄ってきている。
私はそれを手を振って応えながら、この人なら信じていいよね、とひとり微笑み、こちらも歩み寄るためにぱっと傘をさした。
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