幸せに向かって
蒼磨くんの話によると、今日は勉強を教えてもらうという約束で、絵梨紗ちゃんのことを公本家で待っていた。
でも、なかなか絵梨紗ちゃんが帰宅しない。夕食だから帰ってこいとスマホに着信がつき、仕方なく家に帰ろうとドアを開けたら、家の前で絵梨紗ちゃんが男の子と一緒だった。
それだけでもショックだったのに、彼は蒼磨くんに気づくと、「そいつの前で公本に言っておきたい」と突然絵梨紗ちゃんに想いを告げた。絵梨紗ちゃんがびっくりした様子で何も言わないうち、蒼磨くんはその場を駆け出して、勉強道具の入ったかばんにつながるICカードで、私たちの部屋に向かってきたらしい。
ひと通り話すと、蒼磨くんは私がグラスにそそいだ烏龍茶を飲んで、水分を摂ったせいかまた瞳をうるうるとさせた。
蒼磨くんと向かい合う紅磨くんと、その隣に立つ私は顔を合わせた。「どう思う?」と紅磨くんに訊かれて、「その男の子が蒼磨くんに敵対心を持ってるのは分かるけど」と私が言うと、「そうだね」と紅磨くんもうなずいた。「敵対心?」と蒼磨くんは首をかしげ、「お前に負けてると思ってるから、見せつけたんだろ」と紅磨くんは肩をすくめる。
「そいつがどこでお前のこと知ったかは分からないけど」
「俺に絵梨紗とつきあうの認めてほしいんじゃないの?」
「いや、当てつけだろ。ライバル宣言されたんだよ」
「………、何か、見た目はかっこいい奴だった」
「でも、内心はそうとうお前の存在に焦ってるぞ」
「何で?」
「何でって……」
「だって、絵梨紗は俺のこと何回も振ってるし。それって、絵梨紗もそいつとつきあいたいからじゃないの?」
「お前、けっこうネガティヴ思考だな」
「うるさいなあ。悠海さんは? 悠海さんは絵梨紗もそいつのことが好きなんだと思わない?」
「絵梨紗ちゃんの気持ちは分からないけど、それは、その男の子も同じなんじゃないかな」
「同じ」
「絵梨紗ちゃんの気持ちが、自分に向かってる自信があるなら、蒼磨くんに告白を見せびらかす必要はなかったと思うよ」
蒼磨くんが考えこんだとき、スマホが鳴った。蒼磨くんのスマホだ。蒼磨くんが手に取らないので紅磨くんがスマホをつかみ、ポップアップを見て「かあさん心配してるぞ」と言った。
蒼磨くんは唸ってテーブルに伏せってしまい、紅磨くんは仕方なさそうに自分のスマホからおかあさんに電話をかけた。「蒼磨が落ち着いたらそっちまで送ってく」と紅磨くんは言ったけど、何やらおかあさんはそれを辞退して、おとうさんと蒼磨くんを迎えに来るそうだ。
電話を切ったあとの紅磨くんによると、もう夜だから私を部屋にひとりにするなと言われたらしい。私のことは心配しなくても、と言いかけたけど、すでにご両親はこちらに向かっているだろうし、お言葉に甘えることにした。
そんなわけで、車で来たのか三十分もせずに紅磨くんのご両親が部屋を訪ねてきて、蒼磨くんを引き取っていった。おとうさんは「絵梨紗ちゃんもうちに来て心配してるぞ」と蒼磨くんの頭を軽く小突き、おかあさんは紅磨くんに「たまには悠海ちゃんと一緒に家に遊びに来なさいねっ」と言っていた。
「はいはい」と言いながら紅磨くんは家族を追い返し、部屋が落ち着くと疲れた息を吐いていた。「今度紅磨くんの実家にお邪魔して、ちゃんとお礼言わないとね」と私がくすくす咲いながら言うと、「えー?」と紅磨くんは声を上げていたけど、少し考えてから、「まあ、悠海さんをひとりにするなっていうのはありがたかったかな」とうなずいていた。
そんなわけで、それからしばらく過ぎた連休、私と紅磨くんはお互いの実家を訪ねることにした。暑いぐらいの五月晴れの日、午前中に私の実家を訪ねて両親と四人で昼食を取ったあと、午後に紅磨くんの実家に向かった。
紅磨くんの家の前が前方に見えてきて、「ん?」と紅磨くんが声をもらした。「どうしたの」と紅磨くんを見上げると、「うちの前に何かいる」と言われて、私もそちらを向いた。
すると、確かに紅磨くんの実家の前に若い男の人がいて、何だかそわそわしている。
「まさか、絵梨紗に告った奴かな」
「大学生くらいに見えるよ」
「……だよね。何だろ」
「用があるみたいだけど」
そんなことを話しながら私たちが紅磨くんの家の前に到着すると、その男の人もはたとこちらに気づいた。「うちに何か御用ですか?」と紅磨くんが笑みを作ると、男の人はまばたきをして、「紫磨の家族の方ですか?」と訊き返してくる。
「紫磨──は、俺の妹ですが」
「あ、そうなんですかっ。すみません、俺、家まで来るの初めてで」
「紫磨の友達ですか?」
「えっ……と、いえ、俺、紫磨とおつきあいさせてもらってる──」
「はっ?」
紅磨くんは予想外の大きな声を出して、「えっ?」とか言いながら私を見る。
「な、何──紫磨、とつきあって……る?」
「紅磨くん、落ち着いて。──紫磨ちゃんの彼氏さんですか?」
「はいっ。そうです。えと、おにいさんの奥さん──」
「おにいさんとかまだ認めねえぞっ」
「すみませんっ。つい、」
「紫磨に彼氏? 紫磨に男ができたってこと? どうしよう、悠海さん」
私の腕をがくがくと揺すぶる紅磨くんに、「落ち着いて」と私はもう一度言うと、「すみません」と彼氏さんに謝る。
「彼、地味にシスコンっていうか」
「そ、そうなんですね。俺もすみません」
「今日、紫磨ちゃんと約束してるんですか?」
「はい。でも約束より早く着いちゃって。どうしようって思ってて」
「大丈夫だと思いますよ。一応、紫磨ちゃんに用意できてるか訊いてきますね」
「お願いします」
「紅磨くん、紫磨ちゃんに彼氏さん来てるの、伝えてきて」
紅磨くんはまだぐらぐらしていて、「紫磨に彼氏……」とかつぶやいていたものの、私に背中を押されて家の中に入っていった。私は彼氏さんに、「優しい人なので」と紅磨くんのフォローをして、柔らかなそうな黒髪やなごやかな顔立ちがまじめそうな印象の彼氏さんは、あやふやに咲う。
「紫磨ちゃんと同じ大学とか」
「いや、高校の同級生で。大学は別になっちゃったんです」
「そうなんですね」
「奥さんは──えっと、」
「あ、私がかなり年上です。それと、まだ結婚はしてなくて」
「そうなんですか。すみません、俺、何かたくさん失礼で」
「そんなことないですよ。好きな人の実家は緊張しますよね。私も初めてここに来たときはそうでした」
「彼女さんは、何回も来てるんですか」
「はい。ご両親も気さくな人なので、すぐになじめますよ」
彼氏さんとそんな話をしていると、「晃穂」という落ち着いた声がした。彼氏さんはそちらを見て、「紫磨」と無邪気な笑顔を見せる。
長い髪をポニーテールにまとめて、怜悧な目元に眼鏡をかけた紫磨ちゃんが門扉に歩み寄ってくる。「お前に彼氏は早いだろ」とか言っている紅磨くんもついてきて、「にいさんうるさい」と紫磨ちゃんは兄を無下にしている。
「紫磨ちゃん、こんにちは」
私が声をかけると、「こんにちは、悠海さん」と紫磨ちゃんは私には微笑み、礼儀正しく頭を下げてくれる。ちなみに紫磨ちゃんのほうは、特にブラコンではない。
「紫磨に男って……」
紅磨くんはめまいを感じているような目で、紫磨ちゃんは心底面倒そうにそちらを一瞥する。彼氏さん──晃穂くんは不安そうに、「大丈夫?」と紫磨ちゃんに訊いている。
「何が」
「その、ええと、おにいさん……というか」
晃穂くんがそう言った途端、「おにいさんじゃねえっ」と紅磨くんがまた言ったので、「うるさいっ」と紫磨ちゃんが負けずに言い返す。
「私の彼氏なんだから、おにいさんでしょうっ。ほんと情けない」
「お前なあ、もっといい男がいるだろ」
「どんな男にもそう言うんじゃないの? にいさんには悠海さんがいるんだから、もう私に構わないで」
「構ってるわけじゃなくて」
「鬱陶しい」
「鬱陶しい……」
呪われたみたいな顔をする紅磨くんに私は苦笑し、「同じ日に訪ねちゃってごめんね」と紫磨ちゃんに謝る。「いえ、悠海さんはいいんですけど」と紫磨ちゃんは息をつき、「晃穂、にいさんは気にしなくていいよ」と晃穂くんの手を取った。
晃穂くんはとまどいつつも私たちにぺこりとすると、紫磨ちゃんと一緒に先に家に入っていく。紅磨くんは私を見て、「紫磨に……」となおもつぶやく。
「紫磨ちゃんも女の子なんだから、そろそろ彼氏も作るでしょ」
「あんなの? 何かおどおどしてない?」
「緊張してるんだよ」
「もっと、こう、しっかりした奴じゃないと」
「紫磨ちゃんが選んだんだから、しっかりしてると思うよ。そんなに簡単に男の子を彼氏にする子じゃないでしょ」
「………、紫磨は結局、一度も萌えるような妹にならなかった……」
「冷たいから萌えたかったなんて、他の人の前では言わないようにね」
「……俺のこと、変態と思ってる?」
「蒼磨くんには、普通におにいちゃんなのに」
「弟はかわいくないもん」
「それもどうかと思うけど」
「悠海さんは俺を離れていかないでね?」
「それは安心してください」
そう言って私が背伸びして紅磨くんの頭をぽんぽんとしていると、「まあ、悠海ちゃん優しい」と声がした。どきりとしてそちらを見ると、玄関からこちらを覗いているのは紅磨くんのおかあさんだった。嬉しそうににやにやされてしまい、私は手を引っこめて赤面する。
「いいのよー。紅磨がおとなしくなるまで話聞いてやって」
「何だよ、かあさんは紫磨に彼氏できていいのかよ」
「おかあさんは嬉しい」
「とうさんは絶対、」
「おとうさんはワイン開けてる」
「……くっそ、俺だけおかしいみたいじゃんっ」
「堅物妹の記念すべき初彼なのに、おかしいよねー。ねえ、悠海ちゃん」
私は何とも言えずに咲うしかない。紅磨くんはむくれてそっぽをしていたけど、私と手をつなぐと「分かったよ」とぼそぼそと言って玄関に向かった。
「おとうさん、紅磨と悠海ちゃんも来たよー」とおかあさんが家の中に声をかけ、「おっ、いよいよ結婚報告かー?」なんて答えが返ってくる。紅磨くんは私を見つめてきて、「何?」と首をかたむけると、「悠海さんを奥さんって言われたのはちょっと嬉しかった」と正直につぶやいた。私はくすりとすると、「彼氏さんにそれ言ってあげて」と紅磨くんとつなぐ手を握り返した。
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