春雨の夕刻に
いつも思っている。なぜ、自分はここにいるのだろう。ここでいったい、何をしているのだろう。
雨音が空気を肌寒く濡らしている。飛季は窓を見やった。暗く立ちこめ、春雷を連れてきそうな雨だ。
季節の変わり目のこの雨で、この家に来る途中の桜並木は無残と化していた。帰宅の不便を案じていた飛季は、「先生」と呼ばれて、そちらに目を戻す。
学校では新学期が始まり、一週間ほどだろうか。去年から受け持つこの女子生徒は、学校に行けなくなってずいぶん長いらしい。それでも、勉強だけは続けてほしいのが親心なのか、家庭教師として飛季はこの家に派遣されている。
飛季が登録する家庭教師の派遣センターは、こういった登校拒否や引きこもりの子供たちにも対応している。この子も、初めはドアを開けてもらうだけでひと苦労だったが、今は「先生は、学校行けない私より暗いね」などと言って、きちんと勉強するようになった。
それは、学校に行かない度胸があるお前より、惰性で大学まで出た俺のほうが陰険だろう。そう思うけれど、無論、口にも顔にも出さない。飯の種の機嫌を損ねるわけにはいかない。
教職は取っても、就職口がないまま塾講師や家庭教師で食いつないで四年。接した子供たちは多い。しかし、印象に残っている子など、ひとりもいない。
「全部正解。今日は、このへんにしようか」
十八時が近づく時計を一瞥して、飛季がそう言うと、彼女はこくりとした。教科書を片づけつつ、「今年から受験生だけど、高校は行けそう?」と形式的に訊いておく。彼女はうつむき、答えかねるのか、少し首をかしげた。
「高校は、通信制とかフリースクールとかいろいろあるから。ご両親と相談して、行けそうな場所があれば言って。資料は持ってくる」
「……先生に勉強教わってるだけじゃ、ダメなの?」
「俺じゃ高卒はあげられないからね」と飛季が苦笑すると、「そっか……」と彼女は視線を下げる。
飛季は丸椅子を立ち上がって、「じゃあまた」と残して部屋を出た。
母親が心配そうに顔を出したので、「学力はあるんですが、高校に行く意思があるのか、本人にも分からないようです」と報告した。そして、本人にも言った通り、高校の多様性を伝える。「もし資料が必要なら、遠慮なく仰ってください」と頭を下げると、玄関で靴を履いた。
「いつもありがとうございます、桐月先生」
母親も飛季に頭を下げ、飛季は笑みでそれを制すと「お邪魔しました」とドアを開け、マンションの一室であるその家を出た。背中でドアが閉まると、瞳に一気に虚脱した色が降りる。
やっと、今日のノルマが終わった。
そんなふうに感じながら、オーバーを羽織って足を踏み出す。冷たい雨の匂いが、ひやりと肌にすりよる。
このあとに派遣事務所に戻り、各自プリント作成することなどは自由だが、飛季は基本的に直帰だ。プリント作成をすることはあっても、部屋でやれる仕事は、なるべく持ち帰る。
本当は、自分はこういう死んだような目をしていて、頭の中は陰惨で。だけど、昔から“無関心”ぐらいには印象がやわらぐように、演技を施してきた。
自己抑圧は神経に染みついているけれど、自虐的に他者と過ごして刺激する趣味はない。ひとりが楽だ。
マンションを出ると、雨は大粒で重たそうだった。植木から、湿った土が匂っている。その植木が途切れた通路を曲がり、冷たい雨下を走りぬけて、屋根つきの駐輪場に出る。来客用の駐輪スペースがあるのがありがたい。
ナイロン製のオーバーはともかく、髪は一瞬でずぶ濡れてしまった。眉をしかめて、おろした前髪から水分をはらい、オートバイに近寄る。
ヘルメットを取り出し、教科書やノートが入ったデイパックを代わりに突っ込んだ。オートバイを通路に出すと、またがってギアを入れる。
ひどい雨が視界を邪魔した。ときおり、青白い雷光が頬に当たる。アクセルを握ってマンション敷地内を出ると、ようやく解放感が訪れた。
ほっとしたあとに、記憶がゆっくりと弛緩してくる。今日一日、いったい自分が何をしていたのか、分からなくなる。何か刺さってつっかえ、この思考排除がうまくいかないと、飛季の脳内は赤く染まる。
ひと駅ぶん走る。飛季は、建ち並ぶ区別のないマンションのひとつに、ひとりで部屋を借りている。
妻も恋人もいない。学生時代には恋愛もしたが、長続きしなかった。自分が誰かを愛せるとは思えないし、愛されるとも思わない。人間が腐っていくのは、愛や信頼などといった生臭いものを持つせいだ。そんなふうに思う。
マンションから一番近いコンビニに立ち寄った。帰りがけには、いつもここで出来合いに頼る。
雨が強くなり、雷鳴も近づいている。オートバイはひさしに停めた。デイパックを取り出し、財布を探る。雷の瞬光が、豪雨に霞む薄暗い景色を鮮明にさらす。
いつ、初夏になるのだろう。
ぼんやりそう思っていると、不意に背後で物音がした。じゃり、という──濡れたアスファルトを踏む音だ。何気なく振り返り、ぎょっと反射的に身を引いた。すぐそば、背中に密着しそうな位置に、緑色の何かがあった。
凝視して、それが頭まで緑色の毛布をかぶった人間だと分かった。しかし、子供が演じるおばけでもあるまいし、やっぱり息を飲んでいると、飛季の胸の高さしかない身長の相手が、のそりと顔を上げる。
澱んだ瞳が、真っ先に目についた。目尻が切れこむ大きなその瞳は、長い睫毛に縁取られている。頬は蒼ざめ、萎縮した唇は紫色だ。栗色がかった前髪が額を覆っている。すっと通る鼻梁から、本来は美しい顔立ちをしているのが窺えたが、とっさに受ける印象は薄気味悪くて不快だった。
しばし、そのよどんだ瞳と見つめあった。男か女か、一瞬とまどったが、頬から顎にかけての線の柔らかさから見て、女だろうか。歳は、あの受け持ちの女子生徒と変わりそうにない。
飛季は視線を外し、デイパックに突っ込む手を気まずく動かす。デニム生地の財布が指に触れた。
彼女も飛季のデイパックに目を移した。
「お金、持ってるの?」
儚げで細い声だった。雨音にかき消されそうだ。
「持ってるの?」
彼女は毛布をめくり、華奢な手首につながる白い手を出した。怪談に登場するような手だった。
その手はデイパックに伸び、飛季は慌ててデイパックを上に持ち上げる。彼女の澱んだ目が合わせて上がる。彼女は口を半開きにし、それから、声を発した。
「ちょうだい」
にぶい口調だ。デイパックを背中に隠し、飛季は彼女に目をやる。
「………、何を」
「お金」
「金って──」
「ちょうだい」
彼女は無表情だ。固まっているのではなく、弛緩している。
「くれたら、いいことしてあげる」
彼女を見る。澱んだ瞳は、いろんなものが停滞しすぎていて、つかみどころがない。
いいこと──
「悪いけど」
飛季は身を返す。デイパックも持っていく。
「僕のは」
僕?
「いいんだよ。価値、あるんだよ」
僕、と言うのが気になったが、最近の子の言うことだ。無視した。開いた自動ドアをくぐろうとしたとき、雨のあいだから毒がすりぬけてきた。
「気取りやがって。偽善者」
振り向いた。彼女は、緑色の背中を向けていた。白くて細い脚がふらつく。彼女は、コンビニの路地へと消えていった。
視線を下げた。開きっぱなしにしている自動ドアに気が咎め、とりあえず店内に入る。軽快にしゃべるラジオがかかっている。ブックラック越しのガラスに目をやっても、彼女はいない。
何だったんだ、と訝りながら、適当に夕食を購入すると、コンビニを出た。
あたりを見まわしても、緑色なんか見当たらない。幻覚だったのかとすら思いつつ、飛季はオートバイにまたがって帰路についた。
雨は小降りになっていた。雷の頻度も落ちている。
飛季が住むのは、十階建てのマンションだ。大学を卒業して、一年間塾講師をして貯めた資金で住みはじめた。マンションの脇に駐輪場があり、オートバイはそこに預ける。
小走りにマンションの正面に戻る。ドアをくぐり、ようやく冷雨を逃れるとため息が出た。雫をはらい、湿った髪はかきあげてしまう。セットが壊れて、長い前髪が目にかかった。
広いホールでは、郵便受けが並んだり、自販機が低く唸ったりしている。エレベーターホールに行く前に、郵便受けを覗く。突っ込まれているのは、今日は広告だけだった。ここに母親の手紙が混じっていると、かなり憂鬱になる。溝も確執もないのだけど、特に話すことはないのだから、構われるのは嫌だ。
エレベーターが来る。無人だった。乗りこんで、『6』を押すと壁にもたれる。最新のエレベーターではないから、あの少し嫌な浮遊感が襲う。外が陰気だったから、白熱燈がやたら眼球に刺さる。
飛季の部屋は、エレベーターのそばの601号室だ。
明かりをつけると、あっさり片づいた室内が浮かび上がる。弁当は座卓に、デイパックはベッドに、オーバーはハンガーに、それぞれ置いていく。バスとトイレは別、キッチンもついたワンルームだ。連れこむ誰かもいない飛季には、室内はじゅうぶん広く、申し分ない部屋だった。
服も着替えると、カーテンを閉めにベランダへのガラス戸に近づいた。
外は真っ暗だ。太陽が落ちた空は、雨雲をかぶっている。いつのまにか、雷はやんでいた。かぼそい雨音を倦み、飛季はカーテンを閉める。
座卓のかたわらに腰をおろすと、弁当を開いた。割り箸でべたりしたエビフライをつついていると、ふと、あの気味の悪い少女を思い出した。タルタルソースをかけながら、何だったんだろうと思う。
見かけたことのない子だった。近くの中学校の生徒だろうか。何だかつかみきれない、ゆらゆらした印象だけ残っている。
澱んだ瞳、白い手、濡れた緑色は、フラッシュバックのように鮮明なのだけど、あとはあの不気味な雰囲気が鳥肌を立てさせるだけだ。発言も意味不明だったし、まるで幽霊のように存在感から遊離していて──夢だったみたいに、接した実感がない。
正直、頭がおかしそうだった。何かの事情で、ちょっと、気が狂れているのだろうか。
いいこと、と言っていた。それが何かは分かる。だけど、飛季はそういうことに冷めている。というか、面倒なのだ。
学生時代からそうだった。だから、大切にされていないと女の子に思われて、関係が長続きしなかった。
欲望がないことはない。だが、女とつきあうのは面倒臭い。風俗も行かない。ひとりで処理するほうが楽だ。恋愛に限らず、他者が私生活に入りこんでくることが嫌なのだ。ペースを乱されたくない。
仮面を被って、当たり障りない人間を演じて、殻の中の絶対的な孤独にこもる。誰にも自分を開かない。誰とも目を合わせない。この瞳を冷たいガラス玉に模造しているのは、生暖かい目玉には重苦しい鬱屈が立ちこめて物騒だからだ。
何も楽しくない。外界のすべてを殻越しにしか捕らえられず、感受性がにぶい。ありのままを感じるには、自分をさらけださなくてはならない。それは嫌だ。殻は破れない。
殻が飛季を無感覚にさせている切り札であっても、こんな陰惨な自分をさらすくらいなら、平凡な毎日にうんざりしているほうがいい。
飛季は割り箸を置くと、冷たい缶コーヒーのプルリングを抜いた。
誰の心にも残りたくない。飛季は今までそうしてきた。これからもそうする。誰の気にも留められず、いつかひっそりと消える。飛季は、それがとても容易であると分かっていた。
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