心の返り血
日常が再開し、飛季は無感覚と記憶喪失を往復した。
かったるそうな生徒、繰り返す訪問、同僚への偽善的な挨拶、すべて仮面で処理していく。仮面を剥がすようなことが起これば、その手首を切断して、その人間を殺す。
毎日が、規則正しく過ぎていく。
私生活には、実摘がゆっくり絡みつきはじめていた。道端にたたずんで飛季を見つめてきたり、マンションの前で飛季とすれちがったり。
ときどき、飛季はなりゆきで実摘に声をかけた。彼女は当初にならって、無言で去っていった。飛季は、彼女の声が思い出せなくなっていた。
一度、実摘が六階まで来た痕跡が残っていた。彼女だとは言い切れないが、彼女以外に、そういうことをする人間が思い当たらなかった。
帰宅した飛季は、ドアポストに何かがはさまっていることに気づいた。何だろうと引っ張り出すと、破れた一万円札だった。首をかしげ、部屋に入ってドアポストを開いた飛季は、息を飲んだ。
大量の福沢諭吉がいた。はさまっていたもの同様、細かい屑になった一万円札だ。
飛季はそれを取り除いた。二、三枚ではない。かなりの額だった。くしゃくしゃになった元紙幣に、もったいない、と飛季は庶民らしく思った。
ミニテーブルにてんこもりになった福沢諭吉の破片に、どうとも言えない気分になった。こんな、破天荒で非常識な小細工を仕掛ける人物を考える。実摘しかいなかった。
道で逢うと、実摘は完全な他人として、通りすぎていくときがあった。凝視されると具合が悪くとも、黙殺されるのもおもしろくない。それでも、彼女との接点を人に見られないよう祈ってはいた。大の男が他人の少女と接しているなんて、変態あつかいされるだけだ。
実摘を内心わずらうほかは、生活に代わり映えはなかった。中間考査が近づき、生徒それぞれに対策を練らなくてはならないのを疎みつつ、飛季はその日も生徒の暮らすマンションを出た。
初夏が安定し、晴天が続いている。夏服を着ている人も増えてきた。飛季は年中、ワイシャツにスラックスだが。
日も長くなっていくな、と駐輪場に行く。すると、飛季のオートバイのシートから燃料タンクにかけ、ぐったりと寝そべっているカーキのリュックの背中があった。
思わず、周りを見渡した。人の目はない。何だよ、と胸でつぶやいて駆け寄る。
「実摘」
実摘の軆が痙攣した。のそりと軆を起こし、こちらに首をよじる。よどんで分裂した瞳が、何十秒かかけ、飛季に集まる。
「何、してんの」
実摘は答えない。こちらを漫視してくる。飛季は周囲にせわしなく目を走らせる。
「降りてくれる?」
やや強い口調を使った。実摘は頭を左に折る。
「降りて。誰かに見つかったら、君も家に連絡され──」
いきなり実摘は、手を振り上げ、飛季の左の耳の下の顎骨を鷲づかんだ。驚いて口をつぐむと、彼女はその手を頬へと動かす。仮面を剥ぐように。
実摘は、笑みと問いが混和した顔をした。
「何で剥げないの?」
頬を硬くさせた。手を引いた実摘は、腰をくねらせて後ろのほうに移動する。
「おうち、行く」
「え」
「僕も行く」
相乗りしていくと言いたいらしい。冗談ではなかった。
「ダメだよ」
「だめ」
「こんなところからは乗せていけない」
「行く、僕も帰るの」
「じゃあ、通りに出たら下に降りてて。途中で拾うよ」
「おうち」
「来ていいよ。一緒に乗っていくのはダメなんだ」
実摘は不満そうな渋面になった。飛季は実摘を説得しながら、なおも周りに気をはらう。
しぶとくふたり乗りを断っていると、実摘はやっとオートバイを降りた。むくれてはおらず、うなだれている。通りの方向をしめそうとした飛季を、実摘はとぼとぼと歩いて、背中で遮絶した。
飛季もオートバイを出し、マンションの敷地内を出た。駅まで坂になっている通りをくだりながら、右の歩道を意識するも、実摘のすがたはない。
ふてくされて違うほうに行ったのだろうか。それとも、見落としたか。駅への小道に面した信号に突き当たり、しばらく待ってみた。実摘独特の雰囲気は来ない。十分も経つと、あきらめてオートバイを発進させた。
赤信号で止まると、飛季は実摘を想った。
まったく、あの子には振りまわされっぱなしだ。思考回路を少しでも読めればいいのに、それさえむずかしい。
信号が青になる。実摘に出逢って、何度めか知れないため息をついた飛季は、クラッチを握った。
翌日は例の万引き生徒の部屋を訪ねて不毛に過ごし、飛季は陰惨な気持ちを抱えて帰宅した。荷物を投げ出して、まずは記憶の処理を行なう。
引き裂いた喉から血飛沫が飛び散る。悲鳴を生む声帯を裂け目からむしり取って、その口には刃物を刺す。血に崩れた柔らかな軆を、懲りない命が憐れにぴくぴくと攣らせる。
それを俯瞰し、飛季は荒い息を吐き散らす口元をぬぐった。ぴったりした赤い手ぶくろをつけたような手は、べったりと口元を緋に染める。
脳内が削られ、静謐になっていく。空っぽの肉体を蹴り捨てると、真っ暗になり、熱に膨張した頭が冷えていく。生臭い心が風化し、血痕でしかなくなると、まぶたを上げた。
いつもの部屋の情景がある。太陽が留守になり、とっくに外は暗い。電気をつけないと足元が危ない。床に尻をつける飛季は、にぶく軆を動かし、ベッドスタンドにあるリモコンで明かりをつけた。まぶしくなった部屋に、つい目を細める。
ベッドに頭を折って、喉を剥く。床にデイパックが、ミニテーブルにコンビニのふくろが放置してある。服装もワイシャツとスラックスのままだ。
心を血にまぶした反動に半眼になって、睫毛に天井を霞ませる。脳が曖昧だ。記憶を消すのは労力がいる。骨にぶらさがる肉にだるくなっていると、突如、どんどんという不穏な音が響き渡った。
シーツと平行にしていた頭を、まっすぐにする。音は玄関から聞こえた。飛季は肩をすくめ、腰を上げる。
あの子とは関わりたくない。そう迷惑がっているくせに、逢えば逆らえずに甘やかしてしまう。
ドアをたたく音は続いている。インターホンを教えてやらなくてはと思いながら、玄関を開けた。
実摘がいた。飛季に上目遣いをし、ドアをたたきつづけた拳を服にこすりつける。
飛季はインターホンの存在を教えた。「これを鳴らせばいいよ」と言うと、実摘は素直にこっくりとした。そして、飛季の腕の下をトンネルにして部屋に入る。
今回は変なことにならないといい。そう願ってドアを閉める。
リュックをおろした実摘は、コンビニのふくろをあさっていた。腹が減っているのかを問うと、実摘はうなずく。今日の弁当はからあげだ。譲ることにした。食欲がない。
彼女の正面に腰をおろすと、実摘はこちらを見つめてきた。「何?」と訊くと、実摘は長い睫毛をぱちぱちとさせる。
「血の匂いがしてるよ」
「え」
「服にもついてる」
飛季は、返答に迷った。実摘は弁当を開き、からあげをむさぼる。桃色の唇が、油に艶めくのをぼんやり眺める。
「実摘」
実摘は顔を上げる。
「何で分かる?」
彼女は怪訝そうにして、割り箸をからあげに刺した。
「俺の、考えとか。誰も気づかなかったのに」
実摘はからあげをかじる。
「映ってるの。目に。僕、それが見えるの」
「見えるって」
「いつも見てたの。そしたら、見えるのに慣れたの」
「みんなのが、見えるわけ」
実摘はかぶりを振る。前髪が額に不格好にかかる。
「心が壊れてる人だけだよ」
「俺、壊れてる?」
実摘は首を縦におろす。
「粉々なの。血でいっぱいだよ。あんまりそれしてるとね、ゾンビに復讐されるよ。ゾンビは正義の味方なの。頭空っぽだから。けどね、飛季は大丈夫だよ。自分が仮面かぶってるの知ってるもん。剥がしたら助かるよ。助からないのはね、自分に仮面があるって分かってない人だよ」
「そういう奴は、心が壊れてなくても──壊れてないほうに、たくさんいるよ」
「壊れてない人は、復讐って呼ばないの。お掃除だよ」
そこまで言った実摘は、あとは食事に没頭した。口ごもったまま所在なくなった飛季は、コーヒーを作って飲む。
実摘はがつがつと弁当を食していく。その食べ方は幼児っぽく、視覚に気持ちのよいものではなかった。
弁当箱はすぐからになった。実摘はひと息ついた。物足りなさそうだ。
「まだ食べたい?」
実摘は「喉が乾いた」と言った。確か彼女は、コーヒーは飲めない。スープはあると言ってみると、冷たいものがいいと返ってきた。しょうがないなと飛季はデイパックを取る。財布を探り、金を実摘に渡した。実摘はまじろぐ。
「一階の自販機で、好きなもの買ってきていいよ」
「僕、お金あるよ」
「いいよ」と小銭を手に包ませると、実摘は素直に受け取った。リュックを抱えて立ち上がると、とことこと玄関に行く。
部屋を出ていった彼女に、飛季は息をついた。実摘が戻ってくるかどうか分からない。あの子なら、飲み物を買ったら、その足でマンションを出ていく可能性もある。念のため、鍵をかけておいた。
【第十二章へ】