H2O-7

君しかいらない

「リオ」
 はっと振り向いた。目を開いた。排気ガスがただよう横断歩道の途中に、水琴がいた。
 一瞬、すべてが機能停止した。その一瞬に、水琴は手につながった手を認めた。
 慌てて放そうとしたら、希里くんが手をきつく握った。狼狽えて希里くんを見た。
 足音が迫って顔を上げたとき、左頬に衝撃を覚えた。後ろによろける。衝撃のあと、それが痛みだと分かった。何とか踏みとどまり、反射的に頬を抑える。水琴があたしを平手打ちしたのだ。
 あたしがよろめいて手が離れた希里くんが、何か言ってくる。聞かずに水琴を見つめた。水琴は頬を吸血鬼みたいに蒼ざめさせ、あたしたちを睨みつけていた。その瞳には、激しい嫉妬が燃えていた。
 嫉妬。
 水琴が。
 茫然としていると、水琴は脇を荒々しくすれちがった。追いかけようとしたら、腕をつかまれた。もちろん希里くんだ。
「ほっときなよ」
「だって水琴、」
「あんなのただの本性だろ」
 希里くんと瞳を突き刺しあった。唐突に彼が忌ま忌ましくなった。この男のせいで、水琴とダメになるかもしれない。
 水琴とダメになる。そんなの嫌だ。まだ水琴が欲しい。ぜんぜん飽きていない、あの瞳にも、肌にも、声にも。まだ終わりたくない。水琴の隣にいたい。
「彼には、君は慰み物なんだよ」
「だから?」
「え」
「だから何? そんなの分かってる。あたしだって水琴を慰み物にしてる」
 希里くんは怪訝そうに眉をゆがめた。力が緩んだ隙に、その手を腕からはらい落とす。
「水琴といたら落ち着くの。恋人ってそうじゃないの? あたしたちは、一緒にいたらなぐさめられるからつきあってるの」
「あいつは君を裏切ってるんだよ」
「裏切ってない! 水琴をやってることだけで決めつけないでっ」
 初めてあたしの逆上を見た希里くんは、ただ突っ立つ。
「もうそばに来ないで。このことで水琴と何かあったら、あなたのこと、絶対に許さない」
 言い切ると、青信号が点滅する横断歩道を駆け抜けた。希里くんは動き出した車に邪魔されて、あたしを追いかけられなかった。
 部屋にたどりつくと床に座りこんだ。口の中に鉄の味が広がっていた。頬が痛い。かなり強い力でぶたれた。ずきずきする。そのずきずきを、大量の生温い水分が撫でていく。
 水琴と終わってしまうかもしれない。彼は二度とこの部屋に来ないかもしれない。水琴は嫉妬していた。裏切られたと思っていた。どうすがっても、水琴には何も聞こえないだろう。水琴にとって、あたしは裏切り者になってしまった。
 鼻をすすった。涙は止まらない。唇の端に流れこみ、口の中で血と混じる。まずい。吐き出したい。なのに飲みこむ。鉄を帯びた不快な味が喉を舐める。うずくまって、空腹の迷子のようにうめく。
 あたしは水琴を裏切っていない。裏切ろうとやけで考えることはある。いっそ裏切ってしまいたい願望もある。けれど、実行に移せないのは、裏切らないのではなく、裏切れないからだ。
 実は水琴も裏切っていないからだ。あたしは彼の心の神聖な部分にいる。あたしだけの部屋だ。そこにいて、人の気配は感じない。外ではいろんな女がうるさいけれど、水琴の心の中にはあたしひとりなのだ。
 水琴はあたしを裏切っていない。正直、それが愛なのかは分からなくても、少なくとも水琴はあたしにタブーは犯していない。なのに、あたしが水琴を裏切ったら、おかしな話だ。
 薄暗かった部屋が真っ暗になっても、すすり泣いていた。フローリングにできた水溜まりに左頬をうずめる。痣が鋭く反応し、くしゃくしゃの顔がさらにゆがむ。ぶたれた痕が痛くて、涙もぬぐえない。
 何の気力も起きなかった。水琴を失くしてしまった。どうすればいい? 水琴をもぎとられたあたしは、いったいどうすればいい? 彼はもはやあたしの一部なのだ。いや、一部どころか支柱だ。水琴がいなくては、あたしは両腕を失ったように無力になる。
 塩辛い水溜まりが広がっていく。フローリングに押しつぶれた頬が痛いのに、身動ぎもできない。水分だけが、とめどなく瞳をあふれていく。
 ずっとそうしていると、気が遠くなって朦朧としてきた。自分が何をしているのかも分からなくなって、ただ胸を突く痛みだけが鮮明だった。
 明日、自分が生きているかも判断がつかない。いや、次の瞬間、自分がどうするかも分からない。包丁で喉を切るか、開き直って本当に浮気するか、永久にこんなふうにうずくまって痙攣しているのか。
 分からない。そのどれかなのか、どれでもないのかも──本当に、分からなかった。
 突然、ドアの向こうでどさっという音がした。荷物を地面に落としたような音だ。その音にかろうじて反応し、顔を上げた。濡れ揺れる視界を、のろいまばたきで澄ませても、すっかり室内は闇に侵されていて同じだった。
 ごそごそと低い物音がドアをこすっている。ドアフォンは鳴らない。けれど、不明瞭なしゃがれ声なら聞こえた。
「りお……」
 もちろん、慌てて腰を上げた。鍵をかけわすれていたドアを押し開けようとすると、なぜか重くて開かない。どうにか隙間を作ると、そこからうめき声が流れこんできた。
「水琴」
 呼びかけると、重いものが動いた。ドアを開ける。泥酔した水琴が地べたにくずおれ、取り落としたケーキみたいにつぶれていた。
 もう一度名前を呼ぶと、水琴はのろのろと顔を上げる。
「りお……」
「水琴──」
 立ち尽くして、心がきゅうっと切なくなりかけた。けれど、こんなときに、エレベーターホールから足音が近づいてくる。つぶれる水琴は、狭い通路を妨げていたから、あたしは急いで彼を玄関を引きずりこんだ。
 真っ暗な室内に入ると、水琴はきょろきょろとした。そして、いきなり立ち上がり、土足でフローリングに上がりこむ。水琴が駆け寄ったのはベッドだった。そこを何やら確認すると、部屋を見まわす。しばらく浴室のほうに耳を澄ましていたが、無論、誰もいない。
 水琴はあたしを見た。
「あいつは……」
 靴を脱いで、水琴に歩み寄った。水琴は床にへたりこむ。あたしも彼の目線にしゃがみこんだ。
「りお、俺……」
 彼の息はひどく酒臭かった。酒に強い彼がこんなになるなんて、いったいどれだけ飲んだのだろう。
「……りお」
「うん」
「リオ──」
 水琴の瞳に映るあたしが、一気にひずんだ。そして頬に幾筋も水分が伝っていく。
 水琴はあたしに抱きついた。あたしは受け止めた。酒にほてる水琴は、あたしの背中を抱いて、胸に顔をこすりつける。涙も涎も鼻水も──犬が自分のものに匂いをつけるように。あたしは水琴の頭を抱いた。
「リオ……」
「ん?」
「……俺、嫌なんだ」
「え」
「嫌、なんだよ……。俺以外の男になんか、近づくなよ。俺だけでいてよ」
「水琴……」
「リオがほかの奴といるのは嫌なんだ。ダメなんだよ。リオにほかの奴が触るのも、リオがほかの奴に咲うのも、リオの中にほかの奴が入るのも──嫌だよ。怖いんだ」
「水琴」
「嫌だよ。リオは俺のもんなんだ。リオがいるから俺は生きてるんだ。俺にはリオしかいないんだよ。リオだけなんだ。ほかの奴のとこなんか行くなよ。ひとりになりたくない」
 あたしは水琴の髪を撫でて、髪に口をつける。こちらまで酔ってしまいそうな酒気が、たまらなく愛おしかった。これはたぶん、水琴のあたしへの執着の強さだ。
「リオ」
「うん」
「リオ」
「なあに」
「リオ……」
 水琴の声がくぐもった。嫌な予感がして覗きこむと、案の定、今にも吐きそうに口を抑えている。あたしは水琴を流しに連れていこうとする。だけど、脱力した彼はかなり重い。
 あたしは、急いでシンクで水を張っていたプラスチックのたらいを引っくり返し、水琴にさしだした。途端、彼はその中に思いっきり嘔吐した。
 部屋じゅうにアルコール臭が満ちた。水琴は食べずにひたすら飲んでいたのか、たらいにあふれたものは、ほとんど液体だった。
 水琴はまだうめいている。けれど一度吐いてマシになったのか、立ち上がってよろよろとシンクに向かう。あたしも追いかける。水琴はステンレスに吐きまくった。あたしはそのあいだずっと、水琴の背中を慰撫していた。
 ひとしきり吐いて、シンクにつかまっていた手を離した水琴は、がくんとその場に崩れ落ちる。そして腫れぼったい声でつぶやいた。
「みず……」
 慌てて冷蔵庫に駆け寄り、ミネラルウォーターを取り出し、手早くグラスについで水琴に渡す。彼はそれを音を立ててひと口飲みこみ、息をついた。
 たらいを持ってくるとシンクに返し、洗っておいた。流し全体にも胃物が飛び散っているのですすいでおく。それでも、生ゴミを蒸し返すような異臭は残ったので、窓を開けにいこうとした。
 初めて、水琴があたしの脚にもたれて眠ってしまっているのに気づいた。苦笑いをこぼし、重たい彼をまた引きずる。そしてどうにか上体を起こし、ベッドにもたれさせた。水琴はすっかり熟睡して、あたしの頼りない移動にも目覚めなかった。
 スニーカーを脱がせ、水琴の髪を撫で、部屋を簡単に片づける。スニーカーを玄関に置いて、土足の痕やこぼれた胃物を雑巾で拭き取り、窓を開けて網戸をかけた。
 梅雨入り前で、まだ夜風は冷たくて心地いい。頬を舞う風は、ひんやりと涙の痕をなぞった。レースカーテンだけ引くと、水琴のかたわらに戻った。
 ベッドサイドの床に座りこむ。水琴を見つめた。彼のやすらかな寝息は、自然と微笑みを誘った。彼の頬の涙の痕も生々しい。指先でそれをたどると、髪もそっと愛撫した。
 視界の隅で、カーテンが揺らめいている。空気が入れ替わっていく。水琴の寝息は柔らかい。あたしは水琴の左肩に寄りかかり、そこに無傷の右頬を預けた。
 水琴の安心しきった寝顔に、あたしの神経もほぐれていく。ぶたれた頬も、涙にちぎれた喉も、するすると癒されていく。睫毛を伏せた。水琴の寝息と匂いが心に満ちる、深い安堵に浸ったあたしは、まもなく睡魔にさらわれてしまった。

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