心を支えるもの
次の日の朝、南は約束通り“リュク”のイラストにサインを添えたものを仕上げてくれていた。
「ちょうどあまってたから」としっかりした色紙に描いてくれて、さすがにカラーではないけれど、こまやかな絵で、ラフというより普通にイラストだった。
「彰先生にも許可もらっておいたよ」と言われてきょとんとしたけれど、よく考えればキャラ自体は佐々木先生のものだからそうなるのか。「何かごめん」と言ってしまうと、朝食を作る南は首を横に振り、「その子の名前が分かれば、入れてあげたかったんだけどね」と微笑む。
名前。咲坂──知らないな、と情報不足にばつが悪くなったものの、「このイラストで喜んでくれると思う」と僕は色紙を胸に抱えた。
司と入れ違いに洗顔したりしたあと、二階に行って色紙をかばんに入れて、制服に着替えたりと朝の支度をしていく。
リビングで新聞に目を通していると、授が朝のロードワークから帰ってきた。「寒いけど晴れてるーっ!」と本日の天気報告が玄関から響く。晴れか、と思いながらインクのにおいがする新聞をめくる。じゃあ、色紙も滲んだりする心配がなくてありがたい。
そのあと、子持ちししゃもやたまご焼き、ごはん、味噌汁の和風の朝食を取って、用意が整った僕は「いってきます」と家を出た。
授の言った通り、すっきりした晴天が空高く広がっていて、でもマフラーを巻いてちょうどいいくらい空気は冷えこんでいた。
昨日授も言っていたけれど、秋の良い気候は、ほんのひとときだった。駅へと歩きながら、唸って吹きつける風も鋭く乾いて、冬の灰色がかった匂いが立ちこめている。もうすぐ今年も終わるんだなあ、とひと気のない道で息をつく。
来年は受験生になる。中学生のときは、緊張感はあってもそんなに怖くはなかった。
大学受験は、将来がかかってくるのでやはりプレッシャーがある。浪人している場合ではない。いくら安全圏だと言われていても、ちゃんと勉強して、司と南への負担は減らさないと。今日も放課後には塾がある。
その日も満員電車に乗りこんで、ついマフラーを緩める人が密集する熱気の中、高校の最寄り駅に到着した。吐き出されるように電車を降りて、制服すがたの波に混じって改札を抜けていく。
こちらも天気が良くて、なごやかな青空が透き通っていた。いつも通り、挨拶がちらほらと飛び交って笑い声が上がっている。僕は緩めていたマフラーを結い直すと、前を向いて、高校へと歩いていった。
「咲坂あ、お前ほんとキモいんだから、いい加減教室から消えてくんない?」
騒がしい廊下から教室に入ると、真っ先にそんな声が聞こえた。
はっとしてそちらを見ると、咲坂さんの席を三人の女子が取り囲んでいた。つくえを蹴りつけながら、本を読む咲坂さんに毒を吐き、周りのみんなはそれを無視している。
僕に「おはよー」と普通に声をかけてくる人もいた。
「こんなバッグ、恥ずかしいしさ。お前みたいな痛い子が集まってる低能高校に行けば」
「何でお前がこの高校に来てるの? 恥なんだけど?」
「お前がいるとマジで朝から萎えるし、もう学校来るなよ」
挨拶されたものの、僕はその光景を凝視して、彼に言葉を返さなかった。足を踏み出そうと思い、少し心臓がこわばるのも感じたけれど、思い切ってかばんも下ろさずに咲坂さんの席に歩み寄る。
「咲坂さん」
突然そう声をかけると、咲坂さんより三人の女子のほうが僕を見た。何か言われるかも、と刹那ひるみそうになったけど、三人はぱちぱちとしばたいたあと、思いがけず「え、美由くんじゃん」とへらっと僕に咲いかけてきた。
「どうしたの? あ、おはよう」
「……おはよう」
「えーっ、美由くんから『おはよう』とかケイコ超ラッキーじゃん」
「いいなー。美由くん、あたしもおはよーっ」
僕は、怪訝を浮かべて三人を見た。よく、分からない反応だ。僕なんかに邪魔されたら、それは気に障って、すごい渋面を向けてくると思ったのだけど。
無言の僕に、「……あたしは言ってもらえない」とひとりがしゅんとして、残りのふたりは楽しそうに笑った。何というか、咲坂さんのほうがよほど顰め面だ。
「あの、僕、咲坂さんと話したいんだけど」
「え、何でこいつ?」
「それよりあたしたちと話そうよっ。彼女のこと訊きたいしー」
「あっ、それ! 他校の女子とたまにお茶してるんだよねっ」
「いや、あの……」
「やっぱりつきあってるの?」
「うわー、美由くんに彼女いたらショックだよお」
「すみません、本を読みたいので向こうで話してくれますか」
ふと咲坂さんが冷ややかに言い放ち、三人はぎろりとそちらを向いた。
しかし、さすがに僕の手前か、ひどいことまでは言わない。それより三人は、僕の腕をつかんで一緒に連れていこうとする。
何とかそれを邪慳にならないよう振りはらうと、「ごめん」と一応三人にはきちんと断ることにした。
「僕は咲坂さんに話があるんだ。僕と話したいなら、また違う機会に相手させてもらうから」
「ほんとっ? やば、美由くんから誘われた」
「絶対っ、絶対ね。彼女のことも、本当なのか訊かせてよね」
「わあいっ、今日はめっちゃいい日だー!」
そんなことでわいわいしながら、三人はあっさり咲坂さんの席を離れていった。
それを見送り、何で、と思ってしまう。何もしていないのに。ああいう子たちをしりぞけるのは、もっと面倒だと思っていた。こんなに簡単なら、悩まず早く咲坂さんに話しかけていればよかったのか。
「……話って」
はたと咲坂さんを見た。何だか、咲坂さんはむしろ不機嫌そうだ。迷惑だったのだろうか。それを小さな声で確認すると、咲坂さんは眉を寄せ、「私は君みたいに目立ちたくないです」と言った。
目立つ。その言葉に首をかしげると、「君は」と咲坂さんは本を置いた。
「いつも成績は学年トップで、しかも容姿端麗で、おまけに将来は弁護士になりたいんでしょう? しょっちゅう女子は君のことで騒いでますし、男子も嫉妬さえせず一目置いてます」
僕のことで騒ぐ? 一目置いている? 確かに高校生になってイジメはなくなったけれど、何もそこまで──
「私は庶民なので、君みたいなタイプは苦手です」
もう一度、咲坂さんを見た。
苦手。そう、なのか。そういうものなのか。自分の心が、思った以上に落ちこむのを感じた。咲坂さんは、僕みたいなタイプは苦手。
でも、やっぱりあの色紙は渡したいと思った。僕のことは嫌いでも、南の絵が好きなのは確かだから、受け取ってくれるはずだ。
「それで、話って何ですか」
まだ離れていかずにつくえの脇に突っ立つ僕に、咲坂さんがわずらわしそうに言う。無意識にうつむいていた僕は、咲坂さんをちらりとして、「少し、教室出れるかな」と尋ねてみた。
咲坂さんは眼鏡の奥から僕を見ると、億劫そうな息をついたものの、席を立った。 そして“リュク”で彩られたかばんを手に取り、「どこに行くんですか」と僕を見上げてくる。何でかばん持っていくんだろう、と思っても、僕は黙って身を返し、視線がくっついてくる中、咲坂さんと共に教室をあとにした。
廊下に出て、歩きながらぼんやりしそうになったけど、すぐにどこに行こうかと考える。今、登校であんまり人通りがないのは、特別教室のある四階の廊下あたりだろうか。
とりあえず行ってみよう、と階段に出て、四階へとのぼりはじめたときだ。突然、後ろからコートを引っ張られた。振り返ると、咲坂さんが僕のコートをつかんでいる。
「……すみません」
思いがけない言葉と弱い口調に、「えっ」と僕が間抜けな声を出すと、「ええと」と咲坂さんは視線を泳がせる。
「いや、その……教室で。嫌な感じで」
階段の前に止まったまま、咲坂さんの態度があまりに違うのでとまどってしまうと、彼女はようやく僕に視線を向けた。
「私が、その、みんなに嫉妬されるのが怖かっただけなので」
「……嫉妬」
「それに、みんなの前で私に話しかけて嬉しそうにされてたら、君だって何かされるかもしれない」
何秒か考えたのち、ああ、とようやく納得した。咲坂さんは、僕をイジメに巻きこまないようにと、教室ではあんなふうに突き放したのだ。
何だ。あの不機嫌の態度は演技だったのか。僕はつい心からほっとして、咲坂さんには「そこまで気遣えなくてごめん」と謝る。
咲坂さんは首を横に振った。ツインテールがひらひら揺れる。「私も」と咲坂さんは僕に顔を上げる。
「ほんとは、君と話さなきゃって思ってました」
「そっか。よかった。じゃあ、四階なら今あんまり人いないと思うし」
「はい」
「行こう。咲坂さんに渡したいものを持ってきたんだ」
まばたきをした咲坂さんと階段をのぼり、四階にたどりついた。人がまったくいないわけではなくも、思った通り、混雑するざわめきはなかった。僕はマフラーを結い目だけほどき、それから廊下におろしたかばんを開いた。
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