心に宿る彼-2

気にかかる彼女

 少し湿った雨の匂いがして、折りたたみ傘は持ってきたかどうか、荷物の中身を思い返す。空一面に灰色がかった雲がかかり、まばゆい朝陽はさえぎられている。通りには歩いている人もまだ少なく、静かで靴音が響いていく。
 駅に近づくほどざわめきが生まれて、自転車に追い抜かれたり、面した車道を車が抜けていったりする。改札を抜けると、ホームにはけっこう人が集まっていて、電車を待っている。
 毎朝、僕はこの人たちとぎゅうぎゅうに詰めこまれた満員電車で通学している。大変だけど、どうしても進みたかった進学校だ。その後、大学で法律を学ぶには大きな布石になってくれる。
 その日もやってきた電車に何とか乗りこむと、密集した人の体温でちょっと暑いくらいの中、高校の最寄りまで運ばれた。
 改札を定期ICで抜けて駅を出ると、通いはじめて一年半が経つ街並みがある。いくつか近隣にほかの高校もあるので、周りには制服すがたの同世代が多い。
 雨が降り出していないのを確認して、僕は足を踏み出すと、高校への道のりを歩いていく。桜の樹からはらはらと枯葉がひるがえってきて、歩道を踏みしめるとさくっと音が残る。
 挨拶や笑い声が飛び交う中、十分くらい歩いて、校門を抜けると上履きに履き替えて教室に向かう。ドアを開けると、「おはよー」と普通に声をかけられるのが、何だかいまだに慣れない。
「おはよう」
 動揺を隠してそう答えると、席に向かう。
 高校生になって、僕はやっとイジメみたいなことをされなくなった。親のことを理由にイジメるなんてバカバカしくなるのか、あるいは僕が首席で入学した成績優秀な生徒だからなのか、それはよく分からないけど、みんな僕に普通に接してくれる。
 進学校でイジメなんかに構っているヒマはなくなった、というのではなさそうだ。このクラスでは、いつも本を読んでいるヲタクっぽい女子が、昔の僕のように嫌がらせを受けている。
咲坂さきさかー。あんた、やっぱり高校生にもなってアニメとか観ちゃったりしてんのー?」
「あははっ、リアルでツインテやっちゃうとか痛いわ、マジで。似合ってねえし」
 そんなことを言われながら、咲坂さんという女子がこのクラスでは「はけ口」になっている。長い髪をツインテールにして、眼鏡の奥でいつもぶっきらぼうな表情をしている。
 何を言われても、どうされても、その表情を崩さず、イジメられていることを無視しているから、余計に嫌がらせをする側はいらつくみたいだ。「聞こえてるー?」とか髪を引っ張られたりすると、さすがにその手をうざったそうにはらうけど、「何だよ、痛いんだけど」とか難癖をつけられはじめると本に集中している。
 中学時代までの僕はあんなふうに毅然としていただろうか、なんて思ったりする。
 昔、自分が助けてもらえなかったから知らない、なんて思っていない。僕にできることがあるなら、イジメなんて見ているだけで過去を思い出すし、やめてほしい。
 けれど、どうしたらいいのか分からない。イジメで先生が役に立たないのは、自分の経験で知っている。僕がそこに歩み寄って、「やめなよ」と言えばいいのだろうか。それで自分に矛先が伝染することは、あまり怖くはないものの、僕が代わりに背負うのが果たして解決なのかが分からない。
 その日も咲坂さんに何もできず、六時間目まで勉強が終わった。咲坂さんは人に捕まる前にさっさと教室を出ていってしまう。ツインテールとスカートをひるがえし、淡々とした表情で廊下の混雑に紛れていく。
 そんな咲坂さんに、あの子は強いなあ、と以前の自分は暗い表情でうつむいてばかりいたのが恥ずかしくなる。
 僕もクラスに行動を共にするほど親しい人はいないので、適当に挨拶はしても、ひとりで教室を出ていく。
 にぎやかな廊下の人波を縫い、三階から一階に降りる。白い電燈が映りこむ窓を雨粒が濡らしている。少し前まで雨が降ると蒸していたけど、すっかり冷えこむようになった。
 靴箱で靴を履き替えて、みんなが傘をさしていく中、僕も折りたたみ傘を取り出して空の下に出た。空気がひやりとして身をすくめつつ、傘を広げてぽつぽつと雨音が跳ね返る音の中で駅まで歩いていく。
 今日は塾はない日だけど、もうじき中間考査だから、家に帰ったら勉強しないと。そんな予定を立てながら、たどりついた駅で傘をおろしていたときだ。
「美由くん」と名前を呼ばれた気がして、僕は顔を上げてあたりを見まわした。すると、レッドブルーのチェックの傘をさした人がこちらに駆け寄ってきて、隣で傘を下げた。
 そこに現れた女の子に、僕は笑みを浮かべる。
「志井さん。今、帰り?」
「うん。美由くんも? 塾、あるのかな」
「今日はないから、このまままっすぐ」
「そっか。はあ、今日の雨寒いね」
 志井さんの傘は長傘で、閉じると留めるだけだ。僕は骨を折って傘を小さくたたみ、ふくろに収める。
 志井心さん、という彼女は、僕の中学時代の同級生だ。最初は気に留めていないクラスメイトだったけど、ある日、彼女はイジメられる僕に果敢にも話しかけてくれた。
 それには、彼女なりの悩みを僕には打ち明けられそうだという目論見があったのだけど、それでもあの頃、僕と教室できちんと話してくれたのは志井さんひとりだった。
 高校は別になったけれど、志井さんの通う高校の最寄り駅もここなので、たまにこうして遭遇するときがある。
「友達は一緒じゃなかったの?」
「美由くん見つけて、別れてきちゃった。また明日、学校で会えるしね」
「そっか。少し、お茶でもしていく?」
「美由くんがよければ」
「僕は構わないよ。地元戻ってからだと、中学の同級生がいるかな。こっちの店でいい?」
「うん。あったかいココアとか飲みたい」
「駅の地下のカフェ行こうか。雨で混んでるかな」
「あたしは待っても平気」
「じゃあ、とりあえず行ってみよう」
 僕と志井さんは、並んで駅の構内へと歩き出す。
 志井さんは中学時代より髪を伸ばし、肩くらいで切り揃えている。歩くとその髪がさらさら揺れる。
 エスカレーターで地下一階に降りて、地面がところどころ濡れた飲食街を歩いていく。
「志井さん」
「うん?」
「何か、唐突かもしれないけど」
「うん」
「好きな人とか、できた?」
「えっ」と志井さんは丸くした瞳でまばたいてから、「何で」と含み咲う。
「いや、中学卒業してもう一年半だし」
「何だ。そんなふうに見えたかと思った」
「何となくだよ。あの頃好きだった人とかも、どうなのかなって」
「あの子は、もう平気。今頃、彼氏さんと仲良くやってるならそれでいいかな」
「そう。今、学校とかには」
「今は、……うーん、いないかなあ。今度は、好きになってもいい人を好きになりたいし」
 志井さんは、男でなく女の子を好きになるレズビアンだ。中学時代、片想いしていた相手も女の子だった。
 その子への叶わない想いが苦しくて、でも相談できる友達もいなくて。嗤われるのも、軽蔑されるのも怖かった。そこで、男同士の親に育てられた僕なら、自分を分かってくれるかもしれないと思って、話しかけてくれたのだ。
 志井さんに話しかけられて僕はびっくりしたものの、その話を聞いて彼女の味方になりたいと思った。それから、志井さんは僕にはいろいろと悩みを打ち明けて、僕はそれを聞く役になった。
 カフェはやはり雨の足止めで混んでいたけれど、ふたり掛けの席なら、さいわい空いていた。僕たちはやや狭いその席を傘を置いて確保し、ドリンクと軽いスイーツをテイクアウトすると、椅子に腰かける。
 志井さんはホットココアとシュークリーム、僕はホットカフェラテとチョコクロワッサンにした。「そういえば」とココアに息を吹きかけながら、志井さんは僕を見る。
「美由くんが気にしてた子は、どう?」
「えっ。あ、咲坂さん?」
「そう。クラスでは、相変わらず?」
「今日も髪引っ張られたりしてた」
 咲坂さんへのイジメが気になっていることは、志井さんには相談している。今の僕は勉強が一番で、咲坂さんが気になっても恋というわけではないのは、志井さんは分かってくれるので話しやすい。
「あのときの志井さんはすごかったんだなあって思う」
「あのときのあたし」
「僕に教室で話しかけてくれて」
「いやー……あたしは、美由くんと話したいって、必死なとこがあったから」
「それでも、僕は救われたから。僕も咲坂さんに話しかけたらいいのかな」
「男の子が女子に話しかけるって、勘違いもされそうだよねえ」
「うん……。志井さんは、僕と話すようになっても自分に矛先は来なかったって言ってたよね」
「美由くんがかばってくれたから」
「かばえてたかな」
「うん」と志井さんはうなずいて微笑む。
「あたしには何もなかったよ」
「そっか。咲坂さんに同じことして、迷惑じゃないかどうかがよく分からなくて」
「うーん。美由くんはその子が好きだって、そんなうわさくらいは立つかもね」
「それは……何か、咲坂さんが嫌かなって」
「美由くんはいいの?」
「どうだろう。周りが騒がしくなるのはちょっと、とは思うかもしれない」
 僕は香ばしいカフェラテをすすって、ミルクがやわらげた苦みを飲みこむ。
「どう話しかけたらいいのかも分からない」
「それは、天気の話とかでもよかったりすると思うよ」
「天気」
「『今日、雨だねー』って」
「そ、そうなのかな。咲坂さん、いつも本読んでるから、その本が分かればなあ。ブックカバーで分からなくて」
「漫画?」
「文庫だから、小説かなって思ってる」
「そっかあ。じゃあ、素直に『何読んでるの?』って訊くのもありだよね」
「揶揄ってると思われないかな」
「何度か話しかけたら、そうじゃないのは伝わると思う」
「そっか。そうだね、周りにイジメてる人がいないとき、気にしてみるよ」
「美由くんなら、味方になれるよ。あたしのことも、分かってくれてるもん」
 志井さんはにっこりしてココアに口をつけ、僕はチョコクロワッサンをひと口かじる。焼きたての熱の名残があっておいしい。
 囲まれて嫌味を言われたり、つくえを蹴られたりしている咲坂さんを思い出す。僕は味方をしていいだろうか、ということだけでも確かめたい。咲坂さんはいつも憮然としているから、もとより味方なんていらないと言うかもしれない。
 そう言われたら、さすがに僕も首を突っこまないけれど。もし彼女が無理をしているなら、心の中では傷ついているなら、僕は昔の自分のようなあつかいを受ける咲坂さんを助けたい。

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