H2O-5

それでも離れられない

 水琴は、相変わらず奔放だった。知らない人の汗を肌にすりこませ、知らない匂いをこぼす残酷な軆であたしを抱く。誰かとの快楽の痕が、全身に残っている。それは赤紫の口づけだったり、背中の爪痕だったり、首筋の歯形だったりした。
 水琴は未成年だったが、普通に酒を飲んでいた。彼にはアルコールは日常だ。彼曰く、両親の口論にいらいらせずに眠るには酒が一番だったのだそうだ。それが今でも常習になっているのだった。
 その日も、水琴は少し酔っていた。酔った水琴には何を言ってもしょうがない。彼は首を赤い花とスパイシーな香りに彩られていた。あたしは黙っていた。目つきはとげとげしくなった。水琴は無視したのか気づかなかったのか、平然とあたしをベッドに押し倒した。
 あたしはいまだに、水琴としかしたことがない。水琴はいったい、どれほどの女と寝たのだろう。割りに合わない気がする。ならば、あたしも浮気すればいいのだけど、……しない。
 浮気しても気持ちは埋まらないだろう。むしろ虚しくなる。あたしの望みは、水琴に追いつくことでなく、舞い降りてきてもらうことだった。
 水琴はやや乱暴に動きはじめた。酒臭い息に包まれたうめきが、ベッドのきしみと部屋に響く。黙って水琴を見ていた。アルコールに浮かされた彼は、あたしなんか見ていない。
 冷めていた。濡れていれば感じているというわけではないのは、もう知ってしまった。
 天井に目をそらした。まぶたを下ろした。嗅覚も殺した。キスで酒の味が滲んだ舌も忘れて、残るは触覚と聴覚だけになる。これでいくらかマシだ。熱い肌触り、空気の湿度、湿ったシーツ。軋むベッド、乱れた吐息、低いうめき、そして─―
 突然、あたしは目を開いた。
「何」
 確かに聞いた。
「誰」
「え……」
 うめきがかたちを成したのを。
「カナって誰?」
 聞こえたのは、女の名前だった。水琴はあたしを見下ろす。動きは静かになったものの、続いている。
「カナって誰?」
「は?」
「今、カナって言った」
「言ってないよ」
「言ったよ。誰?」
「かな─―。ああ、ただの昨日寝た女だよ」
 ただの?
「気にしなくていい」
 気にしなくていい!?
 あたしは水琴をはねつけた。唐突な拒絶に、水琴は目をしばたいた。
「ふざけないでよ、バカっ」
「え」
「水琴はあたしを何だと思ってるわけ。ほかの人のこと想って、あたしを抱かないでよ。その人が抱きたいなら、せめてそっちに行って。その人を抱いて。あたしをあたしとして抱けないなら来ないで!」
 水琴は開いた目をあたしに置いたまま、体勢は立て直した。
「ひどいよ。バカにしてばっかり。あたしは水琴しか想ってないし、水琴が一番なのに。あたしには水琴は特別なんだよ。水琴だけはちゃんと見てくれてるって、そう思ってるのに。何で他の女の名前なんか言うの。そんなのされたら、自分が何なのか分からないよ」
 こぼれてきた涙をぬぐった。水琴は、わめくあたしに何とも言えない顔をしている。
「応えてってわけじゃない。でも、せめてそう思ってるのは知ってて。水琴が他の人とするのは嫌なの。つらいの。やめてって頼んでも、水琴がやめないのは分かってるから……。でも、あたしがそう感じてるのは憶えてて。あたしはそんなに優しくない。分かっててよ。それで、マシな行動くらいして」
 水琴はしばらくうつむいていた。ふと顔を上げた。その瞳は苦く、あたしを疎む色が滲んでいた。
「期待してたんじゃないけどさ」
 そっけない口調だ。
「リオもそのへんの奴と一緒だな」
「……え」
「何で、これが俺だって、認めてくれないんだよ」
 一瞬口ごもった。
「一対一とか、相手のために努力するとか、どうせ無駄なんだ。届かなくて疲れて、いらついてくるだけなんだよ。俺はそういうの嫌なんだ。自分のことしか考えたくない」
 目を剥いた。信じられなかった。絶句するあたしに、水琴は唾みたいに吐き捨てた。
「鬱陶しいんだよ」
 水琴の頬を引っぱたいていた。急な動きで、軆がベッドをはずんだ。水琴の瞳に驚きが走る。あたしは生まれて初めて怒りで震えていた。
「出てって」
「え」
「出てってよ。こっちだってもううんざり。別れよう。ちょうどいいよね」
 水琴はたっぷり何秒かぽかんとしたあと、思いのほか、見る見る泣きそうになった。
 彼はあたしに触れようとした。あたしは荒っぽくはらいのけた。ベッドを降りると、Tシャツと下着を身につける。そして、水琴の服をつかんで彼に投げつけた。
「それ着て、とっとと出てってよ」
 水琴はあたしを見た。濡れた瞳の効果も、心に届く前に怒りが蒸発させてしまう。
「早く」
 とげとげしい催促に、水琴はのろく服を身につけた。ベッドを降りる。スプリングのきしみが気まずく空中に飲みこまれる。
 水琴はあたしを振り返った。睨みつけた。彼はうなだれ、玄関に歩いていく。ごそごそとスニーカーを履くと、部屋を出ていった。
 ドアが閉まって、玄関に行って鍵をかける。そのあと遠ざかる足音が聞こえはじめた。それを聞き届けもせず、室内に引き返した。
 乱れたベッドを直した。そろそろシーツを洗濯しなくてはならない。ベッドサイドに腰かけて、いっとき、ぼうっとした。水琴が来たのは夕暮れ時で、外は暗くなって月を従えていた。
 とりあえず、シャワーを浴びた。バスタオルで髪を拭きながら部屋に戻った。
 無造作に小型冷蔵庫を開ける。水琴が押しこんだビールやチューハイが並んでいる。
 どうしよう。そう思った。思って、その所感にとまどった。
 どうしよう? 違う。捨てなきゃ、だ。
 奇妙な違和感がこみあげた。眉を寄せた。水琴が出ていったドアを見た。
 出ていった。そう、水琴は出ていった。あたしがそう命令した。水琴の泣きそうな目を拒否した。ひとりうなずこうとして、失敗した。再び、閉ざされたドアを静かに見てしまった。
 何で、だろう。麻痺したような頭で考える。何で水琴に「出ていけ」などと言えたのだろう。水琴をぶった右手を見おろす。そう、あたしは彼が語った彼の考え方に逆上した。
 彼はあたしの考え方を「鬱陶しい」と言った。
 あたしを抱きながら、ほかの女を呼んだ。
 それを謝りもせず、「気にするな」と受け流させようとした。
 今こうしてそれらを並べてみると、空虚なものに思えた。だから何だというのだ。水琴がそういう性格なのは、一年以上もつきあって、じゅうぶん承知していた。承知した上で、彼とつきあっていた。何をいまさら怒り狂ったのだろう。
 暗雲があふれるように現実が押し寄せてくる。焦りが沸き立つ。水琴は出ていった。「別れる」とか投げつけた気もする。あたしは水琴なしではいられないくせに。
 途端、泣き出してしまった。ひたひたのタオルを絞るように涙があふれてくる。しゃがみこもうとして、開けっぱなしの冷蔵庫のドアが臑に当たった。ますます泣けてきた。臑にあたった拍子で冷蔵庫のドアは閉まり、冷気も遮断される。
 うなだれ、長い髪をフローリングにそそぎながら、大きな音を立てて涙を床に落とした。やがて水溜まりができると、雫を受けるたび、澄んだ水面は震えた。
 どのくらいそうしていただろう。窓の向こうはまだ暗かったが、月が見えなくなっていた。ようやく涙は止まってきても、嗚咽は長引いた。濡れていた頬は、乾いた涙に固くなっている。目をこすると、湿った睫毛がちくちくした。
 どうしよう。水琴を失くしてしまった。今になって、「あれは感情に走っただけ」なんて言えない。怒らせるのがオチだ。どうしたらいいのだろう。死にたいぐらいの後悔と羞恥が心を切り刻む。
 もう水琴と連絡は取れない。あの声を聴けない。会って触れることもできない。そんなの耐えられない。
「どうしよう……」
 つぶやきながら、また視界がゆがんできた。鼻をすすった。水分をはらんだまぶたが重くなってくる。涙のしたたるほうへ、がっくりうなだれたときだった。
 ドアフォンが鳴った。顔を上げた。誰だろう。こんな時間に。
 喉が嗚咽で引き攣る。顔も鼻水をかんだティッシュみたいにぐしゃぐしゃだ。出たくない。帰ってくれと祈りながら、じっとドアを見つめていると、ドアフォンは再び鳴り響いた。
 仕方ない。なるべく涙をはらうと、立ち上がった。ドアに歩み寄って深呼吸すると、「どちら様ですか」と涙声に湿らないよう無機質を装って応える。しばらく、沈黙が置かれた。
「俺……」
 肩がこわばった。水琴だ。一瞬、迷った。だけど、すぐに手が鍵を開け、ドアを開いていた。
 視線がぶつかった。ぶつかったあとに、相手が水琴であることを確認した。彼は怯えた目をしていた。あたしは止まってしまったあと、やや考え、「虫が入ってくるから」とぎこちない口実で水琴を招いた。水琴は躊躇いがちに部屋に入った。ドアも鍵も閉める。
 水琴はスニーカーを脱がず、あたしを見下ろした。あたしも、きちんと履かずにかかとを踏んだ靴のまま、水琴を見上げる。
 あたしは曖昧に微笑んだ。水琴はあたしの頬に触れ、涙の痕をたどる。そして、同じように曖昧に微笑むと、あたしを抱き寄せた。
 水琴の胸に顔を伏せる。石けんの匂いがして、咲いそうになった。水琴はあたしをきつく抱きしめる。
「ごめん」
 驚いて水琴を見た。衣擦れが静かな部屋に際立つ。水琴もあたしを覗きこむ。
「ごめん?」
「ごめん」
「どうして」
「分かんない」
「水琴は悪くないよ」
「俺もそう思ってる」
 あたしが咲うと、水琴も咲った。
「リオが泣くと、俺も泣きたくなるんだ」
 水琴の背中に腕をまわした。水琴はあたしのこめかみに口づける。その感触で、濡れていた髪が乾いているのに気づいた。
「誰か抱こうとしたんだ。ここを出て」
 水琴の声は、少しかすれて耳元に流れこむ。
「いつものとこで適当に捕まえて、やろうとした。だけどダメだった。リオのことしか頭になくて。嫌われたって怖くて。ほかのことには集中できなくて、俺、……勃たなかったんだ。適当言ってやっぱやめると、部屋に帰って。でも落ち着けなくて。リオがいないなんて考えられない。でもリオの部屋に行っても、何したらいいか分かんないし。とりあえず、シャワーは浴びてきた」
 くすりとした。水琴はあたしの髪を撫でている。あたしはすっかり満足していた。
「ごめんね」
「え」
「勝手なこと言っちゃった」
「………、リオが普通なんだ。俺が変なんだよ。でも、変でも、俺はこれが俺だと思ってる」
「うん」
「ダメかな」
 あたしはかぶりを振った。水琴はあたしをもう一度抱きしめる。
「リオ」
「うん」
「正直、俺にはリオじゃ埋まらないものがあるんだ」
「………、うん」
「でもそれは、リオ以外の奴なら、誰にだって埋められる。で、俺にはリオじゃなきゃ埋まらないとこもあるんだ。そこは、リオ以外の奴には絶対埋められない。リオにしかできない。俺にもリオは特別だよ。別格なんだ」
 耳を当てる水琴の心臓は、いつもより速い。
「ほんとだよ。それはリオじゃなきゃダメなんだ。そうなってる」
 あたしはうなずき、彼の背中をさすった。水琴の肩の骨を痛ませるくらいの抱擁も、今日は心地よかった。
 仲直りしたあたしたちは、ベッドにもつれこんだ。水琴の淡い石けんの匂いは、すぐに新鮮な汗に取って代わられた。ふたりとも達したあと、はにかんで咲い合って、一緒に毛布に包まる。
 お互いの体温に寄り添い、ふたりとも深い安眠をむさぼった。

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