想い続けた存在
「どうしよう、悠海ちゃん」
夜のあいだは、雷も鳴るほどの豪雨だった。それが明け方になって落ち着いてきて、出勤するときには雨はあがっていた。空を覆っていた灰色の雲もちぎれ、青空が覗いている。天気予報は晴れだったけど、念のため折り畳み傘はバッグに入れてきた。
更衣室に荷物を置いて、白衣を羽織って待合室を通りかかると、いきなり七重先生につかまって腕を揺すぶられた。私は先生を見上げ、「室沢さんに何かあったんですか」と真っ先にそれを心配する。
「違うよ、茉莉紗ちゃんにブロックされたかもしれないんだ」
一気に緊張感が抜けた。「返信がない」とか「既読もつかなくなった」とか、先生は私をぐらぐら揺すって、「いや、ええと」と私は背後の受付にいる藤尾さんが気になりながらも言う。
「それは、わりと当たり前というか」
「悠海ちゃん、取り次いでくれない? ちゃんと別れたんだよ、僕たち。ね、そうだよね」
「……そうですね」
藤尾さんがぼそっと言って、七重先生の恋愛の神経が分からない、と思ってしまう。
「別れたっていうメッセには既読ついたんだけどさ、そのあと全部未読スルーなんだよ。これってブロックされてない? まだ僕、登録されてるかな?」
「分からないですけど、茉莉紗さんを口説くのはもう無理なのでは」
「やだー」
「『やだー』って、先生も子供じゃないんですから」
「僕は恋をしてるときは少年だよ!」
「先生、そろそろ午前診の患者さん通しますよー」
私が困っているのを見兼ねたのか、遠藤さんがそう言って受付から出る。
「待って待って。ほんとちょっと待って。ねえ悠海ちゃん、僕が茉莉紗ちゃんのこと恋愛感情だけで執着してると思う?」
「思ってますけど」
「ひどっ。あの子、精神科で働くことに興味があるみたいでね。看護師の資格とかも考えてるんだよ」
「えっ」
「僕はそのことでいろいろアドバイスもしてて──」
私がまばたきをしていると、遠藤さんが病院の入口のロックを開錠する。
「はーい、おはようございます。雨がやんでよかったですねえ」
遠藤さんの誘導で、廊下で待機していた患者さんが入ってくる。先生は咳払いをして私の腕を放すと、「とにかく」と急に威厳のある声で言った。
「僕は彼女が心配だから、悠海先生も気にかけてあげるように」
豹変の仕方に私が唖然としていると、「おはようございます」と七重先生はきりっと患者さんにひとりずつ挨拶をして、診察室に入っていった。
いろんな意味ですごいな、あの人。私は息をつくと、患者さんに物柔らかな笑顔を作って心理室に入った。
PCを起動させながら、ため息がもれる。心臓に靄が絡みついていた。その靄に圧迫されるように鼓動が痛む。精神科で働くこと。看護師の資格。現役の精神科医である七重先生のアドバイス。茉莉紗さんは七重先生のそばにいたいのだ、とは思わなかった。私がとっさに思ったのは──
紅磨くんと、一緒に働きたいのかな。
その日の仕事が昼下がりに終わっても、雨は降っていなかった。太陽は雲に隠れて空気はひやりとして、街路樹の鮮やかな緑が視覚を刺す。
私は歩いてすぐの場所にある調剤薬局に向かっていた。自動ドアが開かない位置で中を窺うと、ちょうど白衣を着た茉莉紗さんが、受け渡し口で患者さんに処方薬を説明している。薬を受け取った患者さんが薬局を出たとき、外にいる私に茉莉紗さんも気がついた。頭を下げられて、こちらも同様に返す。けれどそのまま、茉莉紗さんは奥の調剤室に入ってしまった。
別に、七重先生のことを勧めるつもりはないし。紅磨くんのそばにいたいのかなんて訊くつもりもない。でも、茉莉紗さんとはちゃんと話したほうがいい気がする。お昼でも一緒にできたらいいんだけどな、とその場でぐずぐずしていると、ふとスマホが鳴った。
誰だろ、と確認すると、七重先生だった。
『見てるから頑張ってね』
はたっと周りを見まわした。しかし、隠れているのか、七重先生のすがたは人の行き来の中に見つからない。私はメッセを見直し、ちょっとホラーなんですけど、と思った。
頑張るって何を、と首を捻りながらスマホをバッグにしまっていると、「悠海さん」と不意に声をかけられた。慌ててそちらを見ると、茉莉紗さんがいた。白衣は脱いでいる。
「あっ、ど……どうも」
「お仕事、終わったんですか」
「はい。茉莉紗さんは昼休みですか」
「そうです。今から何か食べにいきます」
「よかったら、一緒にってダメですか」
「構いませんけど」
「ファミレスでいいですか?」
「はい。そういえば、このあいだは絵梨紗がお世話になったみたいで」
「いえ。私も楽しかったので」
「そうですか」
何か会話が乾いてるな、といつもながら感じつつ、私は茉莉紗さんといつものファミレスに向かった。先生どこから見てるんだろ、と一抹の不安も覚えつつ、ランチタイムで賑わっているファミレスの席で茉莉紗さんと向かい合う。
私はランチのサラダ付きジェノベーゼ、茉莉紗さんはパエリアとささみのサラダを注文した。
「え……と、」
別に先生のことを話す気はなかったのだけど、どこからか期待されているのなら、結局部下としては応じなくてはならない。
「七重先生、ブロックされたかもって心配してましたよ」
茉莉紗さんはお冷やを口にしてから、「ブロックはしてませんけど」と言った。
「非表示にはしてます」
「そう、ですよね」
「あの人、思っていた以上に軽薄ですね」
「ほんとにデートとかしてたんですか?」
「食事をご一緒してただけで、あたしはデートとは思ってません」
「……そんなことだろうと」
「そのときにしてもらってた話は、興味深かったんですけどね」
どきりとしつつ、「精神科の話ですか?」と平静を装う。茉莉紗さんは私をちらりとして、「そうですね」と淡々と肯定した。
「茉莉紗さん、精神科に興味あるんですか」
「調剤で働いてると、大量に薬を処方される精神科の患者さんが何だか心配で。ほんとにこの処方でいいのか、ちゃんと知れる現場にも行きたいなって」
「そうなんですか」
「紅磨も、疑問があるなら現場で納得したほうがいいって」
茉莉紗さんを見る。紅磨くんにも、相談したのか。ふたりに私の知らないやりとりがあったと知るだけで、胸がざわめく。茉莉紗さんの凛とした声が紅磨くんを呼び捨てにするのも、やっぱり心に小さな切り傷を作る。
「私……は、」
氷の浮かんだお冷やの水面を見つめ、私はあやふやに咲った。
「もしかして、紅磨くんの職場に行きたいのかな……って」
茉莉紗さんは眉を寄せて私を見た。その表情に「ごめんなさい」とすぐにつけたしてしまう。茉莉紗さんは黒く長い睫毛を伏せ、「紅磨と悠海さんのことは、あたしはほんとに応援してるので」とどこか疲れたような口調で言う。
「紅磨がどれだけ悠海さんを想って、探してたか……あたしが一番知ってます」
「うん」
「ちゃんと、言いましたよね」
「言われました」
「じゃあ、それを信じてください」
「……すみません」
謝りながらも、不安はかえってふくらんでいく。茉莉紗さんの睫毛が震えていて、感情を殺した息苦しさを表情に滲ませているからだ。
私も心理士をやっていて、だいぶ表情や所作や言葉から、その人の心を察知できるようになった。茉莉紗さんは紅磨くんの気持ちをよく知っている。それを私にも宣言した。しかし、私の目を見て断言しない。それはきっと、茉莉紗さん自身は、紅磨くんと私を応援する自分を信じ切れていないということで──
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