繰り返すように
水琴はあたしに没頭していた。いろんな人を彷徨わず、ひとりに集中するのは彼には初めてだったのではないかと思う。たとえ、それがしばしのことだったとしても。
彼にしては、期間は長かった。水琴はあたしを大切にしたし、ほかの女を抱くのもやめた。頼んではいなかったけど、もちろん嬉しかった。蜜月は、ひと月と少し続いた。
蜜月が終わったのは、十二月の中旬に入った週末だった。夕方から水琴の部屋の前で彼を待っていた。約束はしていた。
冷えこむ日で、コートの上にマフラーも巻いていた。毛糸の隙間を縫って空中に逃げる吐く息は真っ白だった。
その白さが暗くなった空でくっきり見える時刻になっても、水琴は帰ってこなかった。ドアにもたれて座りこんだ。頭痛がして、耳も凍るあまり発火して痛かった。鼻をすすって、風邪ひくかも、と内心つぶやいた。
遅いな、と思った。水琴を信じきって、確かに無防備だった。でも、そもそも人とこんなに親しく接したことがなくて、あたしは恋人同士は信頼しあうものだと美化していた。
水琴が酔って、その上、小柄でもすらりとした美少女を連れて帰ってきたときには、待ちぼうけていたのも忘れ、茫然と目を開いてしまった。
水琴の酔いはしたたかで、美少女に抱えられているほどだった。美少女が自分たちを凝視するあたしに気づく。
猫を彷彿とさせる大きな瞳だった。さらさらした長い黒髪が風になびいている。
彼女はあたしがもたれるドアの番号を見て、再びあたしを向いた。
「水琴の知り合い?」
意外に落ち着いたハスキーな声だ。
「え、あ─―まあ」
「ずっと待ってたの?」
あたしがうなずくと、彼女は赤い唇に毒っぽい笑みをもらした。大人びて見えても、年齢はあたしと同じか、もしかすると下かもしれない。目つきや口調に幼い感じがある。
「かわいそ。こいつ、今までパーティでさんざん遊んでたんだよ」
「えっ」
「水琴が好きなの?」
口ごもって、ある意味自白するあたしを、彼女はせせらわらった。
「こいつのことは好きにならないほうがいいよ。そんなふうに健気にしたって無駄。水琴は浮気専用の男なの。本気になったって痛い目見るのはあんただよ。こいつだって誰にも本気にならないしね」
まばたきをしていると、「退いて」と彼女に追いやられる。壁に手をついて立ち上がった。壁の冷たさと固まった自分の指に驚く。ずっと座っていたので、脚も痺れている。
彼女は見憶えのあるキーホルダーがついた水琴の鍵を、ドアの鍵穴にさしこんでまわした。
「何してんの」
水琴を抱え直し、こちらを一瞥もせずに彼女は言う。
「えっ」
「帰りなよ。寒いよ」
「でも、」
「水琴は心配しないで。明日の朝までは、あたしが面倒見るし」
「あたし、水琴と約束してて」
彼女は噴き出した。嫌味ですらないようだった。
「約束なんか。きっとこいつは、破るもんだと思ってるよ」
彼女は水琴を抱えて部屋に入っていった。かちゃっと鍵がかけられ、続いてどさっと音がした。水琴を床に下ろしたのだろう。美少女の声が聞こえたけれど、ひとりごとか水琴への呼びかけか、何と言ったかも分からなかった。
とぼとぼと、家に帰る以外なかった。寒かった。寒さに発熱する軆が、さらに寒さを際立たせる。
頭がずきずきする。疼く部分を切り取って捨ててしまいたい。本当に、捨ててしまいたい。頭の中には、あの美少女と水琴が絡み合うさまが生々しく垂れ流れている。ベッドのきしみが聞こえる。ふたりの乱れた吐息で部屋には酒気が充満していく。あふれる汗に湿った空気の温度まで、想像してしまう。
そんな自虐的な妄想なら、あたしはいやらしいほど得意だった。
水琴は、あの子と寝るだろう。そんな気がする。少なくとも彼女に気はありそうだった。そして水琴は酔っている。
そう、酔っているのだ。きっと彼女が触りはじめ、水琴は意志なくあの子を抱くのだ。あのふたりが関係を持っても、酒の力を借りた薄っぺらいものだ。正気の水琴が欲しがるのはあたしだけだ。水琴はあの美少女が欲しいのではない。アルコールに包まれたついでに抱くのだ。
大丈夫。水琴は飽きたんじゃない。あたしを想ってくれている。執拗に自分にそう言い聞かせ、さざめく心を必死になだめた。
月曜日の朝、通学途中で水琴に会った。彼は遅刻前提で、制服すがたであたしを待ち伏せていた。水琴曰く、あの日は学校の友達に、クリスマス前祝いという名目で連れ出されたのだそうだ。あたしは黙って咲っていた。本当は文句のひとつも言いたかった。けれど、口答えで彼を失いたくなかった。
しかし、水琴とつきあおうとすれば、ひたむきさなど最もバカバカしいとすぐに気がつきはじめた。美少女と過ごした日を境に、水琴は徐々に自堕落な生活に戻っていった。
最初は、自分を抑えていた。水琴はあたしは捨てなかった。浮気を隠すこともしなかった。むしろ、誰かを抱いたあとにあたしを呼び出し、抱いたり添い寝させたりした。あたしは従順に水琴の胸に顔を埋め、そこに残る口づけや歯形、女物の香水に不安を覚えた。
水琴にとって、あたしは何なのだろう。良くなかったセックスの口直しとか、ひとり寝が寂しい夜の抱きまくらとか、そんな都合のいい存在になっている気がした。
水琴はうつむくあたしに「好きだよ」とささやいたけども、重みがなかった。訝るあたしの耳が、そう聞こえさせたのかもしれない。実際に水琴の声が軽かったのかもしれない。分からない。
怖かった。不安が秋の落葉のように募る。水琴に触れられたせいで、あたしの心は淡々とした無感覚を失っていた。澱みがつっかえた排水口のように、黒い不安が喉を塞ぐ。思考が乱され、視野が猜疑に冒される。細菌みたいなその闇が蓄積しても、心が痛くて、冷静に掃き捨てられなかった。
水琴は無秩序に関係を広げた。蜘蛛の巣みたいな人だ。あたしは耐えていた。冬が明けて春になるまで、それは続いた。あたしは高校三年生に進級し、水琴は映像系の専門学校に入学した。
その日も、水琴は誰かのあとにあたしを抱いていた。水琴が好きだった。だから冷めていた。したたる水琴の汗には、でたらめに束ねた花束みたいな、くせのある香水が絡みついている。こんなにおい、嗅ぎたくない。けれど反面、つかまえておかないと水琴が遠のきそうな気がして、彼の首に腕をまわした。
そのときだ。バカげた忍耐は切れた。
指先にべったりルージュがついた。手のひらを見た。あたしの手には、真っ赤な誰かの唇の彩りが伸びていた。もう唇を噛みしめられなかった。
「水琴」
上にいた水琴はあたしを見下ろす。あたしは体内で動く水琴に異様に冷静だった。
「水琴は、あたしをどう思ってるの?」
「は?」
「水琴にとってあたしって何? どうして今あたしとしてるの?」
「彼女で、好きだからだろ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
指先を水琴の頬になすりつけた。卑しい行動だと分かっていても、止められなかった。
「え、」
「じゃあ、どうしてこんなのつけてるの」
水琴は眉を寄せた。不愉快そうな表情だ。
「何で、あたし以外の女の子とするの。さっきまでこの口紅の人を抱いてた軆で、何で抱けるの。何とも思わないと思ってるの。いい加減にして─―」
「リオ。俺はそういう奴なんだよ」
「あたしじゃ満足できないの?」
水琴は答えず、頬のルージュを手の甲で拭った。それでも赤い痕跡は残った。水琴は手の甲をシーツにこすりつけると、動きを再開した。
泣きたかったけど、泣いたら負けのような気がして、泣けなかった。水琴はいつもより乱暴に射精した。あたしはいかなかった。
水琴が降りると、あたしは彼に背を向けた。その背中を水琴は抱きしめてくる。あたしは無反応だった。
感情を出して、正しかったかは分からない。後悔はなかった。溜めこんでいたって、水琴をつけあがらせる。あたしは道具じゃない。あたしはあたしだ。水琴がそう教えたのだ。水琴があたしに自意識を植えつけた。それなのに。
「リオ」
水琴の声が耳たぶに響く。
「口紅の女は彼女じゃないよ。リオは彼女だ。分かるだろ」
ちっとも分からなかった。だが、うなずいておいた。刃向かいすぎて、水琴に愛想を尽かされるのが、やっぱり怖かった。
しかし、そのあとがうまくいくはずもない。あたしは感情をぶつけることを覚えてしまった。あたしたちの口論は、回数を重ねるごとに激しくなっていった。
例えば、水琴がコンドームをつけないのが嫌だった。あたしにつけないのは、正直構わない。ほかの女にもつけないのが嫌だった。嫉妬より、知らない女の体内にこすりつけてきた性器を、そのままこすりつけられるのが嫌だった。
水琴は、あたしを抱いたあとにほかに行くことはなかった。それは幸でもあり、不幸でもあった。水琴はシャワーも浴びないときが多い。あたしはいつも、だれかの粘液がまといついた軆に抱かれた。はっきり言って、屈辱だった。それを伝えても、彼は「コンドームは嫌いなんだ」のひと言で済ます。
「水琴はいいかもしれないけど、あたしは嫌なの。水琴にされてるのに、ほかの人まで混ざってるみたい」
「錯覚だろ。目え開けてれば?」
「そんなんじゃないの。せめて、シャワー浴びてよ」
「リオを目の前にしたら待てないんだ。そういう解釈しろよ。暗い方向に取るな」
「水琴には分かんないんだよっ。何でほかの人の匂いがする中でされなきゃいけないの。どうして水琴の肌に残ってるからって、知らない人の化粧の痕を舐めなきゃいけないの。もう嫌、水琴はあたしをバカにしてるっ」
ベッドサイドを立ち上がった水琴は、床に突っ立つあたしの腕を乱暴につかんだ。強い力が肌に食いこみ、骨まで痛ませる。引き寄せられて、あたしは涙でぐちゃぐちゃの顔をさらされた。
「放して、」
「俺はリオが好きだよ。大切に想ってる。これで、何が嫌なんだよ」
「大切に想ってるなら、あたしの気持ちを考えてよ」
「考えてる。だいたい、俺がひとりの女と何回も寝るなんて、初めてなんだぜ」
「どうして、あたし以外の女の子と寝るの?」
水琴はたちまち、忌ま忌ましそうな顔になった。
「俺がそういう奴だからだって言ってるだろ」
この問題は、堂々巡りだ。水琴は自分の身持ちの悪さを性質にして片づける。
あたしはそんなふうに解釈できない。頭がおかしくなりそうに考えてしまう。満足させてあげられない無力感、水琴にいつ捨てられるかという不安、彼が今他の女を抱いているという嫉妬─―重たく陰鬱とした色が、神経を塗りつぶしていく。
腕を放した水琴は、その手であたしの涙をぬぐった。たいていこうだ。言葉を続けられなくなった隙に、水琴はあたしを丁寧にあつかって、仲直りに持ちこむ。
会うたび喧嘩だったわけではない。水琴も人と寝たあとしかあたしに会わないわけではない。普段のあたしと水琴は、仲がよかった。水琴はあたしを甘やかしたし、あたしも水琴にはにかんで微笑んだ。激しい喧嘩をはさみつつ、仲直りで割りは合って、あたしたちの相性はよかった。
外出はほとんどしなくて、あたしと水琴の関係は水面下のものだった。あたしたちは、水琴の部屋にいた。もちろん、ひたすらセックスではない。音楽を聴いたり、ビデオを観たりした。
水琴は映画が好きだった。専門学校も映像系だから、本気で将来を考えているみたいだ。
あたしはそんな水琴に対する自分に、複雑になる。季節は秋も終わりかけて、高校は受験一色だった。あたしは進学組で、志望校も安全圏で合格すると言われていた。
ただ水琴と違い、進学に深い意味はなかった。将来なりたいものもなかった。あたしは大学はきちんと四年で卒業すると思う。でも学生でなくなったとき、自分がどうしているのか見当もなかった。
「水琴って、映画作りたいの?」
その日は喧嘩を前菜にせずに水琴と寝た。彼の匂いしかしない中で、誰の痕跡もない水琴にしがみつけた。あたしも水琴も絶頂に達した。
終わって、呼吸や熱が落ち着いても、はだかのまま肌を寄せ合っていた。もう冬だった。あたしが不意にそう切り出すと、水琴は面食らったのち、決まり悪そうに咲った。
「PVとかも好きだよ」
「PV」
「プロモーションビデオ。まあ映画が一番の夢かな。携わるだけでもできたらいいよな」
「そう……」
水琴は咲って、「どうして」とあたしの髪を優しくかきあげる。一年と少しで、髪はずいぶん伸びた。
「いいなあと思って」
「いい?」
「そういうふうに、将来を考えられるの。あたしはダメだよ。何やっても向いてなさそう。食べるために自分を殺して働くだけだよね」
言いながら情けなくて、彼の胸に顔を埋めた。汗の匂いが柔らかい。熱を帯びた肌と鼓膜を心地よく打つ心臓に、安堵が蕩けていく。
「リオって、自分を過小評価するの好きだよな」
だけど、そんな思いがけない言葉にすぐ顔を上げた。水琴はあたしの髪を指に絡めている。
「イジメてるんじゃないよ。ほんとに。卑屈というか」
自分の日常や十八年を振り返ると、“卑屈”という言葉は、確かにぴったりだった。
「自信持ってないんだ。自分はレベル低くて当たり前、って思ってる感じがする」
「当たり前、じゃないの?」
とまどった上目遣いをすると、水琴は苦笑した。
「もっと自分かわいがれよ。自己愛はうざいけど、自信はあると便利だよ」
「……自信持っていいようなとこ、あたしにはないよ」
「それ過小評価。そういう自覚できるってのも、一種の利点だぜ。誰だって、自分には可能性があるって思ってたいのに」
「あたしは、単に、それが現実だから」
「みんな現実って見たがらないよ。リオは自分をよく見てるんだ」
どう答えたらいいのか、小さく首をかたむけた。
「リオはリオが思ってるほどくだらなくない。ちゃんと魅力的だよ」
困ったあたしは、曖昧に咲うのに逃げた。水琴はときどき、言うのが恥ずかしいだろうことを、まじめに語ってくる。
「ほんとだよ」と彼は黒い瞳で、あたしを覗きこむ。
「じゃなきゃ、俺、とっととリオを捨ててる」
「水琴……」
「俺はリオを捨てないんじゃなくて、捨てられないんだ」
水琴の深い瞳孔に飲みこまれていると、唇が触れ合い、舌が絡み合った。水琴はあたしの髪を愛撫し、あたしは水琴の背中に腕をまわす。水琴は痩身なのに背中は広いから、まわしても指先は出会えない。そして溶けあった唇をちぎると、水琴はあたしをぎゅっと抱きしめた。
「自信持てよ」
水琴の声が耳元で響く。こんなふうに聴く、水琴の声が一番好きだ。
「リオはかわいいよ」
「………、うん」
「少なくとも、俺にはかわいい。リオが一番かわいい」
素直にうなずいた。あたしが納得したのを見取ると、水琴こそかわいい笑顔になる。その水琴の子供っぽい無邪気な笑顔が、あたしもすごく好きだった。
水琴の部屋に外泊するのは稀だった。家や学校では、優等生として勉強していた。無事に試験もクリアして志望校に合格し、春に入学した。
ここで、あたしと水琴の居場所は変わる。あたしが駅前に部屋を借りはじめたのだ。
通学もそちらが便利だったし、バイトで働くことにも慣れておきたかった。大学を卒業し、いきなり社会に出てもおろおろするだけだろう。親も承知して、部屋を借りる頭金は出してくれた。学生のあいだは勉強が主で、バイトは従にすると言うと、学生のうちは仕送りするとも言ってくれた。あたしは少し考えたあと、甘えさせてもらうことにした。
駅前となれば、水琴も便利がいいので、彼があたしの部屋に来るようになったわけだ。それからのあたしと水琴は、ほとんどの時間をこの部屋で過ごした。映画も音楽もセックスも、当然、喧嘩もそこでした。
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