角砂糖を頬張るみたいに
梅雨が明けて、カレンダーは七月になっていた。
私は今月、三十二歳になる。十月まで紅磨くんとは八歳差かあ、なんて思いつつ、クーラーでちょっと軆が冷えたのでベランダに出た。
生温い空気がぬるりと肌にまとわりついて、わりあい静まり返った中、どこかの食事の匂いがうっすらただよってくる。周りのマンションの窓にはたくさん明かりが灯って、それより上、晴れ渡った夜空には月と星がさらさらと輝いていた。
以前はときどき紅磨くんと海に行って星見デートをしていたのが思い返り、ここのところはいそがしくて行けてないなあ、と思っていると、開け放ったままのガラス戸から、「悠海さん」とお皿を洗っていた紅磨くんの声がかかった。
「どうしたの? 外、何かある?」
「ううん、ちょっとクーラーがきつくて」
「え、じゃあ温度上げていいのに」
紅磨くんはマグカップを片手に持っていて、それをすすりながら一度リビングに戻って、エアコンのリモコンをいじる。それから、ベランダに出て私の隣に並んだ。「これぬるいから」と紅磨くんは私にマグカップをさしだし、素直に受け取ってひと口飲んだ私は、相変わらずの甘さに咲ってしまう。
「もう鈴虫とか鳴いてるよね。五階じゃ聴こえないけど」
「まあ、虫が遠いのはいいことだよ」
「このマンション、奴が出ないから助かるよね」
「奴ね」
「いや、もし出たら俺が倒すから大丈夫だよ?」
「はは、頼りにしてる」
「奴だけじゃなくて、何からだって、悠海さんのことは俺が守るんだから」
私は紅磨くんを見上げて、うなずいて微笑した。紅磨くんは私を見つめ返し、照れ咲ってから天を仰ぐ。
「悠海さんの誕生日さ」
「うん」
「ちゃんと休みにしてるから、悠海さんも休みにしててよね」
「一応そうしてる」
「よかった。また海とか行きたいなあ」
「星見たいよね」
「うん。映画もいいなー。温泉とかに泊まってもいいかなー」
「この部屋でゆっくりするのもいいけどね」
「その場合、蒼磨が来ても居留守だよ?」
「あはは。そうだね、さすがにふたりがいい」
そう言って、もうひと口すすってから「ん」とマグカップを返すと、受け取った紅磨くんも少し飲んでマグカップを桟に置いた。それから私の肩を抱き寄せ、「誕生日だけじゃなくて、いつも悠海さんとふたりがいいや」とつぶやく。
「いつも?」
「うん」
「ずっと?」
「うーん、いつか子供ができるから、ずっとではない」
「そっか」
それはそれで嬉しい未来なので、柔らかく微笑む。私は紅磨くんの温かい腕の中に寄り添い、そんな私の髪を撫でていた紅磨くんは、ふと咳払いした。
「あのさ、悠海さん」
「ん?」
「一度、ちゃんと言っておきたいことがありまして」
「はい」
「今すぐは、無理なんだけどね。仕事もまだ落ち着かないし。けど……そうだな、三年。三年以内にね」
紅磨くんが私の瞳を覗きこんで、私もそれを見返す。視線が絡みあって、蕩けるように瞳が潤む。
「俺と、結婚してくれますか?」
私は紅磨くんを見つめた。通じあった瞳から、涙がこみあげる。それでも私は笑顔を作り、「うん」と答えた。すると、同時にそっとキスが降ってくる。
紅磨くんの敬語、久々に聞いた。目を閉じながらそんなことを思う。懐かしいな。初めは、それほど距離があったのに。今はこんなにそばにいる。
三年経つ頃には、きっと私は紅磨くんの奥さんになっていて。そのあとうまくいけば子供も作って、三人になって。いずれ夢も叶えて、ふたりで心療内科を開業して。そしてその先も、私の隣には紅磨くんがいるといいな。
紅磨くんとの恋は、いつだって甘い。その甘さは周りの人にも広がる。私たちが幸せであるように、蒼磨くんも紫磨ちゃんも、絵梨紗ちゃんも茉莉紗さんも、みんな甘く幸せでありますように。
そのお砂糖を分けてちょうだいと言われたら、お裾分けでその人も救ってあげられるような──そんな夫婦に、お医者様になろう。
私の心をしなやかに癒やしてくれたあなたなら、きっと角砂糖を頬張ったみたいに、心が傷ついた人のことも笑顔にしてあげられるって、私は信じてるよ。
FIN