心に宿る彼-10

心に宿る彼

 志井さんとお茶してくるのは伝えていた南に、今から帰るとメッセを送信して、僕も暗くなった道を歩いて帰宅した。もう授の靴も奏の靴もあった。
「ただいま」とリビングを覗くと、授と奏はゲームで対戦をしていて、キッチンの南が「おかえり」と言ってくれる。司はまだみたいだ。
 僕は荷物を下ろして手を洗い、鏡の中の自分を見た。ちょっとぼんやりした表情をしている。好きな人がいるとか司と南にあっけらかんと言える授はすごいんだな、と思った。僕は今のところ、恥ずかしくて話せそうにない。
 司は遅くなるということで、授と奏と僕で先に夕食を取った。お風呂に入ったあとは、リビングのカウチで本を読んでいた。「今日は勉強しないの?」と訊いてきた奏に、「するけど……」と僕は変に口ごもってしまう。
 授と奏は顔を見合わせた。僕は本の活字に目を落とし、明日から咲坂さんの前で大丈夫かな、と心配になってきた。
 その日は集中力がなかなか定まらず、勉強もスムーズに嚥下できなくて、夜遅くまでかかってしまった。明かりをつけたままのせいか、奏も起きてふとんで漫画を読んでいる。時刻は一時が近くて、さすがに寝たほうがよさそうだ。
「ちょっと一階で、あったかいの飲んでくる」と僕が教科書を片づけて椅子を立つと、「まだ勉強する?」と奏が本から顔を上げて、あくびをこぼした。「寝るから、先に電気消してていいよ」と僕がドアまで行くと、「響くん」と奏は起き上がってこちらを見つめてくる。
「頑張っていいけど、無理はしないでね」
 僕は奏をきょとんと見たあと、「ありがとう」と微笑み、「おやすみ」と続けて部屋をあとにした。
 とっくに真っ暗かと思ったら、一階には明かりが残っていた。授は寝不足になってまでゲームはしない。南は作業中だろうし、司はそれにつきそっているはず──
 僕はゆっくり一階に降りて、すると、リビングから話し声が聞こえた。
「連絡は取れるの?」
「番号変わったって連絡は来てないな。でも、俺が電話してあいつ大丈夫かな」
「やっぱり、巴に頼んだほうが」
「そうだな……。はあ、俺たちはいつも巴に頼るな」
「申し訳ないとは僕も思うけど。冷静に話せる人があいだにいたほうがいいと思う」
 僕はリビングのドアまで歩み寄る。何の話だろう。何だか深刻そうな空気が伝わってくる。入りづらいな、と足元を逡巡させたものの、僕はそうっと閉まっているドアを開けてみた。
 カウチに並んで腰かけていた司と南が、はっとこちらを振り返った。僕はすくんで、「邪魔だったかな」と声を抑えてしまう。そんな僕にふたりは慌てて首を横に振り、「どうした?」と司が微笑んでくる。
「勉強してたのか?」
「うん。さっき終わったけど」
「こんな時間まで頑張ってたの? 睡眠も大事だよ」
「ごめん。今日、ちょっと調子悪くて、時間かかった」
「そういうときは、むしろすぱっと寝ろ」
「そうだよ。そのぶん、早起きしてみたりすればいいんだから」
「……明日もこんなだったらそうする。何か飲んでいい?」
「作ってあげるよ。何がいい?」
「じゃあ、ミルクティー」
「分かった。司、あとでまた話そう」
「おう」
 南はカウチを立ち上がって、キッチンの明かりをつけてミルクティーを用意しはじめる。
 僕はカウチに近づき、「話が少し聞こえたけど、どうかしたの?」と司に尋ねてみた。はぐらかされるかな、とさっきの雰囲気を思い返して危懼したものの、「ああ」と司は手の中のケータイを僕に見せた。
「さっき、築から電話があったんだ」
「にいさん? 何かあったの?」
「うーん、何かあったのかなあ」
「……何か言われたの?」
「母親に会いたいって」
「えっ」
「俺の元奥さんな。紫っていうんだけど──春休みにまたこっち来るから、そのときに会えるようにしてほしいって。そう言われた」
「え、と……な、何でだろう。おかあさんのことは、にいさんはもう気にしてないと思ってたけど」
「俺もそう思ってた。夏休みに、母親に会いたいなら会えるぞとは言ったけどな。それで悩ませたのかなあ」
 渋い表情する司に、僕も視線を落とした。
 にいさんが母親──紫さんにとても懐いていた話は聞いている。本当に紫さんが好きで、だから父親である司が同性の南を選んだことに、にいさんはずいぶん反発していた。この家庭を嫌っていたし、暗くなっても帰宅しない家出みたいなことをよくやっていた。
 中学生になって、司と南の今までを語られてその絆を知り、ようやく僕たちと向き合うようになった。紫さんのことは、言い方は悪いけれど、あきらめたのだろうと思っていた。それが──
「あいつも、だいぶ落ち着いたみたいだからなあ。まだ女の子ふらふらしてるなら、考えものだったけど」
「会って、どうするんだろう」
「どうしたいってわけではないと思う。あいつも大人になったところで、きちんと会って、けじめはつけたいのかもしれないな」
「けじめ」
「最後のとき、築はすごく泣いてたから。紫とのことをそのままにしておくのは、子供の頃の自分がつらいよな」
「じゃあ、紫さんににいさんに会ってもらうの?」
「できれば、そうさせてやりたい。あと、授も──あいつ、母親に会いたいと思うか?」
「紫さんのほうが、にいさんに会うなら授にも会いたいんじゃないかな」
「ああ、そうか。そうだよな。築が会うって言うなら、それに付き添う感じで授は分かってくれそうだな。授はいつも築のことを心配してたから」
「そうだね。いつも、にいさんのことを追いかけてた」
「………、築と授には会ってくれるだろうけど。紫は、俺と南の顔を見たくないと思うんだよな」
「それで、かあさん」とさっき漏れ聞こえてきた会話を思い出すと、「そう」と司はうなずく。
「巴は紫の親友だしな、つきあいも続いてるらしいし。巴に同席してもらうとかすれば、紫の負担もないかなと」
「かあさんなら、協力してくれるよ。僕もなるべく、誰もつらくないかたちで会ってほしいし」
「そうだな。明日、南に巴に連絡しておいてもらうか」
 司がそう言ったとき、南が僕のマグカップにミルクティーを作ってきてくれた。「ありがとう」と受け取って、そっと水面に口をつけるとほのかな甘さが熱と共に軆に溶けていく。
 司は南にかあさんへ連絡を頼み、南は首肯していた。「司は紫さんの近況とか知ってる?」と訊いた南に、「ぜんぜん知らない」と司は背凭れにもたれ、「言えた義理じゃないけど、幸せにしてくれてるといいよな」とつぶやいた。
 ミルクティーを飲んで、軽く口をゆすいで二階に戻ると、奏は明かりをつけたまま眠ってしまっていた。手元に本があるから、読みながら寝てしまったようだ。僕は電気を消すとベッドにもぐりこんで、眼鏡をベッドスタンドに置き、ミルクティーで温まった軆の熱をふとんの中に巡らせる。
 母親に会いたい。築にいさんの性格なら、やはり、よほどのことがないと言わない気がする。何かあったのかなと心配になって、まくらもとのケータイを手に取ってしまったけど、画面を起こす前に元に戻す。
 たとえば、よほどのことって何だろう。伝えたいことがあるとか? 司と南でなく、母親に伝えたいこと。ぐるぐる考えてみたけど、結局何も思いつかず、意識もうとうとと薄れてきた。
 何にしても、春休みに帰ってきたにいさん自身が想いは語ってくれるはずだ。今は寝よう、とふとんをかぶりなおすと、やがて僕は眠りの波に飲まれていった。
 翌日、ひと晩眠ったことでだいぶ気持ちがすっきりして、学校で咲坂さんに会っても挙動不審になったりはしなかった。ただ、僕が好きになったのはこの子だったのか、と不思議な気持ちで見つめてしまって、「な、何ですか?」と咲坂さんはとまどって首をかたむける。
 僕はかぶりを振って、「咲坂さんの好きな人の話が聞きたい」と言った。すると、「もうすぐクリスマスなので、デスクトップにリュクを呼んでケーキ食べますねー」と咲坂さんは語り、僕は微笑んでそれを聞く。
 告白するとか、つきあうとか、そんなのは僕には早い。こうして隣で、彼女の心に宿る彼の話を聞く。まだそれでいい。
「美由くんはクリスマスはどうするんですか?」
「普通に家で、南が用意したケーキとチキンかな」
「それ、周りにも正直に言ったら、終業式に告白されまくりますよ」
「はは。大丈夫、告白されても断るよ」
「ほんとですか?」
「心配?」
「えっ、いや──その、美由くんに彼女ができたら、こうして話せなくなるのかなと」
 昼休み、四階から屋上への階段の途中で並んでお弁当を食べている。僕はくすりとして、「僕の好きな人には、好きな人がいるから」と言ってみた。
 咲坂さんはぎょっと僕を見て、「何ですか、美由くんって、そんなつらい恋してるんですかっ」なんて慌てはじめる。僕は咲いながら、そんなにつらい恋じゃないよ、と心の中で言った。彼を想ってきらきらする君の横顔が好きで、僕はそれを、こうして一番近くで眺められるんだから。
 そう、僕はこの距離で幸せだ。そうではいられなくなるときが来るのかもしれない。もっと近づきたくなるのかもしれない。でも、それはそのときで。
 今のところ、この女の子の「現実」の隣にいるのは僕だということで、じゅうぶん僕の心は満たされてしまうのだ。

 FIN

error: