心に宿る彼-9

 十二月になって、期末考査が終わって数日が過ぎた日の昼休み、志井さんからメッセが届いていた。
 試験が終わって落ち着いてるなら、今日の放課後にお茶をしないかという内容だった。今日は塾もないし、たぶん大丈夫だ。そう思った僕は、快諾する返事を送信した。
『じゃあ、今日の放課後、駅でね。』
 そんな志井さんのメッセに既読をつけると、志井さんには咲坂さんのことを話して相談に乗ってもらっていたなあと思い出す。咲坂さんに心の支えがきちんとあったこと、それでも僕と話してくれることは、伝えておきたい。
 僕が『デッドエア』の本編を読み終わったのもあって、最近、咲坂さんとはその話をする。ラストで語られた『なぜ地球に人間が生き残っていたか』の真実は、それまでの壮大な展開と違ってとても身近な理由で、ラスボス的なキャラもけして悪しき存在ではないという収束だった。
 それでも、人間はやはりこの宇宙に残しておけない、という判断が上層部から下る。地球の人類殲滅計画が本格的に持ち上がり、自分たちの調査はここまでだと、エメルや仲間たちは撤退することになる。恵音は、地球が無放送時間──デッドエアを迎え、空が砂嵐に覆われるのを操乃と共に見つめる。
 そんなこの世の終焉の描写で、物語は終わった。「いつかほんとに、あんなふうに終わりそうだなあ」と僕が青い空を窓越しに見つめると、「SFなのにリアルなお話ですよね」と咲坂さんもうなずいた。「ここから続編とかがあるんだね」とそこにも僕が驚くと、「そうなんですよ!」と咲坂さんは嬉しそうに語りはじめてくれる。
 その日、六時間目まで授業が終わると、ホームルームのあとに終業した。放課後は相変わらず咲坂さんはさっさと帰ってしまう。僕もあまり志井さんを待たせたくなかったので、早足で教室を出た。
 自由になったざわめきを縫って一階に降りると、靴を履き替えて外に出る。マフラーをもう少し、きゅっと縛る。
 今日は空がぼんやりした灰色で、雨は降りそうになくとも、ひどく寒い。何かあったかいものを飲んで帰るのは正解かも、と思いながら校門を抜け、木枯らしに身をすくめながら駅に向かった。
「美由くん」
 駅に到着すると、すぐそんな声がかかった。目を向けると、チョコレート色のダッフルコートを着た志井さんだった。「ごめん、遅くて」と駆け寄ると「大丈夫だよ」と志井さんは微笑む。
「今日、寒いね。風が強いせいかな」
「うん。私、すぐ手とか冷たくなる」
「早く温かいもの飲もうか。またあのカフェに行く?」
 こくんとした志井さんと僕は、駅の地下へと降りた。
 カフェは混んでいたけど、空席がないほどではなく、僕はホットカフェラテ、志井さんはホットココアをテイクアウトして、取っていた席に着いた。
 熱い陶器の表面から指がほぐれる。香ばしい湯気に息を吹きかけて、ほろ苦い味を飲みこむと、熱がじわりと胃を温める。
 しばらくそうやって冷えていた軆を癒やすと、何となく僕と志井さんは顔を合わせた。
「少し久しぶりだね」
 僕がそう言うと、志井さんはうなずいて「いそがしかったかな」と気にかける。
「ううん。期末も終わってたし。今日は塾もないし」
「そっか。よかった」
 僕は志井さんを見つめて、「何か、話でもある?」と気になっていたので訊いてみた。
「えっ」
「いや、いつもばったり会ったときにお茶するから。決めて会うって、あんまりないよね」
「そっか。……そうだよね」
「何かあった?」
 心配になった僕に、志井さんはココアに口をつけて考えたあと、「軽蔑しない?」と上目遣いをした。軽蔑。よく分からなかったけども、「しないと思う」と答えると、志井さんは大きくため息をついた。
「こないだね、初めて、ビアンバー的なとこに行ってきたの」
「えっ」
「っていってもっ、お酒は飲んでないよ? カウンターしかないお店で、クラブみたいに踊ってるとかもなかったからね」
「そう、なんだ。よく見つけたね」
「つい検索しちゃって。そしたら、ここに来るのに使ってる路線でヒットしたの。見つけちゃうと、どうしようどうしようって気になってきて」
「ひとりで行ったの?」
「うん。怖かったらすぐ帰ろうと思ってたけど、場所も駅前に近くて暗くなかったし、オーナーさんがひとりで切り盛りしてる小さなとこで。さすがに緊張してて楽しかったかはよく分からないけど、オーナーさんはまたおいでって言ってくれた」
「そうなんだ」と僕はカフェラテをテーブルに置く。バーなんて僕行ったことがないし、あまり想像がつかないのだけど、よくある薄暗いイメージのところではなかったようだ。
「ほかにお客さんとか」
「いたっ。常連のカップルさんが、すごく仲良さそうでうらやましかった。カウンターの下でずっと手つないでるんだよ。かわいくない?」
 何となく司と南を思い出したので、「それはうらやましくなるね」と咲い、「でしょ」と志井さんは得意げな笑顔になる。
「オーナーさんがね、未成年オンリーの日に来たら、同世代もいるよって教えてくれたの」
「未成年オンリー」
「未成年だけのイベント。そのときは昼から開店してて、ソフトドリンクも烏龍茶だけじゃないんだって」
「そんな催しもあるんだ。行ってみるの?」
「行ってみて……いいと思う? でも、そういうとこで出逢うっていいのかなー。来る人も軽薄じゃないかなー」
 脚をじたばたさせる志井さんに、「まずは友達でいいのかもしれないよ」と僕は咲ってしまう。
「友達」
「レズビアン同士なら必ず恋愛になるってわけではないし。いきなり出逢いじゃなくて、最初は友達でいいんじゃないかな」
「なるほど」と志井さんはココアをこくっと飲み、「美由くん、そういう夜の店とか嫌悪するかと思った」と言った。
「そんなことないよ。自分が利用するかは分からないけど」
「そっか。一応、そこのお店のアカウントとつながったんだ」
「SNS?」
「そう。それで、今度未成年オンリーって流れてきたら行ってみようかな」
「仲良くなれる人、見つかるといいね」
「うん。ただね、出費がけっこう痛いの。ドリンク一杯で七百円だよ」
「え、烏龍茶でも?」
「そう。こないだも二千円超えちゃってびっくりした」
「お金足りた?」
「ぎりぎり。定期の区間だから、交通費かからなくてよかった。まあ、イベントのときは飲み放題になるらしいけどね。それでも入場料はいるみたい」
 ため息をついている志井さんに、すごく頑張ったんだろうな、と僕は思った。
 だいぶ前向きな行動だ。自分を見てくれる人がいるかもしれない場所に飛びこんだのだ。
 そこで志井さんの新しい世界が広がればいいなと思う。志井さんを好きになってくれる女の子は、きっとどこかにいるはずだ。
「あ、そうだ」
「うん?」
「志井さん、咲坂さんのこと憶えてる?」
「さきさか……あ、クラスのイジメられてるって子?」
「そう」
「最近どう? 美由くん、話しかけた?」
 僕はうなずき、ここ最近の咲坂さんとのことを志井さんに話した。
 話しかけたときのこと。南のイラストのこと。それを渡したこと。それ以降、仲良くしてもらっていること。
 志井さんは真剣に聞き入ってくれて、その後、小首をかしげて考えこんだ。「何?」と僕がカフェラテを飲んで問うと、「何か」と志井さんは言いよどんだのち述べた。
「つきあってるみたい」
「えっ」
「そういうわけじゃないの?」
「ち、違うよ。咲坂さんは二次元を好きになるんだよ」
 志井さんは眉を寄せて唸って、「もし彼女が、現実も好きになるなら?」なんて尋ねてくる。僕は平静を努めて「それでも、僕はないんじゃないかな」と静かに答えた。「えー」と志井さんはふくれっ面になる。
「美由くん、意外と卑屈だなあ。今の高校の評価、正しいとあたしは思うよ。美由くんは勉強できるし、かっこいいし、将来もしっかり考えてる。普通にモテるでしょ。好かれるでしょ」
「……でも」
「それに、美由くんが彼女にしてあげてることって、友情かな。まさか同情じゃないでしょ?」
「………、イジメから助けてあげたいと思うのは、おかしいのかな」
「おかしくはないよ。ただ、どうでもいい人ならほっとくと思う。それって、美由くんにとって、彼女が多少は特別ってことなんじゃない?」
「特別」
「南さんの絵とかあげて、支えになりたいと思ったんだよね。咲ったり、喜んだりしてくれると嬉しいんだよね」
「ん、まあ……」
「それは、美由くんが彼女に恋をしているように、あたしは感じるんだけど」
 僕はぱたぱたとまじろいで、「え」とつぶやいてから、狼狽えて視線を迷わせた。
 恋? 僕が咲坂さんに?
「揶揄ってるんじゃないよ。あたしは、いいと思うし。彼女だって、美由くんを意識してるんじゃない?」
「い、いや。それはないよ。ぜんぜん」
「そうかなあ。でも、彼女の中で美由くんはすっごく特別だと思う。二次元しかダメって思ってたのに、仲良くなれた男の子だもん」
「そんな……ことは、……ないよ」
「もし彼女に『好きです』って告白されたら、美由くん断る?」
「言われるわけないのに、」
「言われたとして」
 言われたとして。咲坂さんに「好き」と言われたとして。告白されたとして。
 何だろう。僕は応えるのか? 分からない。少なくともその気持ちを踏み躙ろうとは思わない。大切にしてくれるなら、その想いを大切にしてほしいと思うかもしれない。
「美由くんは今、勉強が一番なんだよね。それはあたしも知ってる。でも、だからって恋愛を閉じこめる必要はないんだよ。好きな人ができてもいいの」
「……僕に好かれたって、」
「美由くんはあたしの自慢の友達だから、恋人ができたら自慢の彼氏にもなれるよ」
 志井さんを見つめた。志井さんはにっこりして、「彼女のこと、けっこう、好きでしょう?」と改めて訊いてきた。
 咲坂さんが好きかどうか。それに「好き」「嫌い」「どうでもいい」のどれかで答えるのなら──
「好きかもしれない」と僕は頬に熱を感じながら答えた。志井さんは嬉しそうな笑みを浮かべて、「美由くんが恋かあ」なんてしみじみと言った。
 恋。この感情が、恋なのか。咲坂さんを守りたい、助けたい、支えたいと思う。
 僕は彼女に言った。咲坂さんのように想ってくれる女の子を好きになりたいと。だったら、咲坂さんのような子じゃなくても、咲坂さん本人が理想だということになる。
 うわ、と自覚がこみあげてくると、カフェラテを飲むよりはるかに高い温度が軆をほてらせてくる。
「あたしも、ゆっくり頑張るし。美由くんも、焦らずに彼女を大事にしたらいいよ」
 同じ電車に乗って地元に帰り、別れ際に志井さんはそう言ってくれた。僕は小さくうなずき、「ありがとう」と言った。お礼がよく分からなかったのか不思議そうにした志井さんに、「言われないと、その、自覚しなかったかも」と僕は小さな声で説く。
 志井さんは噴き出すと、「美由くんって自分のことには鈍感なんだね」と僕の肩をたたき、「またね」と歩き出していった。僕はその背中を見送り、胸苦しいほどせりあげる心に、ぎこちない深呼吸をした。

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