恋の果汁
文化祭が終わって数日、通常授業に戻ったのにも慣れた頃、思いのほか早く、水琴に再会した。
放課後だった。あたしはちょっと落ちこんでいた。先日の文化祭のクラス反省会で、槍玉にあげられたのだ。椅子ひとつ取りにいくのにあの時間は長すぎで、サボっていたのではないかと疑われてしまった。
仕方のない見解に、うつむいて謝って、事は荒立てなかった。クラスメイトはあたしを責めたことなどもう忘れて、黙殺に戻っている。根暗のあたしひとり、うじうじと引きずっていた。
視線は踏み出す爪先を追っている。周囲の景色を確かめなくても、触れてくる空気で曲がり角や段がどこか分かる。生徒のたわいない話し声や笑い声が、硬直した耳を圧迫する。
その年の冬は寒く、十一月の中旬にもなればコートが必要だった。あたしは学校指定色の黒のフリーツ生地のコートを羽織っていて、合わせを握りしめていた。頬が冷たさに麻痺しかけていた。
いつもの道を抜け、校門への一本道にさしかかったときだ。「リオ」と大きな声がした。何だろ、と他人事感覚で顔を上げ、目をみはった。向かって右の門柱に、私服の水琴がもたれていた。
周りの人も、彼があの水琴とは察しているようで、次は誰が毒牙にかかったのかと動向を見守った。注目の水琴は、たたずむあたしにまっすぐ駆け寄ってきた。周囲の人が、特にあたしの陰気さを知る同級生が、息を飲んだのが伝わってきた。
恥ずかしくなってうつむいたとき、水琴はあたしの元に到着する。
「また下向く」
水琴の右手が上がりそうになり、慌てて顔を上げた。こんなところで顔を上げさせられたら恥ずかしい。
あたしが顔を上げると、水琴は満足げに咲いかけてくる。その綺麗な顔にどきどきして、うまく咲い返せなくて、本当はうつむいてしまいたかった。
「ひとり?」
その問いには、当然うなずいた。
「そっか。恋人といたらどうしようかと思った」
まばたきをする。揶揄われているのかと思ったが、水琴は本気の様子だった。
「恋人なんか、いないよ」
その言葉に次は水琴がまばたきをする。
「え、そうなのか。いいよ、気遣わなくても」
「ほんとだよ」
水琴はあたしを眺めた。首をかしげ、「そうか」とつぶやく。
「変なの」
「え」
「みんな見る目ないな。かわいいのに」
「えっ」
「リオ、綺麗じゃん。リオの顔、俺は好きだよ」
水琴は、まっすぐあたしを瞳に映す。嘘はなかった。彼は嘘がとても上手そうであっても、それでも嘘はなかった。
あたしは容姿について暗いと貶されはしても、褒められた経験はなかったので、気恥ずかしくて次の話題を探す。
「リオ、って」
苦し紛れに、気になっていたほうに話を転換する。
「あたしのこと?」
「ああ。理音じゃまどろっこしいし。いいだろ」
黙りこんだあたしに、「ダメかな」と水琴は上目遣いになる。あたしはかぶりを振った。水琴は口元をやわらげる。
「ひとりか。なら、放課後の予定はないんだよな」
こっくりすると、水琴は前置きもなしに提案してきた。
「じゃあ、俺と遊ぼう」
「は?」
「俺、リオと遊びたい」
水琴を凝視した。何? 遊びたい。遊び──たい。
それぐらいは知っている。彼の場合、遊ぶのが単に遊ぶだけではないのは。彼はあたしに寝ようと誘っているのだ。
信じられなかった。行きずりの感覚なのだろうが、行きずり相手であっても、欲しいか欲しくないか、最低限の欲望は持つ。彼があたしなどに欲情できるのか。
「あたし、………」
疑念と不審に口ごもってしまう。沈黙は長引く。
すると、水琴はあたしの頭を撫でた。彼を見る。水琴は微笑んできていた。
「リオが迷惑だったら、今度でもいいよ」
今度。不覚にもときめく。いずれにしろ、あたしを抱く気だということだ。
「また会いにくるよ。いい?」
「え、あの、えと」
「俺のこと、憶えてて。じゃあ」
水琴は簡単にきびすを返した。不安が喉を詰めた。もう、次はいつ会いにきてくれるのか分からない──
「ま、待って」
水琴は振り向いた。
「あ、えっと、」
「ん」
「その、いいよ」
「え」
「遊ぶ、の。いいよ」
水琴は目を開いた。肯定の先にある意味にあたしは頬を染める。上がる熱に、麻痺していたはずの頬が上気してほぐれていく。
水琴はあたしのかたわらに戻ってきた。彼の微笑が瞳にしたたる。ぎこちなくうつむいたけれど、今回は水琴は咎めなかった。
水琴はあたしの肩を押した。足を踏み出す。水琴はあたしの隣を歩く。急に会話がなくなった。一緒に校門を抜け、周囲には人通りが多くなっていく。雑踏に紛れそうになったとき、水琴の手があたしの手を握った。
心臓が跳ねる。いよいよ水琴を見れなくなる。だけど、うつむいているのを嫌がっていると取られたくなくて、水琴の手を握り返した。体温が気温と反比例して上がる。その熱と共に水琴の手のひらの熱も上がったのは、気のせいではなかったと思う。
あたしたちは、水琴の部屋に直行した。水琴の両親は離婚していて、彼はひとり暮らしをしていた。どちらにもつきたくなかった彼は、それを要求したのだそうだ。生活的な援助は両親の双方にもらっていて、彼は優雅にやっていた。
「きちんと掃除してるんだ……」
男の子の部屋は汚い、という偏見からそうもらすと、水琴はジージャンを脱ぎながら笑った。
「クローゼットに全部押しこんでるだけだよ」
キッチン、バスルームの設備も整っているようだ。十八の少年のひとり暮らしにしては、贅沢な環境だろう。親というものは、たとえ離婚しても、子供は変わらずに甘やかすものなのだろうか。
水琴はあたしのコートを脱がせてベッドサイドに座らせた。そして、熱いコーヒーを淹れてくれる。コーヒーは苦手なのだけど、せっかくなのでひと口飲んだ。やっぱり眉を顰めてしまった。
しばらく、どうだっていい話をしていた。この何でもないおしゃべりのあとにあるものに、どもったりしてしまった。水琴はそんなあたしに微笑ましそうにする。
暖房がきいてきた。それがなくても、心臓から指先までほてっていた。やがて会話が途切れた。
水琴があたしを覗きこんで、そっと口づけてくる。水琴の軆が軆に触れて、このキスがしめすことが急に生々しくなって、ついこわばってしまう。あたしに性経験どころか、恋愛経験すらないのは、水琴も感づいていた。それを念頭に彼はベッドにあたしを倒し、丁寧にあつかってくれた。
彼はやっぱり、うまかった。うまいかどうか比較する経験は、ないのだけど。気持ちよかった。
最後、もちろん水琴は中には出さなかった。ねばついた精液が、下腹部をしたたっていく。生物の異臭が漂う。水琴はコンドームが嫌いだった。
「つけるとよくないんだ」
のちにそう言われる。あたしはいつも、直接水琴の熱を感じた。
あたしを抱くと、彼はすごく熱くなる。軆も、汗も、性器も。水琴はその熱を、あたしの軆の端々に放電する。麻痺しそうに熱くなる。それは吐き気がしそうに快感だった。
くらむ視界で水琴を盗み見ていた。 “あの”水琴が、その息遣いでこの首筋をなぞって、汗をこの頬に落として、この体内で快感を噛みしめている。
水琴はあくまでイメージだった。うわさだけで実体がなかった。
今、あたしの中で、水琴が急速に現実になる。水琴の背中に手をまわす。割れたテレビの破片が胸に突き刺さる。水琴が身近な存在になる。
水琴の存在感を得て、初めて自分を感じた。水琴の熱を受けると、軆中に巡った管がたぎって自分の軆をつかめる。
ずっと、自分は空っぽの風船ではないかと思っていた。違ったのだ。こんなにも、血管が通っている。心臓が熱の上昇に追いつけずにつづまって打つ。何が何だか分からなくなる。極まりゆく快感に放りこまれて、やがてその濁流に飲まれてしまった。
余韻が消えても、痙攣気味に弛緩していた。たぶん、“いった”のだろう。汗の染みたシーツに肢体を沈める。外に出されたのに、内腿が湿っているのが分かる。
水琴がかたわらに来て、うなじに口づけてきた。そして耳元で、あの慣れない名前を呼ぶ。
「リオ」
脱力がひどくて、答えるのもだるかった。水琴は腕をシーツにもぐらせ、あたしを抱きしめた。
「きつかった?」
うなずいた。すごくよかった、とか言うゆとりはなかった。
「ごめん、もっとゆっくりすればよかったかな」
首を横に振る。一瞬のようであっても、あたしたちの行為は長かったと思う。
水琴は軆を離すと、ティッシュであたしの軆を拭った。それから今度は上に被さって、視線を絡めてくる。水琴の手が、あたしの濡れた前髪をかきあげる。
水琴の瞳は、なぜか焦っていた。なぜ彼が焦るのか分からなくて、きょとんとしばたく。
水琴は、急に唇をすするように口づけてきた。深い口づけだった。唾液が流れこんでくる、長く、息を止めるキス。あたしは情けなくも、実際息苦しくなってしまった。下手に唇をちぎって、顔を背けてむせてしまう。
「リオ……」
水琴の不安そうな声と困ったような瞳は、心をきゅっと締めつける。躊躇いがちに、彼の背中に手を這わせた。水琴はあたしを見つめると、次は軽く口づけて、抱きしめた肩に顔を埋める。水琴の艶々した髪が喉をくすぐる。
そのまま一時、天井を見つめていた。駅前からひと置きある、マンションが並ぶ住宅地のせいか、わりあい閑静だ。静けさに響く息遣いを聴いていると、あたしは突然、こんなことを思った。
何人、何十人の女が、こうして水琴に抱かれながら、あの天井を見たのだろう。
そう思った途端、鳥肌が立つような切なさが襲ってきた。
そうだ。期待してはいけない。水琴はいろんな人とこうして抱き合っては、冷酷に切り捨てる。あたしだって数分後には同じ運命だ。あたしの中で水琴の存在が大きくなっても、何も報われない。
肌に触れる水琴の温かな肌が、急に苦痛になった。あたしの中で、行きずりで済まないものがふくらみはじめている。弾ける前に、彼を離れなければならない。
動いた。シーツがすれる。水琴はあたしを覗きこんだ。
「リオ?」
甘えるようなまろやかな口調は、心を引き止めようとする。耳障りだ。あたしは彼を離れなくてはならない。無視して起き上がる。腕をほどかれた水琴は、じっとあたしを見つめる。
窓を振り返った。カーテン越しにも、空に闇が降りているのは窺える。親への言い訳を考えなくてはならない。
「リオ」
「………、帰らなきゃ」
「泊まったら」
「ダメだよ」
毛布を胸に引きずりあげ、腰をかがめてベッドの下に落ちた制服を拾おうとした。だけど、スプリングがきしんだかと思うと、素早く水琴が背中を抱きこんできた。
「あ……、」
思わず喉がすくんで、全身が硬くなる。
「リオ、俺、」
水琴の声は切羽つまっていた。
「俺─―」
水琴の肌があたしの肌に密着する。抱く力が強まって、肩の骨が痛くなる。
「リオ……俺と、さ」
彼の鼓動が肩甲骨に響いてくる。
「俺と、また、会ってくれる?」
「えっ」
思いがけない言葉に、水琴をかえりみた。水琴の頬はわずかに色づいていて、冗談ではないのをしめしていた。
また会う。どうして。水琴にはあたしは、一度きりの行きずりではないの?
「会いたいんだ。ダメかな」
水琴はようやく力を緩めたかと思うと、あたしの軆を自分と向き合わせた。水琴の直視が刺さってくる。心が震えはじめる。
また会う。水琴と。
水琴があたしを簡単に捨てるのは分かっている。いつか空き缶のように置き去りにされるのを前提に、彼に何度も会えるだろうか。
胸に芽生えたこの甘い果実は、彼に会うごとにふくらみ、けれどはじけてはいけなくてぎりぎりに張りつめ、いずれあたしを窒息させる。水琴には会いたくても、自分がそんな痛みに耐えられるか分からない。
水琴の大きな手が、あたしの頭をさすった。
「リオが嫌だったら──」
「い、嫌じゃないけど。けど──」
あたしは口の中でぼそぼそと続ける。
─―期待、しちゃう。
「期待って」
「だから、その……、彼女になりたいとか。好きになるとか」
「俺のこと、好きになりたくない?」
「好きだけどっ」
勢いに乗った言葉に、水琴はあたしを眺めた。あたしは自分の思いがけない台詞に、一気に頬を燃やす。
「いや、その……」
否定しようとしたけど、水琴ににっこりとされて、何も言えなくなる。好き……なのだろうか。これが恋なのだろうか。
「俺のこと、好き?」
水琴に頬を撫でられ、気持ちに素直になってみたら、あたしの首はうなずいていた。恥ずかしくて顔を伏せてしまう。胸を隠す毛布が膝でくしゃくしゃになっている。
「じゃあいいじゃん。つきあおうよ」
おもはゆさをこらえて、顔をあげた。つきあう。彼をよく知らないあたしでさえ、それほど彼の口に似合わない言葉もないと思った。
「つきあうって」
「俺の彼女になってよ」
水琴の余裕綽々な笑みを見つめた。だけど、ずっとあとで水琴はこう告白する──あのとき、断られたらどうしようって泣きそうだったんだぜ。
「彼女……」
まだ信じられずにぽつんとつぶやくと、水琴はあたしを抱き寄せた。あたしは水琴の胸に頬をあてた。温かかった。
彼女になっても、すぐ捨てられる。水琴はそういう男だ。本気にならないようにしよう。第一、あたしは彼に釣り合わない。自分を抑えれば、束の間、この小さな初恋を実らすことができる。
ゆっくり、水琴の背中に腕をまわした。
「リオ」
うなずいた。水琴は数秒停止したのち、あたしの顔を覗きこんでくる。はにかんで咲うと、水琴はぱあっとかわいい笑顔になった。
その無邪気すぎる笑顔に、ぴくんと呼吸が止まった。あれ、ととまどうあたしに気づかず、水琴はあたしをぎゅっと抱きしめる。手放せないテディベアみたいに。
え……、そんな。
水琴の胸に埋まって、たかが三十秒でふいになった決意に茫然とした。だって、確かに聴いた。水琴のかわいい笑顔に、感情の果実が熟し、いとも簡単にはじけた音を。
麻酔が広がっていくように、心臓から全身が痺れていく。水琴の体温、感触、匂い──すべてがあたしを犯してくる。はじけた果実が、甘い蜜を垂らす。その甘さに歯が痛み、ついで心が痛んだ。
焦った。だけど遅かった。
あたしの中で、あたしの意思に構わず、水琴は始まった。
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