角砂糖をちょうだい-14

もし踏み出せるなら

 気まずい沈黙のあいだに料理が来た。けれども、私も茉莉紗さんも手をつけない。注文したジェノベーゼの、バジルのおいしそうな匂いの湯気をただ見つめる。
「……でも」
 茉莉紗さんを見た。茉莉紗さんは眉をゆがめて、消え入りそうにつぶやいた。
「あなたが、いても……紅磨はあたしの──」
「茉莉紗ちゃん!」
 続きかけた茉莉紗さんの言葉に目を開いた瞬間、そんな声が割って入った。慌ててきょろきょろすると、私の背後のパーテーションから七重先生が顔を出していた。ほんとに尾けてたのか、とあきれてしまうと、驚く茉莉紗さんのかたわらに先生は歩み寄る。
「それは言っちゃダメだ」
 茉莉紗さんは七重先生を見上げる。「言ったら勝てるかもって、分かってるんでしょ」と先生は茉莉紗さんを見返して静かに言う。
「悠海ちゃんは優しいからね、きっとその言葉にめちゃくちゃに傷つく。不安定になって、彼氏くんと喧嘩することにもなる。それを望むのは、醜いよ」
「っ……」
「だから、言っちゃダメ」
「……というか、何で、あなたがここにいるんですか」
「そこは置いといて。茉莉紗ちゃん、そろそろ彼のことは忘れよう? 僕も彼にちらっと会ったけどねえ……あれは悠海ちゃんしか見ない男だよ。悠海ちゃん以外の女なんて、知ったこっちゃない感じでしょ。それを君は、最も近くで見てきたんだよね?」
「………、」
「だから、君は君を幸せにしてくれる男を探しなさい。彼は君を幸せにしない。できないよ」
 茉莉紗さんはうつむき、瑞々しい唇を噛みしめた。先生はひざまずいて茉莉紗さんの視線の高さになると、「何なら僕が幸せにしてあげるから」と言い、「あなたは紅磨とぜんぜん違う」と茉莉紗さんは押し殺した声で答えた。すると先生はからからと笑い、「だからいいんじゃない?」と茉莉紗さんを覗きこんだ。
「僕は彼と違って、君のことを女性として見つめるよ」
 茉莉紗さんは黙っていたけれど、急に鼻をすすったかと思うと、目の中に涙を溜めて、もっとうなだれた。私が息を飲んでいると、ほろほろと涙が茉莉紗さんの服に飛び散っていく。
 小さくわななく呼吸に、私も胸が苦しくなった。この子は、それだけ紅磨くんのことを──
「あなた……に、とって、女性なんて、あたしだけじゃない」
「君だけって約束すれば、今度こそ本当のデートしてくれる?」
「約束なんて破るくせに」
「まだ僕たちは約束なんてしたことないでしょ。ねえ、僕が君を支えるよ」
「っ……」
「僕は茉莉紗ちゃんを幸せにする」
 私は茉莉紗さんの瞳がこぼす雫を見つめ、七重先生の真剣な横顔も確かめた。それからふうっと息をついて、「先生」と呼ぶ。
「うん?」
「先生は、茉莉紗さんを傷つけることはしないんですね?」
「しないと思うよ」
「と思う」
「しないよ」
「約束できるんですね?」
「もちろん」
「破ったら、紅磨くんに怒ってもらいますよ?」
「彼氏くんが怒るの?」
「私と茉莉紗さんをいっぺんに裏切ったら、それは紅磨くんは──」
「あー、怒るね。すごい殴られそうだね、僕」
 先生はあははと笑って、私は肩をすくめたあと、茉莉紗さんの名前を呼んだ。茉莉紗さんは頬に伝う涙をはらい、赤くなった瞳で私を見る。
 隣にいた紅磨くんが、自分じゃない女に心を決めたときから、この女の子はどれだけひとりでそうして泣いてきたのだろう。
「茉莉紗さん」
「……はい」
「私が言うのは何なんですけど、先生は本当にすごい人なんです」
「え」
「確かに女たらしなとこはどうかと思うんですけど、人の心に関してはものすごい才能があります」
「………」
「私が……昔、小学生の紅磨くんに助けてもらったことは知ってますよね」
「……はい」
「当時の記憶が私はほとんどなくて、再会したときは紅磨くんのことも忘れてたくらいで。そんなふうに、私はあの頃出逢った人をまともに憶えてないんです。だから、先生のことも忘れてました」
「えっ」
「あんなことをしたんですから、私も精神科に通ってた時期があるんです。そのとき診てくれたのが、開業する前だった七重先生なんです」
 茉莉紗さんは目を開く。私は小さく咲って、「私はすごく生意気な患者で」と視線を下げる。
「あんたに私の気持ちなんか分からないとかさんざん言った挙句、すぐ通院も辞めちゃいました。診てもらったのは、ほんとに二、三回です。別に、あの頃記憶が混乱してなくても、忘れてしまうかもしれませんね。でも、私が今勤めてる七重先生の病院の面接に行ったとき、先生は私のことを憶えてくれてたんです」
「………、」
「十年ぶりぐらいです。もっとかもしれない。そして、紅磨くんに出逢って変われた私を信じて、雇ってくれました。あんな状態を見たことがあるんだから、遠慮されて当然なのに。彼氏が君を強くしてくれたんだねって、私の心を理解して、心理士として信用してくれたんです」
 茉莉紗さんはゆっくり七重先生を見た。七重先生は「悠海ちゃん、ほんとに荒れた患者さんだったんだよ」とくすりとした。
「先生は優秀な人です。女癖は悪いけど、それさえ治せば素敵な男の人です。だから、茉莉紗さんが先生を治してあげてみませんか」
 茉莉紗さんは再びこちらに目を向け、私は穏やかに微笑んだ。茉莉紗さんはゆっくり一度まばたきをしたあと、泣き笑いのような笑みをこぼし、「あたしに治せるでしょうか」と言う。「茉莉紗さんは、私がずっと焦ってたぐらい魅力的な人なので」と私は笑顔で答える。すると茉莉紗さんは、目を伏せて静かにうなずくと、七重先生を向いた。
「じゃあ……、デートの約束から、始めましょうか」
 七重先生はぱあっと子供のように破顔して、「喜んで!」と茉莉紗さんの手を取って握りしめた。ここは、もうふたりにしたほうがいいかな。そう思ったので、「先生、このパスタおごるんで茉莉紗さんとランチしてください」と私は席を立った。先生は私にもにっこりすると、「ほんとに強くなったね」と優しく言った。私はそれににこっとすると、自分の伝票をつかんで会計へと向かった。
 気持ちの良い梅雨の晴れ間の下を歩き、スーパーで自分のお昼と、ふたりぶんの夕食の材料を買ってマンションに帰ってきた。エレベーターを降りて、鍵を取り出していると、だしぬけに「悠海さんっ」という元気な声がかかる。
 目を向けると、開襟シャツにスラックスの夏服になった蒼磨くんが、こちらに駆け寄ってきていた。そして、「あんた、犬じゃないんだからさー」と言っている絵梨紗ちゃんもドアの前にいる。ふたりが揃っている、ということは、もしかして──
「悠海さん、俺、絵梨紗とつきあえることになったっ」
「ほんとに?」
「ほんとに!」
「わあ、おめでとう! 頑張ったね」
「頑張ったー。あと二回で告白が十回いきそうだった」
 私は咲いながら、背伸びして蒼磨くんの頭をくしゃっと撫でてあげた。「へへ」と蒼磨くんは得意げに笑って、「マジで犬だし」と絵梨紗ちゃんが蒼磨くんの隣に並ぶ。
「絵梨紗ちゃんも、やっと素直になれたんだね」
「ん、まあ……いや、ほんと悠海さんのおかげです」
「よかった。あ、友達の男の子のほうはちゃんと断った?」
「はいっ。好きな人じゃないとつきあえないって言いました」
「はは、すごい直球」
「『そうだろうな』って言ってて、これからも友達ではいてくれるみたいです」
「そこ心配してたもんね」
 私の腕にじゃれついていた蒼磨くんは、「友達でもあいつが近くにいるの俺はやなんだけどー」と絵梨紗ちゃんに向かって不服そうにむくれる。
「あ、そういう束縛いらないから」
「うー。俺は女友達とかいないのに」
「蒼磨くんはきっとこれからモテるから、浮気しないようにしないとね」
「しないよっ。ずっと絵梨紗だけ好きだったんだもん」
「ちょっ、ナチュラルにそういうの言わないでって言ってるじゃない!」
「いいじゃんっ。好きー。絵梨紗が好きー」
「もおっ。調子に乗るなっ」
 頬を染めてじたばたする絵梨紗ちゃんに、蒼磨くんはやんちゃに笑いつつ、とても優しい瞳をしている。その瞳に、兄弟だなあなんて思う。
「とりあえず部屋に入ろうか」と私がうながすと、「はあい」とふたりは揃って返事した。こんな弟と妹、本当にもう、かわいすぎる。そう悶えたくなりつつ、私は息を吐いて冷静を保つと、自然と手をつないでいるふたりを部屋に招き入れた。

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