終わる日
あたしは水琴を信じていたけど、それが彼のあたしへの愛情に通ずるかは断言できなかった。
彼がさまざまな女を渡り歩きながらも、最終的にはあたしに戻ってくるのは信じていた。水琴にとって、あたしは家だった。あたしに帰ってきてはくつろぎ、我慢も秘密もせずに自分をさらけだす。彼があたしを帰るべき場所として別格にしてくれていることは、嬉しかったし、信じていた。
ただし、それが彼の愛情かと問われると口をつぐむ。客観的に見れば、しょせんあたしは都合のいい女だった。希里くんの意見は、けしてひがみではないのだ。水琴はあたしを利用している。傍目には、水琴にとってのあたしは、おとなしく待つだけの都合のいいポスト恋人だった。
あたしは水琴に愛されている自信がなかった。彼にとって、自分が特別であることは信じている。でも、特別だからといって、愛されているとは言い切れない。
あたしと水琴のつきあいは、三年に届きそうになっていた。あたしに和解を求めてきていた希里くんも、夏休み前、何度も突っぱねていたらついにあきらめた。
長い夏休みは、バイトに専念して静かに過ぎていった。その長い休暇も終わると、大学とアルバイトを両立する慌ただしい毎日が再開する。
水琴はしばらく訪ねてきていない。明日は来てくれるかな、とひとりでベッドにもぐりこむ日が続いていた。
十月の始めだった。すっかり暗くなった頃にバイトから帰ると、あたしの部屋のドアに水琴がもたれて立っていた。怒るより寂しかったあたしは、ぱっと笑顔になって駆け寄る。この夏あたしは髪を切ったから、たなびく長さはもうない。
彼に他人のにおいがするのは覚悟していた。ところが水琴は、彼の匂いしかさせていなかった。やや面食らったものの、もちろん嬉しい。
「待ってたの?」
「ああ」
「ごめんね、バイトで」
「平気。たいして待ってない」
久しぶりで、笑みがはにかんでしまう。水琴も咲い返した。その笑顔には、どこか、色褪せたような違和感があった。どうしたのか訊きかけたけれど、懐かしいせいだろうと思い直した。
水琴を部屋に招き、明かりをつけると、肩にかけていたデイパックを床に放った。水琴はのろのろとスニーカーを脱いでいる。彼を見つめ、「どうかしたの?」とやっぱり訊いてしまった。水琴はあたしを見て、笑みを作るとかぶりを振った。
並んでベッドサイドに腰かけた。水琴はあたしの頭を肩に乗せ、セミロングより短くなった髪を梳いてくれた。いつもなら押し倒している頃になっても、ただ髪を撫でている。何となく不安と心配が綯い混ざって水琴を見上げると、彼はあたしを見つめていた。
その瞳は、とても凪いでいた。
「どうしたの?」
「えっ」
「今日は静かだね」
「そうか」
「いつもだったら、もうしてるでしょ」
水琴は曖昧に咲った。
「俺、そんなセックスばっかじゃないよ」
「そうかな」
「………、セックスばっかかな」
咲って、首を横に振った。
「けど、俺たちって一回してからつきあいはじめたんだよな。セックスばっかかも」
「そんなことないよ。軆だけだったら、こんなに続かないと思う」
「そう?」
「うん」
「そっか」
水琴は微笑み、あたしを抱き寄せた。あたしも水琴に身を寄せる。水琴の匂いが肺を蕩かす。
「リオ、俺と初めて会った日、憶えてる?」
「え。それはもちろん。文化祭の最終日でしょ」
「うん。リオって隅っこの花壇に座ってたよな」
「えっ。あ──うん、午前中ね。知ってたの?」
「俺のこと、ずっと見てたじゃん」
あたしはどきりと心臓を跳ねさせ、頬を染めた。
「気づいてたの」
「うん。それで気になって、連れてた女まいて、リオを追っかけたんだ」
「そう、なんだ」
知らなかった。あたしは水琴の温かな胸に頬をすりよせる。
「あの文化祭、ぜんぜん興味なかったんだ。だけど、ほら、ライヴあったじゃん。知り合いに、あのバンドがライヴやるって聞いて、行くことにした。あれがなきゃ行ってなかっただろうな」
「そしたら、あたしと会ってなかったんだ」
「たぶんな。今は、行ってよかったと思ってる」
「うん」
「行って、よかったよ。ほんとに。リオに出逢ってなかったらとか、そんなん、考えるだけで怖いよ」
「あたしも水琴が来てくれてよかった。見つめてよかった」
頭の上に水琴の咲い声が聴こえて、あたしも咲う。
「リオと初めて寝た日もよく覚えてるな。俺、一回寝たら消化して、すぐ忘れるんだよ。なのに、リオは残った。何か、俺の中にリオがいてくれてる感じで、すごいよかった。いるのがリオだっていうのが、もっと嬉しかった」
水琴の鼓動が耳の中に脈打ってくる。速い。柄にもない話になって、緊張しているみたいだ。
「リオを逃がしたくなかった。俺、あのとき簡単につきあおうっていったけど、断られたらどうしようって、泣きそうだったんだぜ。つきあいたいとか言ったのも、思ったのも初めてだった。一回したらもういらないって感じだったのが、リオは違ったんだ。すごいよ」
あたしは照れ咲いして、「そんなことないよ」と言った。水琴は即座に否定する。
「リオはすごいよ。リオは俺の中にいられるんだ。俺と同じ細胞を持ってるみたいに。そのうち、リオが中にいるのは当たり前になった。それが俺を安心させた。俺がリオを何回も抱くのは、そのせいだよ。薄れて消えたら怖いから、何度もリオを抱いて、俺の中のリオを濃くするんだ」
さすがに恥ずかしくて、あたしは彼の胸に顔を伏せてしまう。水琴はそのあたしの肩を抱きしめた。
「ほんとだよ」
「うん」
「リオは特別なんだ。ずっと、最初から」
「うん」
「リオの代わりなんていない。リオが初めて俺に触った。俺自身だって触れないとこに。何でそうなのかは分からないけど、とにかく、それができるのはリオだけなんだ。リオしかいない。俺をこんな気持ちにさせるのは、一生リオだけだよ」
不意に首筋に水滴が落ちた。あたしはびっくりして顔を上げた。
水琴は泣いていた。あたしは狼狽え、彼を覗きこむ。
「水琴。どうしたの」
水琴の瞳は、雫をこぼしては揺らめいていた。
「リオ……」
「どうしたの」
「リオ」
「水琴?」
「………」
「何」
「俺、……俺、………」
言い澱む水琴の頬に、あたしは手を添えた。水琴はあたしを見つめた。傷を負った動物のような苦しげな瞳は、どくどくと涙を生み落としている。あたしの指先も濡れていく。
「水琴……」
「リオ、俺」
水琴は息を吸った。そして、吐く息と共に続けた。
「俺、エイズに感染してる」
あたしは動きを止めた。ついで、すべてが止まった気がした。
エイズ?
ぽかんとした。瞬時には理解できなかった。
水琴は一気に唇を裂く。
「昨日……一昨日だったかも、いつも遊びにいってる店で、友達がエイズ──じゃない、HIVか、それの検査薬を持ってきたんだ。唾液垂らして、赤い線が出たらポジティヴだって……遊びみたいな感じで。俺もしたんだ。赤いのが出た」
「………、で……も、」
混乱に喉が麻痺して、言葉も声もつっかえる。
「そんなの……おもちゃみたいなの……なんでしょ」
「ほかの奴はそんな変色しなかった。全部そうなるってイカサマではない。赤くなった奴は、やっぱ生活が荒んでる奴とか。それに、信じられなくて俺はもう一回やったんだ。同じだった。ランダムってわけでもない」
砕かれて粉になったような真っ白な頭のまま、水琴を見つめる。話があまりに遠くて、突拍子なくて、実感がなかった。彼の瞳はまだ湿っている。軆を離されて、あたしは初めてとまどった。
「俺が心配なのは、リオのことだけで」
「え……」
「明日にでも、病院行って」
きょとんとするあたしに、水琴は鏡に映る自分を疎む人みたいに、つらくてたまらない様子で眉を寄せ、うつむいた。
「俺から感染してるかもしれないだろ」
目を開いた。水琴は視線をそらしたまま、ベッドサイドを立ち上がった。あたしはおろおろと彼を見上げる。
「水琴」
「絶対、病院行って。結果が出た頃、また来るよ」
「水琴、」
「じゃあ」
立ち上がって追いかけようとすると、水琴はあたしの肩を抑え、額に口づけた。そして一瞬抱きしめると、すぐに軆を離す。あたしはそこから動けない魔法にかかる。
水琴はあたしに弱く微笑すると、部屋を出ていった。部屋は空っぽになる。あたしは閉じたドアを、いつまでも見つめていた。
もし陽性だったら。
あたしたちは死に突き進めばいい。
もし陰性だったら。
……陰性だったら?
水琴が訪ねてきたのは、十月十三日、月曜日の夕方だった。寒くなりはじめる直前の、とても暖かな日だった。検査結果はもらっていた。あたしたちは、あやふやな笑みを交わした。
水琴を部屋に招き入れると、ベッドサイドに腰かける。いつもと同じなのに、まったく違う感があった。その奇妙な隔たりが、無性に息苦しかった。
ぎこちない沈黙が続いた。水琴は息を詰め、あたしはうつむいていた。ときおり、電気が切れかけみたいな音を唸らせるのが耳障りだった。呼吸するのにも遠慮が入る。
膝の上で手を握りしめたとき、水琴が沈黙を裂いた。
「……どうだった?」
単刀直入だった。同断に返すほかなかった。
「陰性、だった」
沈黙は一瞬だった。水琴が長い息を吐いた。
「そっか……」
いろんな感情が混ざり合ったような、何もこめられていないような、つかめない口調だった。あたしは水琴を向いた。
「あのね、水琴──」
「ダメだよ」
「え」
「俺、リオとプラトニックなんてできない」
見透かされて、口ごもってうなだれる。またしばらく黙然とした。けれど、糸を切るようにふと水琴が笑った。あたしは水琴を見る。水琴はあたしを見ない。
「答えるよ」
「えっ」
「いつも訊いてたじゃん。俺が何でいろんな女と寝るかって」
唐突な話題と水琴の薄笑みがどことなく怖くて、眉を寄せる。
「俺、援交の女子高生なんだ」
「え……」
「寂しかったんだ。寂しくて、いろんな奴とやってたんだよ」
あたしは彼を見つめる。水琴は低く笑っている。
「ずっと、寂しかったんだ。ずっとひとりだったんだよ。俺の両親って喧嘩ばっかでさ、家の中ぼろぼろだったんだ。子はかすがいとか言うだろ。俺はなれなかった。むしろ離婚の邪魔になる荷物だった。両親の安らぎどころか、気休めにもなれなくて、荷物になってる自分が嫌でたまらなかった。自分が何なのか分からなかった。誰も俺のことなんか必要としてなかった。寂しかった。怖かった。俺が十六になって、やっと親は離婚した。俺はどっちにもつきたくなくて、あの部屋を要求した。あと、ちょっと困らせてやりたくて。でも俺が『部屋が欲しい』って言ったら、ふたりとも一瞬ほっとしたんだ。あの顔、一生忘れられないよ」
水琴は首をぐったり垂らす。あたしは何も言えない。言うのもおこがましかった。
「誰かに必要とされたかった。愛されたかった。でもそんなの簡単に見つからなくて。焦るほど、だんだん出会い方がめちゃめちゃになって、会ってすぐ寝るとかいうかたちになって。寂しさはふくらんでいった。女とやりながら、何でこんなことしてんだろとか考えて。とにかく、人がたくさんいるとこに行って、できるだけたくさんの人間と関わって。けど、誰が誰なのか区別がつかなった。虫みたいに、俺の周りにうじゃうじゃいるだけ。俺は本当に存在してるのかとかまで考えた」
水琴は小さく息をつぐ。
「その中でリオを見つけた。リオは初めて俺の中に入ってきた。リオの顔も、声も、匂いも分かった。あったかいし、キスもおいしくて。リオだって思った。俺がずっと探してたのも、生まれたときから足りなかったのも、リオだったんだって」
水琴はやっとあたしを見た。彼はもう笑っていなかった。泣き出しそうだった。
「俺、腰抜けなんだよ。しばらくリオと一緒にいたら、いつ飽きられるかって、そのことばっかり怖くなったんだ。バカみたいだよな。あれ、ふざけてたけどマジだよ。俺、リオを嫉妬させたかったんだ。ほかの奴として、やきもち妬いてほしかった。喧嘩できるたび、ほっとしてた。リオの中にも俺がいるって。いっぱい怒ってほしかった。それで俺の気持ちを確認したら、安心して咲ってくれるのが嬉しかった。リオも俺と同じ気持ちなんだって──それが俺の全部だった」
「水琴──」
「リオが俺の全部だった。俺の中にいるリオが、俺の存在そのものだった」
水琴はゆっくりとベッドを立ち上がった。顔を上げると、彼は正面に来てひざまずく。目線を等しくして、水琴はあたしの手に手を重ねた。
「リオ」
水琴の手のひらの熱が、溶けるように手の甲に伝う。
「俺さ、リオ──理音を愛してると思うよ。だから……」
水琴を見つめた。水琴は淡い微笑を浮かべた。儚くて切なくて、今にも蒸発してしまいそうな微笑だった。
「愛してるよ、理音」
ぎゅっと目をつぶる。絞めつけられる喉に声が出ない。
「だから……さ」
あたしの手から、水琴の手がそっとちぎれる。怯えてまぶたを上げても、水中に埋もれる瞳に水琴の顔は見えない。だから急いでまばたきをしたのに、熱の雫は余計あふれて瞳から頬へ流れ落ち、剥き出しの手に冷たく飛び散っていった。
【第九章へ】