H2O-2

浮かない日々

 水琴みことはそのあたりでは有名なたらし男だった。
 決まった相手は持たず、ごちゃ混ぜに関係を持ち、おまけにそれを臆面もなくさらす。同じ相手と寝ることすら稀な彼は、おくてのあたしにはショッキングな存在だった。
 当時、あたしは高校生になりたてで、ひとつ年上の水琴のうわさを耳にしては、すごい人もいると思っていた。冷めた感想だけど、学校も違い、うわさだけで顔も知らない水琴は遠い他人だった。テレビの中のアイドルのように、興味はあっても非現実な存在だった。
 内向的なあたしは、当時からひとりでいることが多かった。自分の感情や意見に自信がなく、いつも何も言えない。口下手はやがて無口となり、人づきあいも下手だった。「根暗だ」とよく陰口をたたかれた。
 特に恋愛に臆病だった。自分なんか受け入れてもらえないのが分かっていて、怖くて、誰の顔も直視できない。処女どころか、キスもしたことがなかった。初恋すらなかった。
 代わり映えのない毎日だった。学校や家庭という舞台で自分を演じている。陰口もイジメというほどではなく、当たり障りない生活だった。そういう毎日を特につまらないとも感じず、陰鬱な日々に甘えていた。
 まるで重い空気の詰まった風船だ。ヘリウムのようには飛べず、薄っぺらい皮の中は空っぽ、いずれたやすく破裂する。自爆は思いつけずに、ふわふわと毎日をやりすごしていた。
 ぼんやりするあたしを待たずに、時間は過ぎていった。高校二年生、夏が終わると十七歳になった。
 二学期になり、文化祭の準備が始まった。あたしが通っていた高校は体育祭と文化祭を交互に開催する。一年生のときは体育祭だったから、二年生の秋は高校生活最初で最後の文化祭だった。
 この文化祭を、あたしは一生忘れられない。かけはなれたゴシップだった水琴と、ついに現実で出逢ったのだから。
 クラスの出し物は喫茶店だった。表情の暗いあたしは裏方にまわされた。担当は午後だった。
 その日はよく晴れ、空を通る涼風も澄んでいた。午前中は校庭の隅の花壇に腰かけてぼうっとしていた。
 みんな咲っていた。きらきらして、温かそうで、遠かった。あたしは “咲う”という行為を忘れていた。だから咲っているすべての人が遠い。ぼんやりにぎやかな光景を眺めていた。
 そのとき、雑音の隙間に、ミコト、という名前が混じった。あたしはたゆんでいた視覚を働かせた。数メートル先を、この高校の制服を着る男の子が横切っていった。彼が駆け寄った先には、長身で細身な美少年と、美少年に寄り添う派手な化粧の女の子がいた。
「よお」
「来たんだな」
「まあな。ライヴは」
「まだ。午後だよ」
 文化祭では生徒が在籍するバンドがライヴをやる予定だった。わりと名前が通ったバンドらしく、今日はそれ目当ての客も多かった。水琴もそのひとりだったのだ。
 水琴はどんな女の子も振り向かせそうな、鮮麗な容姿をしていた。でも、その容姿を軽くて軟派だと想像していたあたしは、拍子抜けてしまった。容姿だけなら堅い印象もあった。
 黒髪はさらりと風になびく程度でさっぱりして、骨格もしっかりある。長身痩軆なだけ、肩や腰は骨張っていた。顔も丁寧な作りだ。すっとした眉に合う切れ長の目、無駄なく削られた細い顎、だけど気取って無表情だったりせず、惜しみなくあふれる笑顔はかわいい。
 男子生徒と話を終わらせると、彼は女の子を連れて人混みに混じっていった。やはり水琴が気に入るのは、あんな軽そうな女の子なのかと少し傷ついた。傷ついて、傷つく自分にとまどった。
 午後になると、教室に帰った。注文が入った品物を無機質に用意していると、「椅子が足りないから持ってきて」とウェイトレスの子に早口で頼まれた。断ったり質問する間もなく、彼女は仕事に戻る。
 椅子。確か、旧校舎が物置になっていたはずだ。確認のひと言を残したかったけど、みんなばたばたしていたから、注文の紅茶を用意して黙って教室を出た。
 旧校舎の一階は、部活による出店で騒がしかった。人の中にいるほど、孤独に喉を締めつけられる。二階に駆け上がった。
 踊り場には“関係者以外立入禁止”と赤いチョークで書かれた移動黒板があった。
 二階は静かで人気もない。窓辺から校庭への抜け道を俯瞰すると、にぎやかな人通りが見渡せた。ひとりの人、ふたりの人、親子やカップルや集団──流れを観察すると、ライヴの時間が迫っているせいか校庭へ向かう人が多い。
 みんな楽しそうだ。みんな咲っている。椅子を持っていかなくてはならないのも忘れ、その人通りの観客になっていたときだった。
「こんなとこで、サボり?」
 びくっと顔を上げた。上げて、二度驚いた。
 すぐ隣にいたのは、さっきの鮮麗な美少年だった。視線が合うと、彼は余裕たっぷりににっこりとした。跳ねた心臓に、慌ててうつむく。なのに、彼はあたしの顎を素早くつかんで、強制的に顔を上げさせる。
「あ……、」
「サボってんの?」
「い、いえ」
「じゃあ、何してんの?」
「え、その、椅子を」
「椅子?」
「足りないから持ってきて、って」
「っそ。それならもういらないよ」
「えっ」
「足りないならって、俺、店出てきたから」
「あ、はあ」
 本当だろうか。怪しいと思っても、動揺に襲われていて、ただ視線をおろおろさせる。彼はそんなあたしを見つめてくる。離せばあたしがうつむくと踏んでいるのか、顎を離してくれない。彼の指先の熱が伝わる。
「あの」
「ん?」
「ここ、関係者以外は」
「立入禁止だね。知ってるよ」
 バカにしているのか、気遣っているのか、幼児に対するような口調だ。
「俺には規則を破る用事があったんだ」
「そ、そうですか」
 わけの分からないまま、うなずいた。怯えと緊張に思考回路がこんがらかっていた。心臓が痙攣している。
 彼とは頭ひとつ身長が違った。上目遣いをすると目線が彼の瞳に当たる。彼はあたしを見つめながら親指で唇をなぞった。唇を他人に触られるのなんて初めてで、どぎまぎと視線が天井や廊下を泳ぐ。
「俺のこと、怖い?」
「えっ」
「ビビってるじゃん」
 彼の声はがさがさした低重音ではなく、柔らかかった。耳元でささやくのに適した、落ち着いた声だ。
「大丈夫だよ」
 顎を支える手を離した彼は、さりげなくあたしを抱き寄せた。え、とまじろぎ、彼の胸に左頬が当たってから、こめかみで白光が爆ぜる。
 何で。自問しても真っ白になった頭は答えられない。
 背中に腕がまわり、彼の鼓動が生々しく鼓膜をたたく。セミロングより少し短いあたしの髪のあいだを彼の吐息がすべる。
 脳内が混乱に暴れてめまいが起きた。幻聴のように彼の声が耳に流れこむ。
「俺は水琴っていうんだ」
 骨張る長い指がゆっくり髪を撫でる。
「君の名前は?」
「あたし……は、理音」
「リオン?」
「……うん」
「かわいい名前」
 かわいい。お世辞か本気かは分からなかった。響きが甘すぎて、あたし自身はあまり好きな名前ではない。
 そのときだった。校庭から、わあっと大きな歓声が沸き起こった。
「やべ、始まっちまった」
 あたしの髪を梳く手を止め、水琴は校庭に首を捻じった。ライヴの歓声だろう。
 そういえば午前中、彼はそんな話を友人らしき男子としていた。そうだ、彼はあのとき女の子と一緒だったはずだけれど。
 しかしそんな疑問は、水琴にまた抱きしめられて吹っ飛ぶ。かすかに香水が織りこまれたみたいな、彼の匂いがする。
「あのバンド知ってる?」
「え、と……この学校の男子がメンバー、ってことだけ」
「そっか」
 水琴は咲って、一度あたしをぎゅっと抱くと軆を離した。あたしは彼を見上げた。涼やかな瞳もあたしを映した。
「俺もバンド見にきたんだ。一緒に行ってみる?」
 考えそうになったが、すぐ気づいてかぶりを振った。教室に帰らなくてはならないのだ。
 水琴は残念そうに眉を寄せたあと、じっとあたしを見つめた。複雑に瞳を絡めてくる。その延長線のような、ごく自然な仕草で、彼はあたしに口づけてきた。
 あたしはきょとんと彼の唇を受け、それからはっと目を押し開いた。
 キス!
 あたしキスしてる!
 淡いキスだった。舌も交わらない、唇が触れ合うだけの、蝶が止まるだけのようなキス。だとしてもあたしには初めての口づけで、信じられないほどの衝撃があった。
 水琴は顔を離す。あたしはぱっくり開いた目で彼を見る。
 水琴はあたしの耳元に口を寄せ、「これが用事」とささやいた。あたしは緊張しすぎていて、そんなキザな台詞にもどぎまぎしてしまった。
「また会える?」
 水琴が訊いてくる。何も考えていなくて、暴れる心臓と熱いこめかみを持て余して考えられなくて、ただ、うなずいた。水琴はその反応に微笑んだ。
 あたしの頬を軽く撫でると、水琴はきびすを返して行ってしまった。階段のところで軌道を変え、足音は躊躇いなく遠ざかっていく。それも消えると、彼の名残はあたしの軆だけに残った。
 バンドの演奏が聴こえはじめている。あたしは動けなくて、動くのも忘れていて、長らくそこに突っ立っていた。
空白だった胸に、怖がり拒んでいた感情が滲み出している。心臓や発熱はなかなか収まらない。瞳は潤み、つまった喉にひとりでに息が震える。
 あたしは、知る余地のなかったその感情の名前を、こわごわとつかみかけていた。

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