朝の時間
犬の散歩の人とか、ジョギングの人とか、早くも出勤している人とか、そういう人とすれちがいながら、朝は十キロ走る。
毎朝のことだから、顔見知りになる人もいて、俺はすれ違いざまに「はよーっす」と挨拶する。それに気さくに応えてもらいながら、今日も暑くなりそうな日射しが空にのぼっていくのを見やる。
早起きな蝉の声、明け方の名残で少し冷めた空気、朝露がしたたる緑の匂い──そんな中を走り終え、家に戻る頃にはすっきりと快晴が広がっている。
俺は首にかけたタオルで汗をぬぐってから、鍵を取り出して家の中に入る。
「今日はいいお天気ですよーっ」
ロードワークを終えた俺は、いつもその日の天気を、こうして玄関先で叫ぶ。そしてシューズを脱いで家に上がり、いい匂いがただようキッチンにつながるリビングを覗く。
冷房がきいていて涼しい。南はキッチンでいそがしそうに朝食を用意をしていて、リビングでは司がスーツを着てネクタイを締めている。
俺に気づいた司が、「天気予報ご苦労」と言って、「今日から仕事っすか」と俺はまばたきをする。
「盆休みなんて短いよなー」
「俺は部活再開だから桃に会える」
「部活なくても会ってたじゃないか」
「毎日じゃなかったし」
「また遊びにおいでって言っとけよ」
「おっけ。シャワー浴びてきますわ」
「もうすぐ朝飯だから、急げよ」
「了解っ」
そう言うと、俺は制服を持ってきてから洗面所に向かって、汗が染みこんだランニングウェアやタオルを洗濯かごに放る。
そして、ひやりとしたタイル張りのバスルームに踏みこみ、熱いシャワーを出すと筋肉に浴びせた。汗のべたつきがするすると流れ落ちていって、すっきりすると五分ぐらいでシャワーを終える。
洗面所でふかふかのタオルに水気を吸わせると、ネクタイは締めずに高校の制服を着て、パンが焼ける匂いがただようリビングに戻る。
「おはよう、授」
いつのまにか響が起きてきていて、南の料理をダイニングのテーブルに運んでいる。
「おはよっ」と返した俺は、溶けるバターを挟んだロールパンやぶあついベーコンエッグ、シーチキンと野菜のサラダが並んでいくテーブルを確認したあと、キッチンの冷蔵庫を開けて、一リットルのペットボトルのスポーツドリンクをそのままごくごくと飲んだ。このドリンクが俺専用なのは暗黙の了解なので、間接キスの恐れはない。
「奏はまだ寝てそう?」
カップに柔らかな香りのコーンスープを溶かす南は、それをテーブルに運ぼうとした響に訊く。「たぶん寝てるよ」と響は肩をすくめた。奏はこの家に泊まるときは、響の部屋の床にふとんで寝る。
「じゃあ」と俺はペットボトルのキャップを締めながら口をはさんだ。
「奏のぶんは俺が食う」
「いや、取っておくからね」
「また作ればいいと思う」
「ベーコン全部使っちゃったから。授も自分のスープは自分で持っていきなさい」
「何か朝飯足りないー」
「バナナあるから」
「バナナー。しゃーないなあ。二本食っていい?」
「はいはい」
かきまぜてコーンスープができあがった自分のマグをつかみ、俺はダイニングに戻る。
司は自分の席に座り、新聞に目を通している。我が家が新聞を取っているのは、主に響が社会のニュースを知っておきたいとめずらしく主張したからだが、どうせ取っているならと司や南も読んだりしている。
朝食がテーブルに揃うと、司と南、俺と響での朝食が始まる。
「にいちゃん、また今日からコンビニ弁当かなー」
サラダの瑞々しいレタスをざくざく食いながら俺が言うと、「そうだろうなー」と新聞を閉じた司が答える。
「あの築が、自動的に飯が出てくることに感動してたしな」
「にいさん、少し柔らかくなってたね」
「女の子と遊ぶより、友達作ったりしてるみたいだから」
「友達」
南の言葉に俺と響は声を合わせ、顔も見合わせる。
「え、にいちゃんにそういう甲斐性あんの?」
「なかなかおもしろい友達がいるみたいだよ」
「……おもしろい」
俺が神妙な面持ちで、にいちゃんとおもしろい奴、という絵面を想像できずにいると、「また帰ってきたときに訊いてみなさい」と南は苦笑した。
「しかし、築がいたのあっという間だったなー。夏休みならもっとゆっくりしていってもよかったのに」
司がロールパンを食べながらおもしろくなさそうに言うと、「向こうでの生活があるんだよ」と南がなだめる。
「雪ねえちゃんが帰ってこなかったほうが、俺はつまんなかったなー」
「雪さん、大学生になってからあんまり来なくなったよね」
「大学ってそんなもんなの? 学校でも、一学期から早くも大学受験の話する教師いてさー。やめてー」
「高二なら考えはじめとけよ」
「とりあえず桃と結婚したい」
「じゃあ就職すんのかよ」
「陸上は続けないの?」
響に問われて、「んー」と俺は首をかしげる。
「ほかにやることなかったら、やってるかもしんないなあ」
「授のこと、選手として欲しいって大学は多いんじゃない?」
南が言うと、「あー」と俺はグラスをつかんで牛乳を飲む。
「コーチが何かそんなこと言ってたけど、聞いてない」
「そこは聞いとけよ。そのコーチも、お前が今の高校に入学するのを見こんで来てくれたんだろ」
「桃が代わりに聞いてるから」
「大学に進むなら、相変わらず授には桃ちゃんのサポートが必要みたいだね」
南はくすりとして、ベーコンエッグを口に運ぶ。
確かに、大学に進学するとして、桃と同じ大学なのは確かだ。高校に進学するときも、桃と同じ高校なのが絶対条件だった。桃は俺の彼女だけど、同時に陸上選手としての俺をずっと一番近くで見ているパートナーでもある。
朝食を食べ終わってから、バナナも二本むしゃむしゃ食べて、お代わりした牛乳で締めると「ごちそうさまっ」と俺は立ち上がった。
高校に進学したときは結び方がよく分からなかったネクタイも、ようやく無造作に締められるようになった。歯を磨いたり用を足したり、いろいろやったあと、リビングに置いていた着替えやドリンクをつめこんだスポーツバッグを肩にかける。
「じゃ、いってきますっ」
リビングに声をかけると、むずかしそうな本を読む響も、出勤前に荷物を確認する司も、キッチンで食器を片す南も、それぞれ「いってらっしゃい」と応えてくれた。俺はにっとすると玄関に走り、シューズを履く。
「あれ、授くんってもう学校なの?」
よしっ、とドアノブに手をかけたとき、そんな声がして振り返ると、俺たちの末弟の奏が階段を降りてきていた。
悠長な、ぼさぼさの頭とよれよれの服というすがただ。
「部活ですよ」
「えー、かったるいねえ」
「いや、桃に会えるんで」
「夏休みにも学校行くとか、俺、分かんない」
「んー、勉強するわけじゃないしなー」
「まあ、頑張って」
「おうっ。奏の朝飯できてるぞ」
「授くんがつまみ食いした奴ね」
「してませんよ。南に止められましたよ」
「食べようとはしたんだね」
「よっしゃ、いってきます!」
「ごまかしたーっ」
奏の叫びは無視して、まばゆく日光が射す外に出た。
早くも空気が熱されて肌に絡みついてくる。青空に雲はなく、先月よりは減ったけど、まだ蝉の声が空中を飛び交っている。
草の匂いがする庭を横切って門扉を抜けると、奏と話したぶんのロスを考えて、小走りに駅に急いだ。桃よりは先に着いておきたい。
中学から高校に進学するとき、俺は陸上での推薦をけっこうあちこちから受けていた。でも、俺はどんな陸上の有名校よりも、桃と同じ高校に行きたかった。顧問には色ボケしてる場合かと言われたが、桃は俺をサポートできるのは誰よりも自分だと主張してくれて、桃をマネージャーにするのを条件に進学する高校を絞った。
それで通っているのが今の高校だが、部活に力を入れていても、そこまで陸上で名高い高校ではなかった。しかし俺への期待はかなりの熱意で、必要なものは言えば揃えてくれたし、コーチは中学時代の顧問のOBが受け持ってくれた。
去年の夏、俺の成績で一躍陸上界隈で有名な高校になって、今年は陸上目的での入学者もいた。一年生には「水瀬さんのすっげーファンです!」と言ってくれる奴もいるし、中学から追いかけてきた奴もいる。そんなわけで、今年の夏の大会では各選手がさらに実績を残し、新たな陸上の登竜門の高校になりつつある。
駅前に着いて、手のひらでふやけそうな頭をあおいでいると、すぐに「授くん!」と桃が手を振りながらやってきた。中学のセーラー服の桃もかわいかったが、高校のブレザーもよろしい。天然パーマで緩く波打つ長い髪を、夏らしくポニーテールにしている。
俺は気にせず肌を焼いていても、桃は薄手のカーディガンを羽織っているから、そんなに日焼けしていない。「桃、おはよっ」と俺がにかっとすると、桃も笑顔になって「ごめんね、いつも私が遅くて」とほてった頬に手の甲を当てる。
「桃は、ママと杏を起こしてこなきゃいけないからな」
「ママ、ほんとにアラームで起きないんだよー」
「俺は鳴る前に目が覚めるけどなー」
「私もわりとそうかも。寝る前にこの時間って決めてたら起きるよね」
「分かるわー。にいちゃんとかには、『動物なんじゃねえの』とか言われてたけど」
「あ、おにいさん、帰省してたんだよね。どうだった?」
「ちょっと丸くなってた。俺のアイス勝手に食ったんで、文句言ってたら百円くれた」
「え、何か違うね」
「ねー。前なら絶対『南に買ってもらえばいいだろ』とか言って、絶対自分の損は出さなかったのに。雪ねえちゃんがしつけてくれてるんだな、きっと」
俺は静かにうなずき、それから「ホーム行っとこ」と桃の手を取って駅構内に入り、定期ICで改札を抜けた。学生は夏休みとはいえ、大人は司のように盆が明けたわけで、ホームは混雑している。
俺も桃も持参のドリンクを飲んで、熱中症対策しておく。練習中に俺がぶっ倒れたら示しがつかないのは、さすがに自覚している。やがてアナウンスが流れて、電車がすべりこんできた。
【第二章へ】