君の隣にいられること-9

それが幸せなら

 空の色は変わらずくすんでいて、いつまた降り出すか分からないけど、とりあえず出歩けそうだ。景色は薄暗く、校舎には文化部が残っているのか明かりのついている教室がちらほらある。俺たちは靴を履き替えると、ひんやりした空気に土の匂いが混ざっているのを感じながら、学校をあとにした。
 俺と桃が並んで歩き、成瀬はそのあとをついてくる。桃の隣に行けばいいのに、と思っても、三人並んだら反対通行の邪魔か。
「駅前のどこ行こうか」と桃が言うと、「私がたまにひとりで行ってるカフェでよければ」と成瀬が顔を上げた。「駅前?」と俺が訊くと、「ちょっと歩きますけど、離れてはいないです」と返ってくる。
 というわけで、いったん駅に出てから、成瀬の案内でロータリーのはずれにある小さなカフェに行った。入口の隣のショウケースには、パンケーキとかフレンチトーストとかあって、「ここは女子の店では」と俺が気にすると、「そんなことないですよ」と成瀬はドアを開けた。
「いらっしゃいませ」という声に、「こんにちは」と成瀬は答えた。変な顔をしてしまう俺のことは桃が引っ張って、店内に踏みこんだ。
 コーヒーと煙草の匂いがした。店内を見まわすと、煙草を吸いながら本を読むおじさんもいたりして、ちゃんと男も入っていいみたいだった。分煙されていなくて、正直ちょっと煙たい。
 一番奥の四人席を選んだ成瀬は、俺と桃に椅子を勧めてから、自分もその正面に腰かけた。ラジオがかかっていて、DJが流暢にしゃべっている。
 雨の名残が冷たかったので、俺はホットカフェオレ、桃はホットカフェモカを頼んだ。成瀬はミルクセーキを頼んでいた。
「こんなとこがあったんだな」
 俺がきょろきょろしながら言うと、「本が読める場所を探してたら、見つけたんです」と成瀬は注文はまだ来ていないのでお冷やを飲む。
「鼓ちゃん、本が好きなの?」
「運動よりは、小説読んでるほうが好きです」
「俺、司書委員だけはなりたくないなー。昼休みと放課後、受付に拘束されるんだろ」
「ぼんやり座ってるだけじゃないですよ?」
「本読んでんの?」
「いえ、返却された本に傷がないか見たり、古くなった本を修繕したりしてます」
「あ、そうなんだ」
「九月いっぱいですけどね。十月は、後期になって委員も変わるんですよね?」
「うちの高校はそうだよね。なるべくいろんな仕事を経験したほうがいいからって」
「俺は免除されてるから分からん」
「え、水瀬先輩、委員受け持ってないんですか」
「俺は部活優先だからなー。それで推薦もらったし」
「そうなんですか」と成瀬が鼻白んでいると、ほどなく注文した飲み物が運ばれてきた。
 俺はカフェオレに砂糖を入れてかきまぜる。桃はほのかにチョコレートの匂いがするカフェモカをすすり、「おいしい」とつぶやいた。
 ミルクセーキにストローをさしてひと口飲みこんだ成瀬は、俺と桃をじっと見つめた。
「水瀬先輩と時野先輩って、いつからのおつきあいなんですか」
「ん、と。中一だよな?」
「うん、中一の夏休みから。授くんが優勝して、記録も出した大会でね、優勝したら告白するつもりだったって授くんから」
「じゃあ──もう、五年目なんですね」
「そう。ふふ、よく続いてるでしょー」
「喧嘩とかしないんですか」
「しないよなー。桃は俺のこと分かってくれるもん」
「授くんも私のこと大事にしてくれるよ」
 何だかへらっと微笑みあった俺と桃に、「やっぱりおふたりはいいですね」と成瀬は笑みを浮かべた。
「そういう関係って、憧れます」
 成瀬はミルクセーキをストローで飲んで、俺と桃は目を交わした。
 俺たちに憧れる。これは、成瀬のことを訊いてみるチャンスだ。
「ねえ、鼓ちゃん」
「はい」
「鼓ちゃんって美人だけど、これまで彼氏はいたことないの?」
「ないですよ」
「ほう、彼女ならあるのか」
「ないです」
「私たちに憧れて、そばで見ていたいって言ってくれるけど。それって、鼓ちゃん自身が恋をしたほうが幸せだと思うよ?」
 桃の言葉に、成瀬は口をつぐんでうつむいた。桃は少し黙ったのち、「もしかして」とテーブルに身を預ける。
「鼓ちゃんには、恋愛できない事情とかあるのかな」
 成瀬は肩を揺らし、ゆっくり桃を見た。桃はいつになく真剣な面持ちで、俺も茶々はひかえてふたりを見守る。
「もしそのことで悩んでるなら、私たち、ちゃんと聞くよ?」
「先輩……」
「言いたくないなら無理しなくていいけど、私と授くんをただ見てても解決はしないんじゃないかな」
「……でも」
「でも」
「おふたりを見てると、幸せ……です」
 俺はカフェオレをすすって、「見られてるほうは、けっこう怖いんだよなあ」と言った。成瀬が俺に目を移す。
「俺と桃は、人に見てほしくてつきあってんじゃないしさ。窮屈な感じはある」
「授くん──」
「司が正直に言えって言ってた。だからさ、成瀬。俺たち、もっと普通に話したりすればいいと思うんだ。こんなふうに。見てるだけは友達じゃないよ」
「近いと、おふたりの邪魔になりませんか」
「遠くからの観察のほうが怖いわ」
「そう、ですか」
 成瀬はうなだれ、ミルクセーキを混ぜるようにストローを動かした。氷がからころと音を立てた。
 しばらく沈黙が流れ、そののち、成瀬は俺たちに向かって顔を上げた。
「私、恋愛ができないんです」
「え」と俺と桃が声を合わせると、成瀬は言葉を継ぐ。
「自分が恋愛するってことに興味がないんです。性的なことは、むしろちょっと気持ち悪いです」
「……俺と桃は、童貞と処女じゃないよ?」
「人のはいいんです。人の恋愛見てるのは、好きなんです。自分もそうなりたいなとは思わなくても、見てて幸せそうなカップルは好きです。小説も映画も、ラブストーリー好きなんですよ。でも、それを自分がって考えると……ちょっと」
 成瀬はミルクセーキに口をつけ、とっさに理解できていない俺と桃に、緩く微笑む。
「そんな中で、水瀬先輩と時野先輩はすごく素敵に見えました。今までで、一番のカップルなんです。想い合ってるのがよく分かって、私にはパートナーなんてきっと一生できないけど、憧れちゃって。だから、そばで見ていたいってどうしても思ったんです」
「パートナー、欲しいとは思うの?」
 桃が尋ねると、成瀬は首を横に振った。
「欲しいと思わないから、できないと思います」
 俺は成瀬を見つめて、何かよく分かんねえけど、と頭をかく。とりあえず、俺が好きとか、桃が好きとか、そういうことで邪魔はしてきそうにないのは分かった。
 なぜそうなのかは分からないけれど、どうやら成瀬には「恋愛感情」がないということのようだ。
「んー、まあ、それでもさ、見てるだけはやめようか」
 俺がそう言うと、成瀬はこちらに視線を移す。
「友達じゃん。見てるよりは、たまに話もしようよ」
「話して……くれるんですか」
「話さないほうがしんどい」
「私のこと、冷たい人間だって気持ち悪くないですか」
「どこが冷たいんだよ」
「人を好きになれないんですよ」
「俺と桃のことは好きなんだろ。セットで」
「それは、……そうですけど」
「じゃあ、俺と桃も成瀬のことが好きだよ」
「私たちのこと、応援してくれてるんだよね?」
「もちろんです」
「じゃあ、仲良くしようよ。鼓ちゃんのこと、もっと話してほしい」
 成瀬は桃を見つめて、思いがけないことに、顔を伏せてぽろぽろと何粒か涙をこぼしはじめた。「私、ずっと自分が怖くて」と成瀬の声も震える。
「みんな好きな人の話するのに、自分はぜんぜんそんなの興味なくて。恋愛なんて気持ち悪いとか感じて。別に、何かトラウマがあるとかじゃないんです。穏やかな人生送ってきたと思います。なのに、私は何なんだろうって、不安で……」
「鼓ちゃん──」
「物語の中でも、クラスの中でも、つきあってて幸せそうなふたりを見るのは好きなのに。自分では絶対にそれはできないって、確信があって。私は何か欠けてるのかなって……怖くて。みんな誰かが好きなのに、私は誰も好きになれないから、怖くてっ……」
 桃が手を伸ばして、成瀬の頭を撫でる。「私は授くんが好きだから」と桃は優しく声をかける。
「鼓ちゃんと同じだよとは言えないけど。でも、鼓ちゃんみたいな人はきっとひとりじゃないと思うよ。恋人ができないことは、ひとりぼっちってことじゃないからね」
 成瀬は目を伏せてうなずき、「ありがとうございます」と何度か口にした。桃は丁寧に成瀬の頭をさすっている。
 俺はそれを見つめて、恋愛ができない性質かあ、と内心繰り返した。そんなの、桃にあっさり惚れた俺には想像もつかないけれど。確かに、思春期の女子の中で好きな奴ができないってかなりつらそうだ。だから友達も少ないのかもと思うと、成瀬がいじらしくなった。
「成瀬」
 目をこすって涙をはらった成瀬がこちらを見る。俺はにっとして、「今度、俺の親を見守るの好きで自分の恋愛なんかほったらかしてる人の話してやる」と言った。成瀬は濡れた睫毛でしばたく。「だから」と俺は言葉をつないだ。
「俺と桃のこと、成瀬がそんなふうに見守ってくれよ」
「……いいんですか?」
「それが成瀬の幸せなんだろ?」
 成瀬はまた瞳を滲ませ、こくこくとうなずいた。俺は桃と咲いあって、俺たちの幸せがこの後輩にとっても幸せになることを嬉しく思った。
 別に三人になるわけじゃないけど。俺と桃は、変わらずふたりだけど。これからは、そんな俺たちが好きだと見守ってくれる後輩ができたのだ。
 何か司と南と巴さんみたい、と思うと、それは何より誇らしくて、俺は笑みを噛みしめてしまった。

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