おいしい朝食
「お前っておかあさんがいなくて、おとうさんがホモなんだろ」
幼い頃から、しょっちゅうそんなことを言われた。
かあさんは、いるけど。確かに一緒に住んでいない。
父親はふたりいる。司と南。でも、ふたりは本当に愛し合っていて──
「気持ち悪いから、話しかけんなよ」
自分から話しかけてきたくせに、席替えで僕の前の席になった彼は、言い捨ててくるりと前を向く。その後頭部を見つめたあと、うつむいて唇を噛む。
別に、言われなくても話しかけないよ。僕は、僕の家庭がとても大切だけど、それをほとんどの人が分かってくれないのは知っている。
僕が信じていればいい。僕だけでも、司と南の絆を信じる。分かってくれる人がいなくても、僕と僕の家族は知っている。司と南が、どれだけつらい想いをして、今、ようやく寄り添い合っているか──
──すずめがさえずっているのが、ふと耳に届いた。
朝、とぼんやり思って、目をこする。ふとんの中で身動ぎして、ひとつあくびがこぼれる。
上体を起こすと、昨夜僕が就寝する直前まで一階でゲームをしていた弟の奏が、床に敷いたふとんでまだすやすやとしていた。奏は近くの公立中学でなく私立中学に進んだものの、それでも通学に一時間かかる僕ほど早く起きなくていい。
僕は背伸びをしてから、ベッドスタンドに置いていた眼鏡をかけた。奏のまくらもとにはケータイがあって、たぶんアラームがかけてある。それならいつも通り、ぎりぎりまで寝かせてあげたほうがいいだろう。
僕はカーキのフリーツの上着を羽織って、足音を立てずに部屋を出ると、朝食の支度の匂いがただよう一階に降りた。
「お、響。おはよう」
まず洗面所に行って、冷たい水で眠たい顔を洗うと、そんな声がかかった。ん、と洗面台にかがめていた上体を起こすと、「ほら」と頬にタオルを押しつけられる。
受け取って「ありがとう」と言いつつ、この声は司だとぼやける裸眼で思う。
「おはよう、司」
「おう。って、水かよ。お湯で洗えばいいのに。もう冷たいだろ」
「冷たいほうが目が覚めるから」
「お前はほんと、ストイックだよなあ」
「毎朝、町内走る授もストイックだと思うけど」
「あいつはそのぶん食い散らかすからな」
タオルに水滴を吸わせると、眼鏡をかけて、やはり相手が司なのを認める。もうワイシャツにスラックスで、身なりは整っている。
顔立ちで、よく築にいさんを思い出す。二ヵ月前のお盆に帰ってきたままだけど、元気にしているだろうか。
「和室、空いてる? 制服に着替えなきゃ」
「おう。奏はまだ寝てるのか」
「アラームかけてたから、時間になったら起きると思うよ」
「っそ。しかし、たまには早起きもしろっつうの」
司は肩をすくめると、僕の頭をぽんとして身を返し、ダイニングにつながるリビングのドアに入っていった。
奏はその前に夜更かしをどうにかさせないとな、と苦笑しつつ、僕は階段をのぼって、いったん二階の部屋に戻る。奏はやっぱり眠っている。上着を脱いで、今月から冬服になった制服を取った僕は、そっと部屋を出て一階の和室で着替えた。
脱いだパーカーとスウェットを洗面所の洗濯かごに入れていたとき、「今日は曇ってて、ちょっと寒いぞーっ」という叫び声が玄関から聞こえた。授だ。
ダイニングに行くために玄関を通りかかると、授は靴を脱いでジャージのファスナーをおろし、上半身に風を通していた。
「おかえり。寒いんじゃないの?」
「俺は走ってきたので暑いですよ」
「今、洗面所、誰もいないよ」
「おっ、サンキュ。シャワー浴びよっ」
ぐっと背伸びしてから、授は洗面所に入っていって、僕はリビングに踏みこむ。たまごと牛乳、そしてバニラエッセンスの甘い香りがしていて、今朝はフレンチトーストなのが分かった。
「おはよう、南」
声をかけると、くせっぽい髪を茶髪にした僕の実の父でもある南が振り返ってきて、「おはよう、響」と微笑んでくる。
司はリビングのカウチで新聞に目を通していて、「読むか?」と言って新聞をたたむ。
高校の授業では今朝の経済や政治のニュースの話題があったりするから、僕は毎朝新聞を読むようにしている。スマホだとどうしても内容がざっくりしているし、コメントの個人的見解を読んで滅入ることもある。淡々と事実を切り取っている新聞のほうが僕は好きだ。
「ありがとう」と僕は司から新聞を受け取って、カウチに腰かけて一面から今朝のニュースをチェックしていく。
「フレンチトースト甘いから、スープはコーンよりコンソメがいいかな」
南はそう言って、スープの粉末をあさっている。そのかたわらに行った司は、南の髪を指に絡めながら「むしろ」と言う。
「コーンでどっちもぼってりしてたほうがいい」
「そう? うーん、まあサラダがドレッシングだけでさっぱりしてるからいいかな。よし、あとは──ヨーグルトお皿に盛るか。手伝ってくれる?」
「もちろん」
ふたりで五人ぶんのヨーグルトをガラスのうつわに盛りつけていって、相変わらず司と南の仲が良くて僕は安心する。
今日も昔の嫌な夢見たからなあ、なんて思う。おかあさんはいなくて。おとうさんはホモで。それでも、僕の家庭はこんなにも優しい。
授がシャワーを浴び終えて制服すがたになった頃、ようやく奏も起き出してくる。朝七時になる前に五人でダイニングの食卓に着いて、「いただきます」と南の手料理を食べはじめる。
「これ、砂糖かけていい?」
奏がフレンチトーストをしめして言うと、「入ってるよ?」と南は首をかしげる。ちなみに奏は、南の真似をして髪の色を染めている。
「白くさらさらーっとかかってるのがうまいんじゃん」
「……まあ、好きにしなさい。甘くなっても知らないよ」
「わあい。授くん、その砂糖取って」
「太ると思いますけどね」
サラダの生野菜をどんどん口に運んでいた授がさらっと言うと、「うっ」と奏は一瞬口ごもる。
「そ、そんなの、女子じゃないし、気にしないもん」
「でも、男も体脂肪は気にしたほうがいいよ?」
僕がフレンチトーストをひと口大にしながら言うと、「響くんまで」と奏は僕に横目をする。
「いいのっ、もっとうまく食えるもんは、もっとうまく食うの!」
「このままでも、南の料理はうまいだろ」
「ま、太っていいならいいんじゃないですかね。ほい」
授はもぐもぐしながら僕に砂糖の瓶を渡し、いいのかなあ、と思いつつ僕は瓶を奏に渡す。奏はむうっとふくれたものの、やはり砂糖をさらさらとフレンチトーストにかけていた。そして粉雪が降ったようなフレンチトーストをフォークでちぎり、「やばい、たまごとろとろ」とか言いながら噛みしめるように味わう。
「うん、やっぱ甘いほうがフレンチトースト食ってる感あるよ」
「朝から甘すぎると、電車とかできついかなって……」
「南、それ正しいから、奏の言うことは気にするな」
「そうだぞ、あとで後悔するのは奏だ。てか、野菜もう少し食いたい! 何かない? 果物でもいい」
「林檎があるよ」
「よっしゃ、林檎丸かじりじゃ」
南は席を立って、冷蔵庫から林檎を取り出すと、ざっと水道で洗って、「ほんとに丸かじりする?」と振り返ってくる。「おうっ」と授が答えると、南はそのまま林檎を持ってきて授に渡した。授はしゃりしゃりと音を立てて、林檎に歯を立てていく。
「響は、朝食そのままでいい?」
南に問われて、僕は少し咲ってしまうと「これでいいよ」とサウザンドドレッシングのかかったトマトを口に含む。完熟トマトは、柔らかく口の中で溶ける。
「ここに築がいたら、たぶん『俺はサラダいらねえわ』って文句をつけてたんだろうな」
「だろうね」
「南の料理はうまいから、残すっていう選択は俺はないぞ」
「俺もちゃんと食べるよっ」
「ふふ、ありがとう。食べてくれるならそれで嬉しいよ」
「しかし、にいちゃんどうしてるかなー。ぜんぜんメッセとかしないわ」
「俺と南には、ちょくちょく何かよこすぞ」
「友達ともうまくいってるみたいだよね」
「勉強も大丈夫そう?」
僕の質問に、「意外と頑張ってるみたいだな」と司はうなずいた。そうなんだ、と僕はほっとする。
にいさんは、進路が決まるまで、正直あんまり成績が良くなかった。今はなりたいものが決まったから、頑張れているのだろうか。
朝食が終わると、歯を磨いたり用を足したりして、僕が一番に家を出る。冬服のジャケットを羽織るから、授の言った通り秋のひんやりした空気があっても、寒いほどではなかった。
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