お茶会にて
かくして、ひとまず俺たちも下校することにした。しかし、ふたりとも親に遅くなると言ってしまった。「何か食って帰るか」と俺が提案すると、「駅前にファミレスあったね」と桃はうなずいた。
学校をあとにして歩き、駅前にある二軒のファミレスのうち、サラダバーがついているほうに立ち寄った。俺はサラダを何度もお代わりしつつ、ハンバーグセットを食べる。桃はチーズとシーフードのドリアで、俺にひと口分けてくれた。
二十時前に地元に到着すると、俺は夜道を案じて、例によって桃を家まで送る。
「あら、泊まってくるわけじゃなかったのね」
玄関を開けて出迎えた桃のママは、俺と桃のすがたににやりとするとそんなことを言った。桃のママは女手ひとつで桃と杏を育てるキャリアウーマンで、かっこいい感じの美人だ。「ママっ」と桃は少し頬を染めて、俺はのんきに笑ってしまう。
「あんたたちは、いまさら恥ずかしがる仲でもないでしょ。授くん、少し上がっていく?」
「お、いいんですか」
「杏のお迎えにも付き添ったりしてくれてるんでしょう。お礼にお茶くらい淹れたいわ。杏も授くんのこと、嬉しそうに話してくれるわよ」
「杏、かわいいっすよねー」
「ふふ、ありがとう。ほら桃、授くん入れてあげて」
「授くん、帰るの遅くなって大丈夫?」
「どうせ走れば十分くらいで帰れるしな。大丈夫」
にっとしてみせると、桃はこくんとして、「どうぞ」と俺を家に通してくれた。シューズを脱いで家に上がり、桃の匂いがする、と思いながら桃のママを追いかけてクーラーのかかるリビングに踏みこむ。
鍵をかけてきた桃は、俺に追いつくと「座ってていいよ」と言って桃のママが向かったキッチンに自分も続いた。杏はカウチでうたたねをしていて、冷えないようにブランケットを腹にかけている。そのまろやかな寝顔に無意識に微笑んでしまいつつ、俺は音を立てないように荷物をおろして、明日の追試の勉強しなきゃいけなかったなあ、と思い出す。
一応図書室で桃とひと通り答え合わせはしたけれど、もうちょっと頭に詰めこんでおいたほうがいい気がする。ケータイを取り出し、響のトークルームを開くと、『昨日の抜き打ちが見事赤点』と送信してみた。響は家ではケータイを部屋に置いているので、一階にいたら反応はないはずだと思っていたら、ふっと既読の文字がついた。
『見事って違う気がするけど。』
ついでそんな返信が来て、俺はこれ以上文字を打つのは面倒だったので、通話に切り替える。すぐに響は『もしもし』と応えてくれた。
「見事って間違ってるのか?」
『……いや、そういう使い方もするね。今どこ?』
「桃んち。桃のママが、お茶ご馳走してくれるって」
『時野さんと勉強して帰ってくるってこと?』
「帰るの遅くなるけど、勉強教えてってこと」
『はあ。いいけど』
「よしっ。じゃあ帰ったら寝てたとか無しな」
『あんまり遅かったら寝るよ』
「ママもいるのに、そんな遅くなれんだろ」
『まあ、そうだね。僕、今からお風呂入ろうとしてたけど、そのくらいの時間はある?』
「それくらい、いけると思うぞ」
『じゃあ、お風呂のあとは、寝るまでリビングにいるから。帰ってきたら、声かけて』
「了解っ。ありがとなー」
そう言って通話を切ったところで、「授くん」と桃がキッチンから声をかけてきた。「はいよ」と俺は立ち上がり、キッチンと一体化しているダイニングのテーブルに着いた。
甘い香りで、桃のママが用意しているのが、よく淹れてくれるロイヤルミルクティーだと分かった。桃はクッキーの箱を開け、個装から取り出して皿に並べている。その皿をテーブルの真ん中に置くと、桃は俺の隣にある椅子に腰を下ろした。
「電話してた?」
「響に。帰ったら勉強教えてくれって」
「そっか。授くん、明日追試あるんだもんね」
「あるんですよね」
「鼓ちゃんのことで忘れてた」
「俺も忘れてたかったけど、追試繰り返すのも怖い」
「美由くんに見てもらったら大丈夫だよ」
「だといいなー」
「ツヅミちゃんって?」と桃のママが、俺と桃の前にカップを置いた。やっぱりミルクティーだ。桃のママはティーポットから紅茶を淹れるので、ティーバッグやペットボトルとは違ううまさがある。俺でも分かるのだから、淹れるのがすごく上手なのだろう。
「今日ね、私と授くんの友達になりたいって、一年生の子に言われたの」
「友達?」
「私と授くんをそばで見ていたいって」
「授くんに気があるの?」
「私も最初そうかなと思ったけど、違うみたい。純粋に私と授くんが憧れのような」
「あんたたちは安定してるからねー。確かに、見てて心配や不安がないわ」
「鼓ちゃんも、私たち見てたら安心するの?」
「だとしたら、妙に親心を持った一年生ね」
温かいカップにつけていた口を離した俺は、「遠くからすっげえこっちをガン見してくるのが、怖いっすよね」と言った。桃のママは噴き出すと、桃の向かいの椅子に腰を下ろす。
「話しかけてきたってことは、ストーカーではなさそうね」
「理想のカップルと言われるのは嬉しいですけど、それを近くで見てたいって何ですかね」
「恋に恋してる感じかしら」
「どうなんすかね。一応友達になるってことになったんで、またガン見されんのかなー」
「授くんは見つめてくるその子が気になる?」
「俺じゃなくて、桃に気があったという場合が気になります」
「授くんらしいわ。だけど──そうね、桃の前であんまり気を揉むのは遠慮したほうがいいかも」
にっこりした桃のママに、俺はまばたきをしたあと桃を見る。「私は授くんを疑ったりしないけど」と桃はママに対してふくれっ面になる。すると、桃のママは「授くんがほかの女の話をするのは、おもしろくないでしょ」と淡い水色のマニキュアの指でクッキーを割り、欠片を口に投げる。
「それは、……少し、あるかもだけど」
「あるのかよっ。何だよ、じゃあ俺、今からでも成瀬の友達やめるぞ。それですっきりするし」
「それはしなくていいよ。私たちのこと慕ってくれてるなら、嬉しいって気持ちもあるし」
「んー、でも、眺めてくる限り、正直俺は成瀬が怖いから、あれこれ口にするぞ」
「うん。分かってる」
「無理しなくていいぞ」
「………、少し、引っかかるの」
「引っかかる」
「そういうおつきあいができない、って言ってたでしょ。憧れるなら、私たち見てるよりも、自分も恋したほうがいいのに。何か事情があるのかなって」
「……事情」
「そこを、何というか、先輩として頼られてるなら、私は鼓ちゃんを放っておきたくない」
桃の真剣な横顔を見つめる。そののち、「桃は優しいな」と俺がその頭を撫でると、桃は決まり悪そうに咲った。
そんな俺たちに微笑した桃のママは、「桃がそう思ってるなら、ふたりで気にかけてあげなさい」と言ってくれた。俺たちはその言葉にこくりとして、そのあとも少しミルクティーとクッキーで雑談をした。
カップが空になると、「またお邪魔しにきますんで」と俺は席を立った。「いつでもいらっしゃい」と桃のママはにっこりして、桃と結婚したらこの人が母親になるのかあ、なんて思った。本当の母親のことははっきり憶えていないぶん、何だか余計に嬉しい。
玄関まで見送ってくれた桃に、「また明日の朝な」と言ってうなずいてもらうと、俺は時野家をあとにした。
「ただいまーっ」
月の光では心許ない暗い道を小走りを抜けていくと、頬を切る風がだいぶ涼しかった。すぐに自宅に到着すると、秋の虫の声が響く庭を横切り、ドアを開けて声をそう上げる。ひょいとリビングから顔を出したのは、エプロンをつけた南だった。
「おかえり、授」
「ういっす。作業は?」
「司が帰ってくるの待ってる」
「司、まだなのか。二十一時になるぞ」
「今から帰るって電話はあったから、もう帰ってくると思うよ」
「そっか。響は?」
「あ、テストが赤点だったって聞いたんだけど」
「はっ? ちょ、響、言うなよー」
そう言いながら家に上がり、リビングを覗きこむと、カウチで本を読んでいた響が振り返ってくる。テレビの前では奏がゲームをしていて、レトロな電子音がピコピコ跳ねている。
「隠しても仕方ないんじゃない」
「小遣いが減ったりするかもしれないだろ」
「授は陸上がすごいから大丈夫だよ」
「いや、そうだけどさー。えー、南、司にも言うの?」
「聞いたからには隠さないよね」
「小遣い減らすとかやめてくれよなー。桃に飯おごったりとか、かっこつけたいときがあるんだよ」
「はいはい。桃ちゃんはいつも授にお弁当作ってくれてるから、そこは考慮します」
「よっしゃっ。じゃあ響、やる気ないけど勉強しようぜ」
俺がそう言って、カウチに荷物をおろすと、「問題用紙は?」と響は本を閉じる。俺は荷物から問題用紙と答案用紙を取り出し、響に渡した。
二枚を比較する響の手元を覗きこんだ南が、「すごい勢いで間違えてるね」とコメントする。ゲームをする奏が「もう学生じゃない南くんに、そう言われるとか」と噴き出し、俺は奏の頭を軽くはたいた。
「何だよー、たたかなくていいじゃん」
「奏がわりと成績いいという事実が、俺は納得いかないのです」
「響くんが教えてくれるから」
「俺だって響が家庭教師だぞ」
「あと、俺は要領がいいの。誤字りそうな字は書き取りやっておくとかねー」
「よ、要領……。俺は、……どう?」
「ひらがなで三角になってるのが目立つのはちょっと」
「三角は頑張ってるだろー」
「先生が頑張って譲歩してるよね」と南は苦笑し、「僕もそう思う」と響が続けた。総攻撃かよ、とむすっとしつつも、「とりあえず字から教えて」と俺は響をダイニングに引っ張っていった。
そのすぐあとに、司が帰ってきた。南に俺の赤点だの三角だのを聞いた司は、「俺の遺伝子は頭悪いのかよ」とため息をついていた。確かに、にいちゃんも成績がよくなかった。
「築は将来が決まってからは頑張ってたよ」と南が微笑むと、「まあそうだな」と司は肩をすくめ、「授も桃ちゃんと同じ大学に行くなら少し頑張れ」と俺の頭をぽんとした。「あーい」と俺が答えると、司はスーツを脱ぎながらリビングを出ていき、南はそれを追いかける。
俺は響に指摘されるミスの傾向にならって問題用紙を見直し、頭の中の「分からないところが分からない」を整理していく。
夜が更けていって、奏があくびをもらしはじめた零時頃、「寝たら忘れそうだけどいける!」と俺は会心の理解に両手を掲げた。響は「しっかり眠ったほうがすっきりするよ」と肩をすくめ、席を立ち上がる。南はすでに作業に入っていて、司はそれに付き添っている。
奏があくびをしているくせにまだ起きていると言うから、響は「じゃあ僕はおやすみ」と二階に上がり、俺は風呂に入ってTシャツとスウェットになった。「俺も寝るぞー」と奏に声をかけると、「ここのボス倒したら俺も寝るー」と奏はひらひらと手を振った。
そんな奏に消燈は任せて、「おやすみー」と残すと二階に上がった。作業部屋からは明かりがもれている。風呂の前にクーラーをつけていた部屋に入ると、にいちゃんが使っていた二段ベッドの下は使わず、慣れた上に来て紐で電気を落とした。
落ち着く匂いのベッドにもぐりこみ、息を吐いて力を抜く。するとまもなく眠気が大きな波のように押し寄せてきて、今日はいろいろあった、と思ったような思わないような、それがよく分からないあいだに熟睡に落ちていった。
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