君の隣にいられること-4

君たちを送り届けたら

「おねえちゃん、夕ごはんなあに?」
 月明かりはあっても、けっこう道が暗いので、俺が一緒でよかったなと思っていると、桃の手を引っ張った杏がそう言った。「昨日、鮎買ったから塩焼きにでもしようかなー」と桃が言うと、「お魚なのー?」と杏はちょっと不満そうに言う。
 夏の夜風がゆったり流れていく。
「昨日の夜はラザニアだったから、和食がいいでしょ」
「お魚、骨が刺さって痛いもん」
「ちゃんとほぐして食べたら、喉には刺さらないの。杏もそろそろ箸を上手に使わないと」
「俺は骨ごと食うので、響とかにすげー変な顔される」
「美由くんはきちんとほぐしそう」
「あいつは綺麗に解体するタイプだな」
「授ちゃん、お魚の骨も食べるの? 刺さらないの?」
「刺さりそうな小骨は吐き出します」
「杏も吐けばいいのかなー」
「ちゃんと桃の言う通り、ほぐすようにしたほうがいいぞ」
「何で?」
「将来、男がそういうの見るからな」
「授ちゃんも、お魚きちんと食べる女の子が好き?」
「桃が綺麗に食べてるのは気持ちいいな」
「そっかあ。じゃあ、杏も頑張る」
「よしよし」
「杏って、私より授くんの言うこと聞くんだもん」
 桃が軽くふくれっ面で言って、「だって、」と杏は俺とつなぐ右手に力をこめる。照り返すアスファルトに日中の名残があるせいか、手を握っていると指がほてってくる。
「授くんには、パパになってほしいもん」
「え」ととっさにまばたいた桃に、「だから、いい子にするの」と杏は得意げににっこりする。
「え……えーっ。杏、それはね、……何というか、」
「杏さん杏さん、それは無理です」
 俺がマジな顔で割りこむと、「どうして?」と杏は不思議そうに首をかしげる。
「だって、かのじょはおねえちゃんだから、杏はなれないでしょ?」
「あー、そういう意味か。いや、杏のパパになるなら、俺、ママと結婚しなきゃいけないじゃん」
「………、あ、ほんとだ」
「だけどな、杏。俺はいつか杏の兄貴にはなるぞ」
「おにいちゃん?」
「桃と結婚するから、それは約束する」
「おねえちゃんと結婚したら、授ちゃんは杏のおにいちゃんなの?」
「そそ」
「んー、分かった! じゃあ、早く結婚してねっ」
 あっさり納得した杏は、俺と桃を見上げて笑顔になる。
「ほんとびっくりする」と桃は息をついて、俺は笑ってしまってから「杏は俺と家族になりたいんだな」と訊いてみた。すると、「授ちゃんがいると、おうちが明るくなるもん!」と杏は言ってくれて、桃と結婚したらこんなかわいい妹もできるんだなあ、と思った。
 澄んだ虫の声がどこからか流れる中、桃と杏を無事マンションの一室に送り届けた。電気や冷房をつけて、杏を家の中に連れていったあと、「お茶だけしていく?」と桃は玄関先に座る俺に訊いてくる。
 リビングからの冷風を感じつつ、どうしようかなあとのんびり思ったときだ。俺のケータイが鳴って、ん、とポケットから取り出して確認すると、南からのメッセだった。
『夕ごはん、もうすぐ食べはじめちゃうよ。
 それとも、桃ちゃんと何か食べてくる?』
「あ」と声がもれる。そうだ、また南にこちらに着いたと連絡するのを忘れていた。高校生になってケータイを持たされるようになったものの、俺はほとんどケータイを携帯していることを使いこなしていない。
「誰?」
 隣にしゃがむ桃が首をかたむけ、「南だった」と俺はケータイの画面を見せる。
「帰らないと、ひとり飯になりそうです」
「そっか。じゃあ、ゆっくりできるときにお茶していって」
「ん。あ、神社の祭り、ちゃんと行こうな。何日なのか、また教えて」
「うんっ。ふふ、憶えててくれてありがと」
「桃の浴衣見たいからな」
「私も着るの楽しみ。じゃあ、また明日の朝に」
「おう」と俺は立ち上がり、「俺が出たら、ちゃんと鍵かけろよ」とドアノブに手をかける。
 桃はこくんとしたあと、靴を引っかけて一歩踏み出し、俺にぎゅっとしがみついてきた。桃の匂いがふわりと俺を包む。俺も桃を抱きしめて、顔を覗きこむと軽くキスをした。
 桃との別れ際が一番つらい。本当に、早く結婚して一緒に暮らしたい。でも、一緒に暮らすようになった司と南は、夜一緒にいられる代わりに、朝別々の一日を始めるのがつらくなったと言っていたっけ。俺と桃もそうなりそうな気がする。
 そっと唇をちぎって、柔らかくて温かい軆も離すと、「またな」とドアを開ける。桃はうなずいて、小さく手を振った。明日も部活で会える。祭りの約束だってした。夜のあいだ、ちょっと離れるだけだ。
 よし、と気分を切り替えると、俺は廊下に出てドアを閉めた。少し間があったあと、きちんと鍵をかける音がしたのを聞き届けてから、歩き出す。
 マンションを出ると、メッセは文字を打つのが面倒だったので、南に通話をかけた。コールはすぐに途切れて、「もしもしー」と俺は街燈が少ない道を歩きながら呼びかける。
『授。今どこ?』
「桃のこと家まで送ってましたわ。暗いし。今から帰るぞ」
『そっか。桃ちゃんの家からなら、十五分くらいかな』
「そだな。先に食っててもいいけど」
『待ってるよ。司もまだスーツから着替えてないし』
「おっと、司も帰ってきてんの。早いじゃん」
『うん、さっきだけどね』
「軽く走って帰りますわ。五分は短縮する」
『了解。夜道、気をつけてね』
 南との通話を切ると、ケータイをポケットにしまって、俺は深呼吸してから、ひと気の少ない道を突っ切っていった。
 走ったほうが、風が起きて涼しい。やっぱ走るの好きだな、とか思いながら、俺は桃の暮らすマンションの並びから一軒家の住宅街に移って、十分くらいで自宅に到着した。
 司が通勤に使っている車があるのを横目に、門扉と庭を抜けてスポーツバッグから鍵を取り出す。そしてドアを開けると、「ただいまーっ」とシューズを脱ぎながら声を張り上げた。
「おかえり。夜になっても元気な奴だなー」
 スーツではなくなっていた司がちょうど玄関を通りかかっていて、足を止めてそう言った。このあいだにいちゃんが帰省したときも思ったけど、司とにいちゃんは切れ長の目とか顔の彫りとかが本当に似ている。
「元気が一番ですよ」と俺は家に上がって、リビングからエアコンの冷気と夕食の匂いがただよってくるのに気づく。
「夕飯、何?」
「パスタだったぞ」
「俺、麺大量がいい」
「南に言え」
「ういー」
 俺はリビングに踏みこむと、スポーツバッグをソファに投げて「ただいまー」ともう一度言った。「おかえり」とキッチンの南と響はちゃんと返したけど、「腹減ったよー」とダイニングのテーブルで待機する奏はそちらを先に言ってくる。
「南、俺、パスタの麺がっつりがいいー」
「はいはい。──響、マリネ運んじゃって」
「分かった」
 響は皿をテーブルをお盆に載せている。俺は制服も着替えず、すでにテーブルに並ぶ青梗菜とハムのミルク煮やベーコンとチーズを巻いて焼いた山芋を見渡した。濃厚な香りに一気に空腹になる。
 紫キャベツのマリネを運んできた響は、「部活お疲れ様」と俺に言った。「サンキュ」とにっとした俺は、キッチンに行って冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐと冷えた香ばしさを一気飲みした。
「何か、レモンの匂いがする」
 パスタを皿に盛りつける南の手元を覗くと、「そう?」と南はフライパンを動かす。
「仕上げに使ったから。風味逃げてないならよかった」
 パスタにはエビとかシラスが絡んでいて、相変わらず南の料理はうまそうだ。杏も喜んで食いそうだな、と思うとひとりで笑ってしまって、「何?」と南は首をかしげる。くせ毛の茶髪が揺れる。
「いや、桃の妹がうちに来たいって言ってたから。そのときは南の料理食ってほしいなあって」
「僕の料理、そんな大したことないよ」
「うまいからいいの。ま、桃の弁当もうまいけどなー」
「桃ちゃんは、料理得意なんだよね」
「今夜は鮎の塩焼きって言ってた」
「いいね。鮎は今おいしいし」
 そんなことを話しながらも南はてきぱきとパスタを皿に取り分け、仕上げにスライスレモンを飾りつける。「運んでくれる?」と頼まれて「おっけ」と俺はグラスをシンクに置き、二皿ずつパスタをテーブルに運んだ。そしてテーブルに食事が揃うと、「いただきます」と五人で夕食をはじめる。

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