彼のいない部屋
あたしは、現れた熱の破片に茫然としている。この心には冷めゆくひと雫が伝っている。それは終わったときにはじけて現れた、あたしと彼の関係の証だ。
事実の先には真実がある。あたしたちは引き裂かれた。終わったという事実になんて泣かない。ただ、ふたりのあいだに引き裂けるものがあったという真実に、確かに水が生まれている。
あたしたちの関係は、まるで水素だった。無臭、無色、軽く、つかみどころがない。そして、燃え尽きてそれがそれでなくなったとき──つまり終わったとき、“それ”は忽然とすがたを現した。
そう、あたしたちは水素だった。水素でなくなったとき、“それ”は水となって、いまさらかたちを現した。そして、その発生した元水素の液体を、あたしは瞳から生んでいる。
──部屋のフローリングに座りこんでいる。いつもと変わらない。ベランダのガラス戸が吸いこむ冬陽が、床を這って脚に触れる。冬の陽射しは弱くて儚い。そのかぼそい暖かさを感じられないのは、厚手のジーンズを穿いているせいだけではない。
心臓が息絶えていく。この心臓は彼に抱かれた陶酔で成り立っていた。止まりかけた心臓は温かい血を吐けない。冷たい血が巡る。忌ま忌ましく澄んだ、しかし濁った血。腐っていくように、全身がだるく侵されていく。
静かだ。鼓膜を引きちぎられたようだ。けれど聴覚は、何日も掃除を怠って舞う、ホコリのささやきさえ捕まえている。膝を抱えると衣擦れが大きく響く。脚にさえぎられていた陽射しがすうっと床を伸びる。光の上でほこりの粒子が煌めき、ざわめいている。
もう、何日、彼はここを訪ねていない?
膝に顔を埋めた。五感を遮絶した。何も見たくない。何も聞きたくない。こんな寒さも、無機質な洗濯の香りもいらない。
すると、感覚は幻覚に走りはじめる。あたしの残像の再生力は凄まじい。彼の唾液を舌に、感触を唇に覚える。いろんな汗や香水が混じったにおいの中、嗅覚は正確に彼本来の匂いをえりぬいて、肺を満たす。耳の穴に流しこむように聴こえさせる、あのささやきが鼓膜に滲む。
『リオ』
暗闇に目を開く。彼の顔がある。いろんな人を惑わせてきたあとの、少し疲れた彼の顔。あたしの瞳と絡んだ瞳からその顔は華やいでいく。そのさまを見るのがあたしはとても好きだ。
『俺さ、リオ──理音を愛してると思うよ』
肌に彼の体温を感じる。空気に彼の存在を感じる。
『だから……』
彼はいつもここにいた。知っていたけど、信じられなかった。信じていいのか分からなかった。彼はいつもここにいなかった。
狼狽えている。彼の切ない瞳に愕然としている。あたしは彼に大切にされていた。何よりも誰よりも、命をかけて愛されていた。
どうしようもないあたしは、それを怨む。彼を愛しているぶんだけ、彼の愛を憎む。
彼はいつもここにいた。あたしは彼に愛されていた。本当に、愛されていた。
そうされていたばかりに、あたしは今、ひとりでぬるい水に溺れてうずくまっている。
【第二章へ】