君が喜ぶこと
「響。おかえり」
リビングを覗くと、案の定、南以外は誰もいなかった。キッチンにいる南は、エプロンをつけて夕食の支度をしている。僕は荷物をカウチにおろして、「まだ誰も帰ってきてないんだね」と確認する。
「うん。授は部活かな、また連絡来てないけど。奏は今日は、巴のところみたい」
「そっか。司もまだ?」
「今、お客さんと現地まで行くのが多いみたいだから」
司は仕事は、建築士だ。僕はその仕事を詳しく知らなくても、つくえに向かって設計するばかりでなく、意外と外まわりも多いらしい。
僕は手を洗ってきてから、キッチンで温かいカフェオレを作った。南は挽き肉をこねていて、訊いてみると今夜はロールキャベツなのだそうだ。「何か手伝う?」と訊くと、「先に制服、着替えておいで」とくすっとされた。僕はあやふやにうなずいて、マグカップに口をつけ、まろやかな味を飲みこんだあと、「南」と早めに訊いてしまうことにした。
「うん?」
「もし、なんだけど」
「はい」
「その、南に簡単な絵を描いてもらって、それにサインとかつけてもらえるならって言ったら、もらえるのかな」
「え」
「あと、それを人に渡したりしていい、かな」
南は僕を見て、「誰かに頼まれたの?」と首をかしげる。
「ううん。僕が、あげられたらいいなって人がいて」
「友達?」
「……かは分からなくても、南のファンみたいで。表紙担当してる本とか、カレンダーも買ってるって言ってた」
「そうなんだ。うん、僕は別に構わないよ」
「ほんと?」
「響がそれを切っかけに誰かと関わりたいと思うなら、いいことだと思うし」
ずうずうしいことを承知していた僕は、ほっとしてため息をついてから、「ありがとう」と南を見る。
「その人が喜んでくれるなら、僕も嬉しいから」
南はしばたいたあと、「それって女の子?」と尋ねてきた。僕はうなずいたあと、はっとして「別に、」と継ぎ足す。
「恋愛とか、そういうのではない……と思う」
「そうなの?」
「ただ、その……その子、クラスでイジメられてて」
「イジメ」
「わりと、平気そうな顔はしてるけど。やっぱりつらいと思うから。励ませるならって思ったんだ」
南は僕を見つめて、それからまた挽き肉をこねる手を再開する。
「響は、結局ひとりで耐えちゃったもんね」
「えっ」
「何も言わないから、僕と司は、響に何もしてあげられなかったけど」
どきんとして、南を見つめ直す。僕は、イジメられていたことは南にも司にも話していない。理由が理由だったから。でも、同級生の授は知っていたし、奏には話していたし──「聞いてたんだ」とつぶやくと、「高校では大丈夫?」と南はこねた挽き肉を置いて、油分のついた手を洗う。
「うん。高校では、何か、わりとみんな挨拶とかしてくれる」
「そっか。ごめんね、僕と司が──」
「南たちは悪くないよ。前は、周りが頭悪かったんだ。僕は、南と司が親ですごく自慢だよ」
南は僕を見て、泣きそうだけど微笑んで、「ありがとう」と言った。
「僕が、響にそう言ってほしかったのかも。ずっと気になってたから」
「……ごめん、言えなくて」
「いいんだよ。今はないんだね?」
「うん。だから──ってわけではなくても、僕のクラスではその子がイジメられてる」
「そう。うん、それならなおさら、ラフとサインくらい描くよ」
「ごめん、南はプロなのに。良くないのは分かってるけど」
「いいよ。僕の絵がその子の励ましになったら嬉しいしね」
「ありがとう。喜んでくれると思う」
「その子の好きな絵とか分かる? 僕が作画してるキャラとかでもいいけど」
「あ、『デッドエア』のリュクっていうキャラクターが好きだって言ってた」
「ああ、あの子か。あれ、じゃあ昨日響が『デッドエア』買ってたのって」
「うん、その子と共通の話題になったらと思って」
「ほんとに、その子が好きとかじゃないの?」
「違うよっ。たぶん……心配なだけだよ」
南はくすくすと咲ったものの、それ以上揶揄わず、「夜に描いておくから、明日の朝に渡すね」と約束してくれた。「仕事の邪魔にならない?」と気にすると、「ラフとサイン一枚ぐらいなら気分転換になるよ」と言った。
僕が安堵していると、ふと南のケータイが鳴った。ちょうど手を洗ったところだった南は、タオルで水分を拭って確認する。
「授だ。桃ちゃんの家に寄ってくるみたい」
「じゃあ、まだ遅くなるのかな」
「そうだね。ゆっくり支度してて大丈夫かも。響は制服を着替えてきなさい」
「分かった」
僕はカフェオレを飲み干すと、マグカップをシンクに置き、リビングの荷物を取り上げて二階に行った。部屋で制服を私服に着替えて、今日も夜に勉強する教科をつくえに出しておく。
ゆっくり支度しても大丈夫と南は言っていたし、僕が夕食の用意で手伝うことはないかもしれない。だから、続きも気になっていたし、『デッドエア』と共に一階に戻った。
そして、南が料理をする物音と匂いが届く中で、僕はリビングのカウチで本を読んでいた。
恵音という平凡な主人公と、彼が想いを寄せる幼なじみの操乃、そしてエメルという宇宙調査官を名乗る子のやりとりで、『デッドエア』の物語は進んでいく。エメルは人間を完全に軽蔑していて、恵音に対してもバカにしたような態度を取る。恵音はそれにいらつきながらも、エメルが語る「人間」を否定することができない。やがて、ついにエメルの仲間まで地球に到着して──
そこまで読んだ頃、「ただいまーっ」という威勢のいい声が玄関から聞こえてきた。
「いやー、今年も秋の気配がなかったな。一瞬で冬ですな」
そう言いながら顔を出したのは授で、僕も南も「おかえり」と言う。「んー」と答えた授は、「あ、南の絵だ」と僕の手元を覗きこんでまばたく。
「あ、これ、おもしろいよ」
「英語?」
「南が挿絵描いてるんだから。日本語だよ」
「そっか。漫画?」
「……漫画に挿絵はないよ」
「小説か。無理!」
「漫画版もあるようなことを奏が言ってた」
「マジで。何て奴?」
「『デッドエア』」
「あ、それならアニメ観てたわ。俺、イルクちゃん好き」
「……ごめん、僕がそこまで読んでない」
「ふわっとしてるのが桃っぽいんだよなー。まあ桃は戦闘モードとかないけど。あ、フウロ署長は響っぽいかも」
これから、かなりキャラが増えていくみたいだ。「続き読んでから、話つきあうよ」と言うと「おう」と授は応じ、「今日、夕飯何?」と荷物を床に下ろして南のいるキッチンに駆け寄る。
「ロールキャベツのクリームシチューだよ。あと、スモークサーモンのサラダとチーズのフライ」
「チーズのフライ、味見する」
「ひとつだよ」
「みっつくらい、いいじゃないですか」
「司ももう帰ってくるから、それまで待ちなさい」
「奏は?」
「今日は巴のところ」
「四人かー。前は六人とかで騒々しく食ってたのになあ」
「学校が休みに入ったら、築もまた遊びに来てくれるよ」
「にいちゃん、夏休みちょっと丸くなってたけど、もっと丸くなってたら、もはや怖い」
「雪ちゃんに見張られてるからね」
「雪ねえちゃん強いわ」
南と授のそんな話を聞いていると、外で車の音がすることに気づいた。聞き憶えのある音で、司が帰ってきたのだろう。
「お、司」と授もすぐ気がついて、「出迎えてるあいだに、チーズのフライ食べすぎないように」と南はエプロンを外して授に忠告し、玄関へと駆けていった。
「まあ、いつつくらいばれんだろ」とさりげなく数を増やして、授がキッチンにまわったので、僕は息をついてキッチンに歩いていった。シチューの匂いが柔らかい中、授はチーズのフライをつまんで口に放っている。作るのを手伝ったことがある、巻いたワンタンの皮の中でベビーチーズが蕩けている料理だ。
「響も食う?」と問われて、僕は食器棚からシチューの皿を取り出しながら、「すぐに食べれるからいいよ」と肩をすくめた。
「俺がこらえ性ないみたいじゃん」
「ないと思うよ」
「何だよー。分かったよ、みっつな」
「南は、ひとつって言ってたような」
「俺の食欲ではみっつくらいでひとつなんだよ」
よく分からない理由で、結局授はさくさくとチーズのフライをみっつ食べ、「よしっ、着替える!」とキッチンを出て荷物と共にリビングを出ていった。そしてすぐに、「司と南は、とりあえずいちゃつきますなー」という揶揄が聞こえたので、ふたりは昼間離れていたぶん抱きしめあっていたのかもしれない。
階段をのぼっていく足音のあと、「桃ちゃんで童貞捨てたことを知っていると言ってやりたい」と司が仏頂面でリビングに現れ、「まあ、桃ちゃんだからいいんじゃないかな」と南は苦笑しながらついてくる。
童貞捨てた。そうなのか、と僕は初めて知ったりしていると、「響、ありがとう」と食器の用意をする僕に南が声をかけてくる。僕は首を横に振り、「司、おかえり」と言った。
「ただいま。南、響と夕飯の支度してていいぞ」
「分かった。すぐ用意終わるから」
「了解。俺もスーツ疲れたから、さっさと着替えてくる」
ネクタイを外した司がそう言うと、南はこくんとしてこちらに駆け寄ってきた。
「ごはんできてるから、茶碗によそってくれる?」と頼まれて、僕はうなずく。炊飯器のふたを開けると、炊きたてのごはんの匂いが白い湯気と共にふわっと舞い上がった。南と僕で、夕食を食器によそったり盛りつけたりして、ダイニングのテーブルに運んでいく。
そのあいだに、司も授も着替えて再び現れて、四人で夕食を取りはじめた。
四人だと寂しいということは特になくても、授も言っていた通り、司と南、そして兄弟が四人揃った食卓はにぎやかで楽しかったなあと思う。もちろん二度とその食卓を囲めないということはないし、にいさんが休みになってまた帰省してくれたら、元通りなのだけど。
にいさんは、ひとり暮らしでちゃんとした食事を取っているだろうか。ここに住んでいるときでも、けっこう野菜とかに好き嫌いが多かったけど。司と南の代わりに、幼なじみの雪さんがそこまで見てあげてくれているといいなと思う。
ロールキャベツとサラダを平らげた授は、シチューをごはんにかけて食べはじめる。「お前、何でも米にかけるよな」と司に言われて、「いや、シチュー飯は誰でもやりますし」と授はもぐもぐとしていたものをごくんと飲みこんで言う。
「奏はシチューの中にごはん入れるね」と南が言い、僕はシチューとごはんは別に食べている自分の食事を見下ろす。「響は上品に食うよなー」と司に言われて、「僕たちより、テーブルマナーも知ってそう」と南も言い、「テーブルマナーはそんなに詳しくないけど」と僕は照れ咲う。
「南の料理はおいしいから、大事に食べたいと思うよ」
僕がそう言うと南は嬉しそうに微笑んで、「ありがとう」と言ってくれる。「俺も南の料理は世界一うまいと思ってるよ」と司が言って、「俺も南が作ったもんは何でも好きだぞ」と授も続けたので、「はいはい」と南はちょっと照れて、それでも「ありがとう」という言葉はもう一度添える。
咲坂さんは、南のこういう一面までは、たぶん知らないのだろうけど。それでも、南のファンで、南の絵が好きだと言ってくれて、僕はそれが嬉しかった。
今まで、僕はいつも親をバカにされてきたから。あの子は僕の父を認めてくれている。だからよりいっそう、彼女が喜んでくれる何かをしたいと思った。
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