心に宿る彼-5

憧れるのは

『デッドエア』は普通の男子高校生が、穏やかな日々から一転、突然エイリアンのような生き物に襲われるところから始まった。
 彼がわけも分からずにいると、突然レーザーのような光を発する銃でエイリアンを倒す女の子が現れる。茫然としている主人公を見て、彼女も驚いた顔を見せる。
 ──どうして、人間がいるの?
 戦争や被虐を繰り返す悪しき“人間”は、とうに滅んだと思われている。彼女はそんな文明の遠い惑星から来た、宇宙人だった──というのが、冒頭の感じだった。
 けっこうおもしろい、と思いながらも、時刻が一時近くなってきたので、ひとまずしおりをはさんだ。奏が寝ているので、部屋の明かりはもう消して、ベッドスタンドのライトで読んでいた。目がまた悪くなる、と本を置いた僕は、眼鏡も外してベッドにもぐりこんだ。
 明日、咲坂さんに話しかけてみようかな、と考える。
 今日の本屋での様子だと、何というか、普通の女の子に見えた。イジメられても憮然としたまま動じない、気強い子だと思っていた。でも、あんなふうにちょっと高い買い物に迷って、でも買ってしまい、嬉しそうに店をあとにしたりするのだ。
 本当は、イジメにも心を傷つけて、誰も見ていないところで落ちこんだりしているのかもしれない。以前の僕がそうだったように。
 よし、と思って眠りについた翌朝、相変わらずの家族の中で朝の支度を終えて、「いってきます」と僕は今日も一番に家を出た。
 朝の凛とした空気は冷たい。今日は白雲がたなびいて晴れていたものの、吹きつけてくる風は強く、そろそろマフラーも巻いていいかも、と思った。
 満員電車でつぶされそうになりながら、高校最寄りまでたどりついて、制服の波の中を歩いていく。「おはよー」と挨拶が飛び交う中、笑いさざめく生徒から、かったるそうな生徒まで、さまざまだ。落ち葉もほとんど地面から掃かれてしまって、靴音は硬い。
 高校に到着すると上履きに履き替え、三階の教室に向かった。ドアを開けると、やっぱり「はよー」と言ってくれるクラスメイトがいて、「おはよう」と僕は応える。
 咲坂さんは、ひとり窓際の席でぽつんと本を読んでいた。画集ではなく、文庫本だ。まあ、あんなに思い切って買った画集を持ってきて、破られたりしたらたまらないだろう。
 僕は自分の席に荷物を下ろしたあと、やや躊躇ったのち、咲坂さんの周りに邪魔な人がいないのを確認した。ふうっと息をつくと、心を決めて咲坂さんの席にまっすぐ歩み寄っていく。
「おはよう、咲坂さん」
 咲坂さんは文字をたどっていた目を止めて、正面に来た僕に顔を上げた。
 一瞬、驚いた色が走る。
「あ……お、おはよう、……ございます」
 ございます、に少しくすりとしてしまう。周りからいくつか視線が来ても、話しかけたらもう引っこむ気持ちは出なかった。
「その小説、好きなの?」
「え、あ……」
「『デッドエア』かなって思ったんだけど」
「えっ、……えと、はい」
「違ったかな」
「い、いえ。『デッドエア』シリーズの新刊です」
 何だか、だいぶ狼狽えている。イジメられているときは、けっこう毅然としているのに。
 僕は咲坂さんのつくえの脇にかかっているかばんを見た。相変わらず、缶バッジやらストラップやらがにぎやかだ。そして、やはり同じキャラに見える。その僕の視線に気づいた咲坂さんは、「リュクです」と言った。
「えっ」
「この男の子。『デッドエア』の」
「あっ、そうなんだ。ごめん、まだそのキャラのところまで読んでなくて」
「君も『デッドエア』を読むんですか」
「まだすごく最初のほうだけど」
「おもしろいですよ」
「うん、序盤でもそう感じた。何巻まで続くんだろう」
「本編は一冊で終わりますよ。そのあと、番外編とか外伝とかいっぱい続いてますけど」
「そっか。本編は読んでみるつもり」
「お勧めです」
 少しずつ咲坂さんの狼狽は落ち着いたものの、表情には緊張が残っている。「そのキャラが好きなんだね」ともう一度かばんの様子に目をやると、「イラストもすごくいいんです」と咲坂さんはいったん本を閉じた。
 イラスト。「美由南だよね」とつぶやくと、咲坂さんはまばたきをする。
「南さんの名前、知ってるんですか」
「……え、と。まあ」
 僕と南の名字が同じことには、気づいていないみたいだ。
「私、南さんのイラストがすごく好きなんです。『デッドエア』を読んだ切っかけもそれですし。ほかの作品の、表紙だけの担当でも本とか買っちゃって。毎年カレンダーも買ってるし、ほんとに──」
 僕がついきょとんとしてしまうと、「あ、」と咲坂さんは言葉を止めてうつむいた。
「すみません。私は、君と違ってヲタなので。分からないですよね」
「いや、そんなことないよ。じゃあ──ええと、伝えておくね」
「えっ?」
 咲坂さんが再び僕に顔を上げたとき、予鈴が鳴った。僕は時計を振り返り、「じゃあ」と咲坂さんのつくえを離れる。
「美由、あんな奴ほっとけよー」と言った男子がいて、「みよし……」と咲坂さんがつぶやいたのが聞こえた。ついで、「あれっ」とどうやらそこに気づいて声を上げて、僕は少し振り返ると、咲坂さんに微笑んだ。
 咲坂さんは茫然と僕を見つめてきて、また混乱してきたようだったけど、僕は自分の席に着いてつくえに置いていた荷物を脇のフックにかけた。
 意外とちゃんと話せたから、ほっとしていた。横から人に割りこまれることもなかったし。南のファンだということも分かった。
 帰ったら、南に、わがままかもしれないけど、頼んでみよう。リュクだったな、と咲坂さんが好きだというキャラの名前も反芻して憶えていると、「席着けー」と担任の先生が教室に入ってきた。
 一日、咲坂さんは僕が気になる様子だったけど、話しかけてはこなかった。僕から話しかけてもよかったものの、体育とか移動教室で落ち着かなかったので、話しかけられなかった。
 放課後は、咲坂さんのほうが、さすがに嫌がらせにつかまる前に帰ってしまった。放課後なら話せるかなと思っていたのだけど。まあ仕方ないか、と僕も帰路についた。
 今日は塾もないからまっすぐ地元に到着して、時刻も十八時前だった。『駅に着いたので、今から帰ります。』と南にメッセを送っておく。月光以外は暗い道を歩いていると、コートのポケットでケータイが鳴り、確認すると『了解です。』という短いメッセが来ていた。
 これなら既読つけただけでいいか、とケータイをポケットに戻し、冷えこんだ空気に体温を奪われながら帰宅を急ぐ。どこかの家のテレビの音とか夕食の匂いとか感じながら、僕は家に到着した。
「ただいま」
 そう言いながら足元を見ると、まだかなり靴が少ない。今日は晴れていたから授は部活だろうし、奏もここに来ない日がある。司も仕事がこんなに早く終わることは少ないし──
 ちょうど、南しかいないのかも。そう思うと、誰かに聞かれる前に、咲坂さんのことを話してみようと急いで靴を脱いだ。

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