ひとりじゃない
地元の最寄り駅に着くと、僕は図書館に少し寄りたいので、志井さんとは改札で別れた。
こちらでも雨が降っていた。志井さんの傘がいろんな傘に紛れていくのを見送り、僕は軒先でケータイを取り出して、南のトークルームを呼び出す。湿った匂いの空中を仰いで考えたあと、文章を打ちこむ。
『今、駅に着きました。
図書館に寄るので、三十分くらいで帰ります。』
そして、行くのは図書館なのでサイレントモードにして、ケータイはポケットにしまう。
駅から歩いて五分くらいの大きな図書館に向かい、到着するとまずは借りていた本を返却する。それから、勉強の息抜きや休み時間の相手になりそうな小説を選んで、二冊に絞ると貸し出し手続きをして、濡れないようにかばんにしまう。
図書館の玄関でケータイを取り出し、南から返信がついているのを確認した。
『了解。今夜は秋鮭のからあげだよ。
雨で部活がなかった授が帰ってきてるから、つまみ食いでなくなる前に帰っておいで。』
僕はつい笑ってしまって、授ならほんとに食卓に上がる前に食べちゃいそうだな、と思った。急ごう、と折りたたみ傘を取り出して、強くなってきた雨脚の中を歩き出す。
視界を銀色で煙らせる秋雨は冷ややかで、濡れたら風邪をひいてしまいそうだ。ざーっと鼓膜を洗われて、周りの物音が少し遠い。
スラックスの裾が濡れないように、水たまりは避けて帰り道をたどり、まもなく自宅に到着した。
「ただいま」
濡れた折りたたみ傘を軒先に吊るして、玄関を開けてそう声をかけると、「おかえりーっ」というふたつの声がリビングのほうから聞こえた。授と奏だ。
足音が近づいて、「おかえり」と南も顔を出して微笑んでくれる。夕食のいい匂いがここにも届いている。
「少し遅かったね。塾、ではないね。今日は」
「志井さんに会ったから、軽くお茶してた」
「そうなんだ。元気そうだった?」
「うん。志井さんとはつい話しこんじゃうな」
「また、ここにも呼びなよ。そしたら、ゆっくり話せるでしょ」
「そうだね。この家に来たら、志井さんは南と司と話したいと思うけど」
「それで心ちゃんがゆっくりできるなら、いくらでも相手するよ。伝えておいて」
僕はこくんとして、家に上がると少し雨粒が残る肩をはらった。「風邪ひく前に着替えておいで」と南に言われて、素直にそうすることにする。
二階の部屋に行って、荷物をつくえにおろすと、ジャケットを脱いでネクタイを緩めた。窓辺のハンガーに脱いだ制服をかけると、長袖のシャツとジーンズになる。ケータイは充電につないで、勉強したい教科の教科書とノートをつくえに出しておく。
高校に無事受かったことが分かった、中学卒業後の四月の始め頃、志井さんはこの家に遊びにきたことがある。
そのときの志井さんは、片想いしていた女の子が引っ越していったのを見送り、少し傷ついていた。僕はうまい気晴らしを思いつけなくて、「司と南に会ってみる?」と前からふたりに憧れると話していた志井さんに訊いてみた。「いいの?」と言われて、もちろんうなずくと、「じゃあ、お邪魔したいかな」と志井さんはひかえめに咲った。
「あ、響に告る気満々の君」
僕が志井さんを家に連れていくと、玄関を通りかかった授がまずそう言った。隣には授の彼女である時野さんもいて、「つきあいはじめたの?」なんて言ってくる。
「え……と、志井さんは友達だから、そういう関係にはならないよ」
「お前っ、そんながっつり振ったのかっ」
「友達だからはきついよねー」
「………、志井さん、このふたりはあんまり気にしないで」
「えー、何何何。だって君、響に告ったんだよな?」
「……美由くんは友達ですね」
「えっ。でもあのとき、必死で美由くん探してたのに」
「あれは──急ぐ話があったので」
「急ぐ話とは」
「お似合いでいいと思うけどなあ」
授と時野さんに気圧されて何とも言えなくなっていると、「いらっしゃい」と司が顔を出した。こちらを見た志井さんに僕はうなずき、「僕の父の恋人で、司だよ」と紹介した。
志井さんはまばたきをして、それからぱっと頭を下げ、「志井心です。今日はお邪魔します」とやや緊張した声で挨拶した。
「響に軽く話聞いてる。どうぞ、上がって」
司にそう招かれて、志井さんは靴を脱いで家に上がった。僕もそれに続き、リビングに踏みこむと、南はダイニングのテーブルで紅茶を作っていた。
ちなみに、当時まだ一緒に住んでいた築にいさんは出かけていて、奏はその日はかあさんとの家にいた。授と時野さんはリビングのカウチに並んで座り、テレビで何か観はじめる。特に聞き耳を立てるつもりはないようだ。
僕と志井さんは、司と南とダイニングのテーブルで向かい合った。
「響が女の子連れてきたのは、驚きだな」
司がそう言って笑い、紅茶に砂糖を入れてティースプーンで混ぜる。「志井さんは友達だよ」と、僕がどうしてもそう揶揄われるのかなあと思いつつ言うと、「分かってる」と司は笑いを噛む。
「心ちゃんでいい?」
「あ、はい」
「好きな子、いるんだっけ」
「はい。もう会えないですけど」
「高校が別になったとか?」
南が首をかしげると、「いえ」と志井さんは考えながら言葉を紡ぐ。
「高校は確かに違うんですけど、彼女がもともと住んでた街に引っ越していったんです。たぶん親御さんの都合で、何年かこっちにいただけの子で」
「そうなんだ。連絡先とかは?」
「話すこともなかったから、知らないままです。完全に見てただけで──あの子には、その元いた街に、彼氏も友達もいるとはうわさで聞きました。ここをすぐ離れるのも分かってたみたいで、誰とも仲良くしてませんでした」
「そっか。せめて、仲良くできてたらよかったね。……いや、それは逆につらかったかな」
「分かんない、です。話せたら嬉しかったと思うけど、ただ、すがたを見てるだけでもよかったです。仲良くできてて、連絡取れるなら、気持ちもあきらめられなかったかも」
「それは、気持ちをあきらめるってこと?」
志井さんは、そう問うた司を向き、はっきりうなずく。
「彼女は、彼氏と幸せになってくれたらそれでいいです。あたしは、今度は気持ちに応えてくれるのが無理じゃない人を好きになりたいです。どうやって見つけるのかとかは、ぜんぜん、分からないんですけど」
「どうやったら出逢えるんだろ」と司は南と顔を合わせ、「僕たち、わりとそのへん分かってないからなあ」と南は首をかしげる。
「おふたりは、どうやって知り合ったんですか?」
紅茶をひと口飲んでから志井さんに尋ねられると、「元は親友同士だったんだよね」と南が言った。
「えっ。親友で、どっちも同性を好きになるタイプだったんですか」
「というより、俺は南以外は同性も異性も無理って感じだった」
「僕もそうかな。だから、ゲイなのかって言われたら、ちょっと分からないんだよね」
「そうなんですか。……親友」
「でも、司と南も簡単につきあえたわけじゃないんだよね」
僕がそう言うと、ふたりはうなずいて「だから僕も司も、一度は結婚して子供がいるわけだし」と南が言う。
「あ、どうして美由くんとか水瀬くんがいるんだろうっていうのは、考えました。養子とかではないんですね」
「俺にふたり、南にもふたり、元奥さんとの子供がいるよ」
「彼氏と幸せになってくれたら、と思える心ちゃんは、強いよね。僕たちは結局、相手は奥さんと幸せなんだろうって身を引くことができなかった」
「実際、奥さんといてぜんぜん幸せではなかったけどな」
「奥さんにはひどいことしたね」
「ほんと。正直に南を離さなきゃよかったけど──そうしてたら、響たちがみんないなかったってのも複雑だな」
「奥さんたちは、子供たちを生んでくれたこととか、感謝してもしきれない存在でもあるんだよね」
志井さんはうなずいて、「あたしも新しく好きな人ができて、その人と子供どうしようかってことまで考えられたら、幸せだと思います」と言った。
それからテーブルにカップを置くと、「もしよかったら、おふたりの馴れ初めとかちゃんと聞きたいです」と志井さんはふたりを見つめた。「えー」と司と南は恥ずかしそうに声を合わせて咲ったけれど、志井さんが聞きたいならと、僕はすでに知っているふたりが同じ屋根の下に結ばれるまでの話をした。
幼い頃の出逢い。友情から変化していく愛情。それを受け入れられずに離れたり、通じあってつきあったり、周囲に流されてまた離れたり──「僕たちは」と南はやや陰った声で言った。
「きっと、憧れてもらえるほど綺麗に恋愛してきたわけじゃない。たくさんの人を傷つけて振りまわしたと思う」
「そう。だから──ってわけじゃないけど、心ちゃんも好きになった子を好きでいていいんだよ。応えてくれる相手に越したことはないけど、もしまた結ばれない人を好きになっても、無理に気持ちを殺すことはないんだ」
志井さんはそう言った司の優しいまなざしを見つめ、ふとうつむくと「でも」と涙に震えた声で言う。
「……あたしの気持ちが、迷惑だったらって。気持ち悪かったらって考えるんです。つきあいたいとかその前に、そんなふうには思わない人がいいんです」
「そんなこと思わない人に、いつか出逢えるよ。ただ、出逢うまでのあいだに、つらい恋もあるかもしれないってこと。でも、つらい恋をしてもそれは無駄じゃないから」
「女の子を好きになってくれる女の子は、心ちゃんの人生でこれからたくさん見つかっていくよ。何というか──絶対、ひとりぼっちじゃないんだからね」
志井さんは涙を浮かべて司と南を見つめ、ふたりに微笑まれると、顔を伏せてぽろぽろと泣いた。
ひとりじゃない。それは、とても心強い言葉だったと思う。同性を愛するのは、この世でたったひとりじゃない。司と南もそうだし、レズビアンの女の子も必ずいる。そういう女の子と志井さんが幸せになったらいいな、と僕も思った。
帰るときに、「すごく救われました」と志井さんは何度も司と南に頭を下げていて、「いつか彼女ができたら、美由くんだけじゃなくておふたりにも紹介しますね」と笑顔で帰っていった。
そんなことを思い出しつつ、秋鮭のからあげやブロッコリーときのこのバター醤油といった、秋の献立の夕食を授と奏と共に取った。南はいつも通り、司が帰宅するまで自分も食べるのは待つ。僕はお風呂にも入ると、部屋に戻って勉強を始めた。
僕は将来、弁護士になりたいと思っている。いつも司と南のことでイジメられるのに、何も言い返せない。そんな自分が嫌だから、正確な知識を身につけ、ふたりのようなパートナーの権利を守る仕事をしたいと思うようになった。それが僕にできる、司と南への育ててくれた恩返しだ。
立派な仕事に就き、僕をバカにした人たちのことも見返してやりたい。ホモに育てられたから、ろくなものになれないとまで言われた。そう言った人たちを行動で否定して、僕は絶対、しっかり自立した大人になってみせる。
その誓いを成し遂げるまで、勉強以外は後まわしだ。その夜も零時頃まで復習と予習をして、納得いくまで問題を咀嚼した。
そして、一階でゲームをしていた奏が「もう寝るー」と現れてふとんを敷きはじめたのと一緒に、僕もベッドにもぐって眠りについた。
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