みんな誰かに恋してる
「あれ、悠海ちゃん、まだ帰ってなかったんだ」
そんな声がまた脇から聞こえてきて、私は顔を向けた。そこには白衣を脱いで傘を持つ、七重先生が立っていた。「やっとお昼ですか」と尋ねると、「うん、そう」と先生はうなずいて、何気なく茉莉紗さんを見る。
そして、驚いたようにまばたきをした。そんな先生に、茉莉紗さんは怪訝そうにする。
「え、悠海ちゃん、この美しい方は」
「……知り合い、です」
友達ではないよな、と頭の中で確認する。
「美人の知り合いは紹介してって言ってるじゃない」
「初めて聞きましたけど」
「紹介して」
「………、茉莉紗さん、この人、私が勤めてるクリニックの医院長先生です」
「……はあ」
茉莉紗さんは七重先生に不審者を見る目をして、先生はそんな目をものともせずにこにこをしてみせる。
「それで──知り合い、というか。彼氏の幼なじみの公本茉莉紗さんです」
「えっ」
先生はびっくりした顔で私を見て、「彼氏の」と繰り返した。「そうです」と念を押すと、「いやっ、悠海ちゃんもかわいいけどね?」と先生は唐突なことを言って、私が眉を寄せると、何やらふーっと息をつく。
「彼氏は、よほど悠海ちゃんしか見えてないんだね……」
「……何ですか、いきなり」
「いやいや。気にしないで。──ええと、茉莉紗ちゃんでいいかな?」
「公本でいいです」
「茉莉紗ちゃんでいいね。彼氏はいるのかな?」
始まった。私は息をついて首を垂らし、茉莉紗さんは明らかに鬱陶しそうな面持ちになる。
「まあ、普通に考えているか。でも、今ここで僕に乗り換えてもいいんだよ?」
「遠慮します」
「悠海ちゃんの彼氏ってどんな?」
「………、色ボケです」
「ははっ。いいんじゃないかなあ、色ボケ。茉莉紗ちゃんだって、今の彼氏と幸せでしょ?」
「彼氏はいないので」
「はっ? ほんと? 何で何で?」
「仕事がいそがしいので」
「えーっ、何の仕事?」
「関係ありません」
「気になるなあ。モデルさん?」
茉莉紗さんは答えるのをやめて、急にパスタを食べる速度を上げた。完全にこの場を去るつもりだ。「悠海ちゃんは茉莉紗ちゃんの仕事知ってる?」と先生は私に振り、茉莉紗さんはぎっと私を睨んだ。「よく知らないです」と私はあやふやに咲う。
「茉莉紗ちゃん、そんなに急いで食べなくても、僕と少ししゃべっていかない?」
「……先生、相手にされてないです」
「僕ね、離婚してフリーだから毎日寂しくてさ」
眼中外の私の言葉は、届いていないようだ。というか、先生には藤尾さんがいるよね?
「用事で急いでるなら、今度ゆっくり──」
茉莉紗さんはすごいスピードでパスタを平らげ、フォークを置いた。それから息をつき、先生にようやくまた目をやる。
「何でですか?」
「うん?」
「離婚した理由。何でですか?」
「あー、それはねえ。僕の浮気かな」
それ言ってなびく人いないと思います、先生。茉莉紗さんも一気に険悪な眼つきになり、「最っ低……」と苦々しくつぶやく。
「あたしのことバカにしてるなら、」
「バカにしてないよっ。誠実にほんとのこと答えてるだけだよ」
「やってることがぜんぜん誠実じゃないです。あなたに騙された奥さんが可哀想」
言い捨てた茉莉紗さんは、スマホをバッグにしまって席を立つ。しかし立ち去る前に私を見て、「この人に余計な情報流さないでくださいね」と釘を刺してきた。「はい……」と私は気弱に咲うしかない。美人が怒ると怖いって本当だ。
茉莉紗さんは自分の伝票をつかむとつかつかと会計に向かってしまい、「いいなあ」と先生はにやにやしながらその後ろすがたを見送った。そして、当たり前のように茉莉紗さんがいた私の正面に座る。
「悠海ちゃん」
「はい」
「茉莉紗ちゃんの連絡先教えて?」
「……いや、普通に知らないんで」
「ほんとは知ってるんでしょ、スマホ見せなさい」
「ほんとに知らないんで見せますよ?」
「知らないの?」
「知りません。待ってください、スマホ──」
「いや、ほんとに知らないみたいだ。ええー、じゃあ仕事は? 何の仕事してるの?」
「それは茉莉紗さんが露骨に伏せてたので」
「教えてよー」
「本人に訊いてください」
「いや、もう接点ないし」
「………、駅前のどこかで働いてるので、昼休みはこのあたりよく歩いてますよ」
精一杯私が譲歩すると、それだけでも先生はにんまりして「ありがとっ」と無邪気に声を弾ませた。ほんとにこの人、四十歳になる人なのかな。若々しいというか、屈託ないというか──
七重先生はその席に座るまま、昼食を取った。シーフードドリアを食べながら、ずっと私に茉莉紗さんについて質問攻めにしてきた。よっぽど気に入ったらしい。あの容姿だもんなあ、と茉莉紗さんの凛としたルックスを想う。
私が義理を取って口を割らないのをやっと認めると、それでもめげずに、「また明日にね」と先生はいつのまにか空にしたお皿を置いて、午後診が始まる前にファミレスを出ていった。私もすっかり冷めてしまっていたビーフシチューを食べ終え、氷が溶けたお冷やをすする。
そういえば、と窓から外を見ると、傘をささずに歩いている人がいた。雨上がったんだ、と思い、私も席を立つ。夕食の買い出しをしてから、また降ったりする前に帰ろう。
スーパーをうろうろしながら今夜の献立を考えて、買い物を終えると帰宅した。時刻は十七時が近く、まず朝まとめておいた洗濯物を乾燥まで設定してまわしはじめる。それから、キッチンに立って夕食を作りはじめた。鰆の塩焼きをメインに、買ってきたタラの芽を天ぷらにして、昨日パスタに使った菜の花の残りをごま和えにする。それから、豆腐と油揚げの味噌汁、もちろん白いごはんも炊いた。
できあがった夕食に「よし」とひとりうなずくと、洗濯機の様子を見に行く。乾燥が始まっていたものの、まだ二時間くらいまわっているみたいだ。乾燥って時間かかるよなあ、なんて思いながら、リビングに向かおうとしたとき、かちゃ、と背後で鍵の音がした。
ん、と廊下で振り返ると、紅磨くんが「ただいまー」と開いたドアから顔を出す。
「あ、紅磨くん。おかえり」
そう声をかけると、紅磨くんはすぐ私に気づいて笑顔になる。
「悠海さん。ただいま」
「早かったね。いや、もうそんな時間?」
「早いよ。今日は雨で患者さん少なかった」
言いながら紅磨くんは靴を脱いで、私に歩み寄ると、もう一度にこっとしてくれる。
「いい匂いがする。今日の夕飯は?」
「鰆の塩焼きとタラの芽の天ぷら、かな」
「春だねえ」
「はは。さっきできたとこだよ。まだあったかいと思う」
「食べる! 腹減った」
「じゃあ、テーブルに用意するね。紅磨くんは着替えとかしてて」
「了解。あ、待って」
キッチンに向かおうとした足を止めて振り返ると、紅磨くんは私の手首をつかんで引き寄せ、そのままぎゅっと抱きしめてきた。紅磨くんの匂いに混ざるかすかなコーヒーの匂いは、病院から持ち帰った匂いだろうか。
「悠海さんで充電ー」と紅磨くんは私の背中を抱いて、右肩に顔を伏せる。私はくすりと咲って、「今日もお疲れ様」と紅磨くんの頭を右手でぽんぽんとする。
「悠海さんもお疲れ様」
「私は午前中だけだから、だいぶ楽だよ」
「家事とかしてくれてるじゃん」
「紅磨くんのためだもん」
「……へへ。ほんとは、もうちょっと家事も手伝いたいな。ごめんね、仕事ばっかで」
「今はたくさん勉強してていいんだよ。そのぶん家事を引き受けるくらい、私も応援したいもん」
「悠海さんが優しいー。生き返るー」
私はまた咲って、ふと昼間の七重先生の言葉を思い出した。彼氏は、よほど悠海ちゃんしか見えてないんだね。
その言葉のふくむところは、分かる。茉莉紗さんがいるのに。近くにあんなに綺麗な茉莉紗さんがいるのに、私を選ぶなんて──本当に先生は、女性関係になると気遣いがなくなるというか。
「紅磨くん」
「うん」
「私とまた会えてなかったら、今頃、ほかの人とつきあってた?」
「えっ」
「私は……紅磨くんがいなかったら、ひとりぼっちだったと思うの」
「………、再会できなくても、悠海さんのことは忘れなかったと思うよ。ずっと憶えてて、どうなったか心配してた」
「……前、茉莉紗さんもそう言ってた」
「茉莉紗?」
「あの日から、紅磨くんはずっと私を想ってたって」
「茉莉紗は一番俺の悠海さんの話を聞いてくれてたからなあ」
「今日のお昼、茉莉紗さんに会ったよ。茉莉紗さん、薬局の昼休みだったみたいで」
「そうなんだ。元気そうだった?」
「うん。それでね、うちの医院長に逢っちゃって、茉莉紗さんすごい口説かれてた」
紅磨くんは噴き出し、「医院長、安定だなあ」となごやかな口調で言う。
「茉莉紗って甘えるの下手くそだから、意外と年上の精神科医はいいかもしれない」
「そうかな」
「うん。それで、医院長が悠海さんを口説くのはやめるといいな」
「やっぱそこなんだ」
「そこですよ。すっげえ心配なんだもん。ほんとに、言いくるめられないように気をつけてね」
お腹にまわる紅磨くんの腕を抱いて、私は少し声を出して笑ってしまった。「えー、笑うの?」と紅磨くんが不服そうにして、「何か嬉しくて」と私は紅磨くんの頭にこめかみを当てる。
紅磨くんは私のことを想ってくれている。だから、七重先生が茉莉紗さんを口説いても穏やかだけど、私だと心配して妬いてくれる。さりげなく確認できて、嬉しい。それを伝えると、紅磨くんは照れ咲いしながら顔を上げ、私と視線を重ねた。
そして自然と唇を触れあわせて、私を抱く腕に力をこめる。
「悠海さん」
「うん」
「飯食ったら、今日はリビングじゃなくてベッド行かない?」
私はまばたきをして紅磨くんの瞳を見てから、はにかみつつこくんとした。「やったっ」と紅磨くんはあどけなく破顔して、私をもう一度抱きしめる。
そのときだった。突然チャイムが鳴って、ん、と私と紅磨くんは一緒に玄関を見る。
「鳴った、よね」
「誰だろ。何時?」
「十九時前だとは思うけど」
「待って、インターホン俺が出る」
「出るの? こんな時間なら無視しても──」
ついで、玄関に置きっぱなしの紅磨くんの荷物の中からスマホが鳴った。「何だよ」と紅磨くんは眉を寄せつつ私と軆を離すと、スマホを探り出す。そして画面に出ていた名前を確かめると、息をついて私に見せた。
表示されている名前は、『蒼磨』。
「蒼磨くん──」
紅磨くんは面倒臭そうに画面をタップして、「もしもし」と電話に出た。すると、案の定ドアの向こうで聞き憶えのある声がする。「こんな時間に何だよ」とか言いながら、紅磨くんは玄関のドアを開けた。するとそこには、私服でスマホ片手の蒼磨くんが今にも泣きそうな顔をして立っている。
「にいちゃあん、悠海さあん」
「蒼磨、お前なあ──」
「ど、どうしたの、蒼磨くん」
「悠海さん、大丈夫だから。あー、もう、情けない顔しやがって。どうしたんだよ」
「うー、絵梨紗があ。絵梨紗があ」
「また絵梨紗絡みかよ。いい加減……」
「あーっ、絵梨紗が男に告られてるの見ちゃったよーっ。もうやだあーっ」
やや近所迷惑に叫んだかと思うと、蒼磨くんはその場にしゃがみこんで、わんわん泣き出した。紅磨くんはさすがに焦り、苦情が来る前にとりあえず蒼磨くんを部屋に入れて、ドアを閉める。
一瞬ぽかんとしてしまった私も、慌てて蒼磨くんのかたわらにしゃがんで声をかけた。蒼磨くんはかなりダメージがあるようで、どくどくと涙を落としている。中学三年生の男の子が人前でこんなに泣くって、一大事だ。
私と紅磨くんは目を交わした。夕ごはん。そのあとのベッド。それは少しおあずけみたいだ。私たちの弟がこんなに痛々しく泣いているなら、やはり、放っておくわけにはいかない。
【第六章へ】