君の隣にいられること-3

ずっとふたりで

 一日のメニューが夕方になる頃に終わると、心地よい疲労感に飲まれて大きなため息が出た俺は、グラウンドの地面にぱたんと仰向けになった。地面には熱があるけど、アスファルトじゃないから焼けつくほどじゃない。
 少し抜けるようになった風が、汗ばんだ軆を冷ます。ひぐらしの声が響く空にはオレンジ色が滲んで、日が短くなってくなあ、なんて思う。ふと顔に影がかかったかと思うと、「授くん」と桃が俺を覗きこんできた。
「お疲れ様。水分摂ってね」
 桃がボトルをさしだして、「んーっ」と声を出して背伸びした俺は上体を起こす。タオルが巻かれた冷たいボトルを受け取り、キャップを外すと口をつける。
 朝、凍らせたペットボトルは持ってきていたけど、それは昼食のときに飲みほしてしまった。だからこれは、アイスボックスに入っていた、桃とあとふたりの女子マネージャーが作ったレモンと蜂蜜の特製ドリンクだ。
「んまい」
 ごくごくと一気に半分くらい飲んで、かたわらにしゃがんだ桃に笑顔を向けると、桃もにっこりする。
亜樹子あきこちゃんも紀香のりかちゃんも、授くんのぶんのレモンは私に絞らせてくれるの」
「へへ、桃じゃないと意味ないもんな」
 微笑んだ桃は俺の隣に腰を下ろし、天を仰いで「明日も晴れだなあ」とつぶやいた。「暑いだろうなー」と俺はドリンクの冷たさが軆に染みていくのを感じる。
「そういえば、今年は神社のお祭り行く?」
「行く。桃の浴衣を見たい」
「ふふ、実は今年の浴衣は新作です」
「マジで」
「お盆にママと杏と出かけたとき、赤とピンクのハイビスカスの買ってもらったの」
「それは写メらんといけませんなあ」
「授くんにも甚平とか着てほしいな。似合いそう」
「持ってたら着るけどなー。あれ涼しそう」
「いつか、浴衣と甚平で花火大会とか行ってみたい」
「あー、いいな。夏がもっと自由なら、連れていくのにーっ」
「今は部活優先だもんね。いつか行けたらいいよ」
「いつかかあ」
「私と授くんはずっと一緒だから、いつかもそのうち来るよ」
「そだなっ。あー、シャワー空いたかな。浴びて帰らないと電車乗れないや」
 そう言って、俺はまた大の字で仰向けになり、ふと、広がった視界の中にこちらを見ている視線があるのに気づいた。
 スカート、ブラウス、リボン──の、制服すがたの見知らぬ女子生徒が、グラウンドの入口から俺と桃を眺めている。黒髪のストレートを長く伸ばし、顔立ちはクールビューティとかいう言葉がよぎった。
 俺と視線が合うと、彼女は何だか意味深にくすりと笑った。誰、と俺が眉を寄せていると、桃も俺の視線が止まっているのに気づいて彼女を見る。彼女は桃にも笑みを見せてから、身をひるがえして立ち去っていった。
「何?」
 俺は桃を見上げて、「笑ってた?」と桃も首をかしげる。
「え、何か怖いんですけど」
「何だろ。授くんのファンかな」
「怖いんですけど」
 繰り返す俺を「よしよし」と桃は額をさすってなだめてくれて、「授くんは、私がいてもモテるからなあ」と苦笑する。
「そうなのか? 中学のときは、桃がいれば虫はいなかったぞ。つか、どっちかっつうと勉強できないってバカにされてた感」
「みんな、授くんの魅力に気づくんだよ」
「俺は桃しかいらないもん」
「ふふ、知ってる。だから、私は怖くないよ」
 にこっとした桃を見つめて、かわいい、と抱きしめたくなったけれど、何とかそれをこらえて起き上がる。
 夕暮れが景色を染め上げて、すべてが茜色だった。俺のファン、と言われたとしても、確かに俺が桃のものなのは変わりないから、不安なんてないか。
 不意に「お疲れ様でーす」という制服に着替えた後輩の声がかかって、「おうっ」と俺は答えてから桃と顔を見合わせる。
「シャワー浴びてくるわ」
「うん。私も片づけあるから」
「校門で待ち合わせな」
「分かった。地元着いたら、杏のお迎えも行かなきゃね」
 桃とその場を立ち上がり、俺はドリンクを飲み干すと空のボトルを桃に渡した。「ごちそうさま」と言うと、桃は「どういたしまして」と優しく咲ってくれる。
 俺はそんな桃の柔らかい髪に少し触れると、これ以上いちゃついたら桃がコーチに怒られるな、と部室が並ぶプレハブの中の男子シャワールームに背伸びしながら向かった。
 ぬるめのシャワーで汗を流すと、制服に着替えて、グラウンドに残っていたコーチと仲間に挨拶し、校門で桃を持った。ネクタイは締めずにスポーツバッグに押しこみ、ボタンもふたつ外して喉元を涼しく保つ。
 月が出てるな、と気づいているうちに夕焼けは終わった。湿った髪を夜風に揺らしていると、「授くん、お待たせ」とマネージャーの仕事を終えた桃がやってきて、俺たちは手をつないで帰路につく。
「今日は杏の迎え行くってことは、ママ遅いのか」
「取引先と会うから、飲んでくるかもって」
「酒か。酒の味はよく分からんな」
「アスリートじゃなくても、そのほうが授くんっぽい」
「にいちゃんが、酒も煙草もやらないのが驚きですわ。やっぱ司がそうだからかな」
「南さんは好きなんだっけ」
「好きというか、不安になったら飲んだり吸ったりやっちまうみたいだな。司がそばにいたら、いらないらしい」
「そっか。じゃあ、私たちもずっといらないね」
「ねー」
 月の光でにっこりしあっていると、街明かりがにぎやかになってくる駅に到着して、定期ICを取り出す。改札を抜けてホームでしばらく電車を待ち、朝と違って割と空いている車両で地元に帰ってくる。
 時刻は十八時になりそうで、「ちょっと急がなきゃ」と言った桃と共に、俺も桃の妹の杏がいる保育園に向かった。
「あ、授ちゃんだっ」
「時野杏のお迎えです」と保育士さんに声をかける桃の隣から教室を覗くと、迎えが遅くなったせいかちょっと寂しそうに絵を描いていた杏が、俺のすがたに気づいてぱあっと笑顔になった。そして、画帳もクレヨンもそのままにして駆け寄ってきて、「杏、待たせてごめんなー」と俺は杏をひょいと抱き上げる。
「ううん。授ちゃんもお迎え来てくれて嬉しい」
「今日、ママ遅いんだろ。ふたりって心配だし、家まで送ってやる」
「ほんと?」
「おう。飯は家で食うけどな」
「えー、一緒に食べようよ」
「じゃあ、杏が今度俺んち来いよ。うちの飯はうまいぞ」
「いいの? 行きたいっ」
 俺の首に腕をまわしてはしゃぐ杏に、「杏ちゃん、お片づけしてから帰ろうね」と保育士さんが声をかけてくる。「お、では行きなさい」と俺が言うと、「はあい」と杏は素直に地面に降りて、教室の床に散らかしたクレヨンなんかを片づけはじめた。
「杏って、ほんと授くん大好きだなあ」
 桃がちょっと複雑そうにつぶやくものだから、「桃も姫抱っこしようか」と俺がわりと本気で言うと、保育士さんがおかしそうに咲って「ふたりはいつも新婚さんみたいですね」と言った。すると、桃は嬉しそうな笑顔になり、「早く結婚したいっすね」と俺もうなずく。
 そんなのろけなのか世間話なのかをしていると、杏が片づけを終わらせてかばんを斜めがけにし、「帰ろっ」とこちらに戻ってきた。保育士さんが杏の靴を靴箱から取り出し、杏は早く帰りたいのか、そわそわとそれを履く。
 そして、俺と桃は杏をあいだにして、保育士さんに頭を下げると、「また明日」と言い交わして保育園を出た。

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