陽炎の柩-15

存在した痕

 飛季の鬱々とした心を壊したのは、ドアへの渾身の蹴りだった。
 そのとき、飛季は精神安定の妄想を終え、ぐったりしていた。動けずにいると、再び蹴る音が聞こえる。のろのろと立ち上がった。視界には波紋が広がり、蹌踉としていた。
 どんどんとたたく音がして、蹴りも入り混じる。こめかみを抑えて鍵を開けた。
 ドアを押すと、その隙間にぬっと首がはさまってくる。目をみはった。
 実摘だった。
「実摘──」
 実摘は飛季を見上げ、「ただいま」と普通に言った。飛季の中にまとめきれないものが湧く。息をつき、「おかえり」と返す。
 実摘は部屋に入ると、きょときょとした。どうしたかを問うと、実摘は飛季の目を覗いた。
「生臭いよ」
「え」
「血がいっぱい」
 飛季はここ数日、人を殺し続けていたのを思った。恥ずかしくなる。自分は、この子の不在にあんなに精神を保てなくなった。
「いつもと違うよ。飛季の血の匂いもしてるよ」
「俺」
「痛かったの」
 実摘は、飛季の胸元に手を当てた。「どくどく」とつぶやいた彼女に、飛季は口ごもって頬に微熱をさした。
「血が出てるの。飛季の血、人を殺すよ。痛い痛い」
 飛季は実摘の頭を撫で、丁重に、その手を左胸の上から離させた。
 実摘は背負うリュックの肩紐を握る。むずがゆそうに身動ぎして、部屋を見まわす。
「どうかした」
「お風呂」
「風呂」
「入りたい」
「お湯、張ってないよ」
「シャワーでいいの」
 シャワーぐらい、貸してもどうということはない。飛季は実摘をバスルームに連れていった。実摘はめずらしそうに、ぺたぺたと壁をたたいている。
 バスルームの中に招くと、温度の変え方などの使い方を説明した。実摘が納得すると、飛季はバスルームを出ていこうとする。その飛季の背中に、実摘は貼りついてきた。
 飛季は振り返る。
「何」
「一緒」
「え」
「一緒に入る」
 まごついた。この子は、また何を言い出すのだ。
「俺は、その、あとで」
「入るの」
「狭いし」
「入る」
 実摘は飛季の腰に腕をまわし、スラックスの前開きを開けた。焦って、実摘を振りほどく。ずりおちそうになったスラックスをつかむ。
「ここで待ってるよ」
「嫌」
「実摘」
「一緒に入るの。決まってるの」
 決まってる、と言われても。飛季がどう断っても、実摘は引かなかった。
 飛季は実摘の頑固さに息をつき、その軆を見ないことを内心で誓うと、仕方なく承諾した。実摘は満足そうに飛季の軆を開放した。
 実摘はリュックを洗濯機の脇に置き、尻込みせずに脱衣していく。のろのろとシャツのボタンを外す飛季は、実摘の軆にはっとする。
 実摘の白い肌は、すっかり青や赤が混じりあって、痣まみれになっていた。口づけの痕だけではない。明らかに殴られた痕もある。
 懸念の目を向けると、実摘は止まっている飛季の手を取り、代わりにボタンを外す。
「また、来たの」
「え」
「僕から離れてる、僕」
 実摘は、飛季の胸をはだけさせる。それで、殴られたのか。誰に? やはり『客』のような男だろうか。
「みんなね、怒るよ。飛季は怒らなかった」
 実摘は飛季の胸に頬を当てた。細い指が胸を這った。
「変わってるね」
 彼女は軆を離して、飛季の上半身をはだかにした。シャツを腕にかけて、実摘は飛季をしげしげと眺める。何だか、妙に恥ずかしくなる。
「綺麗」
「え」
「飛季」
「え、あ、……そう」
 決まり悪くて、素直に受け取れなかった。実摘の手は、飛季の肌をさする。
「自分が綺麗なの、分かってる?」
「………、不細工とは、思ってないけど」
「自信、ある?」
「性格は暗いし」
 実摘はこっくりとした。ここで肯定されるのは複雑でも、どのみち否定してもらっても信じられない。
 実摘は、飛季の下半身も露出させた。股間もじろじろ見た。それはさすがに耐えられず、さっさとバスルームに行くのをうながす。実摘は肩を押されて、タイルを踏む。
 手のひらにざらつきが触れて、秘かに息を飲む。あの傷だ。治りそうで治っておらず、その裂け目は実摘の肌で威張っている。
 バスルームは、ふたりで入ると窮屈だった。ひとりがバスタブに浸かっていればそうでもなさそうだが、湯は張っていない。ふたりして流し場にいることになる。逆に汗をかきそうだ。
 飛季は空のバスタブにシャワーを出す。実摘は飛季の背中にくっつく。
 密着して、彼女の肌が精液で匂い立っているのに気づいた。殴られたとなると、誰かといたということになる。その相手と、実摘は交わってもいたのだろう。
 水が湯になるのを待ち、ぼんやり彼女を犯した日を想う。飛季には彼女を抱いたのは大事件だった。意識過剰になって吹聴されるのを恐れた。けれど、冷静に考える。実摘には飛季との情交など、ほかの男とのそれに紛れてしまうものだったのではないか。
 脇腹に実摘の頭が生えてくる。飛季は我に返った。シャワーは湯気を立てていた。
「強姦の匂いがするよ」
「えっ」
「強姦。するの」
 実摘は飛季の手をつかみ、みずからの性器に導いた。中に出されたのだろうか、精液はそこで乾燥して、ごわついていた。飛季は手を引っこめ、シャワーヘッドを持ち直す。
「飛季、血の匂いがするの。僕、精液でしょ。僕が犯されて、飛季の心は血になってるよ」
「実摘、」
「血が止まってないよ。痛いの」
 実摘は、飛季の軆と軆を向かい合わせた。腰をよじって、飛季の性器を自分の脚のあいだにおさめる。実摘が腰を揺すると、飛季の性器が、彼女の内腿にこすれる。
 引こうとした腰を、実摘は抱きこんだ。彼女は非力で、押しのけようと思えばできたのに、できなかった。熱された血が、股間に集まっていく。
「熱いよ」
 実摘は咲った。
「こっちに血が来てるの」
 飛季の肌に、実摘の愛液がそっとしたたる。
「いいよ」
 実摘はシャワーヘッドを取り上げ、バスタブに放り投げた。さいわい、飛沫はこちらには上がってこない。
「していいよ」
「実摘──」
「飛季、痛いの。僕としたら治るの」
 実摘は背伸びして、飛季の首に腕をまわした。腰をかがめるかたちになった飛季を壁に押しつけ、そのまま口づけてくる。背中にタイルの冷たさが伝わる。
 実摘の口づけは強かった。唇をつぶして、舌を絡める。息苦しくなりそうな口づけだ。彼女の性器は、熱を冷まさず濡れている。飛季も充血し、つらぬける強度になっていく。実摘の頬は桃色にほてり、腰はうねって飛季をいたぶる。
 その媚態に、飛季の中で誓いを破る欲望が湧く。実摘の肌や柔らかい腿に、理性が無力化されていく。実摘と軆を離そうと思っても、そうしようとする手を動かせない。むしろきつく抱きすくめ、タイルに組み敷きたいという渇望があふれる。
 ふと、唇に隙間ができた。
「飛季」
「……え」
「僕ね、見えるんだよ。飛季は、血でいっぱいだって」
 瞳が絡む。実摘はささやいた。
「仮面、いらないよ」
 飛季は息を詰めた。仮面はいらない。そうだ。どうせつけたって、この子は──
 解した途端、飛季は実摘を抱きしめていた。口づけた。実摘は応える。飛季は彼女の口の中を探って、唾液をすすりあげた。
 タイルに崩れ落ち、飛季は実摘をタイルに寝かせる。「床、冷たい」と彼女は目をつぶった。飛季は実摘の軆に肌を当て、体温で温める。
 実摘は、飛季の唇を欲しがった。それに応えて、生々しく口づけあう。そうしながら、飛季は実摘の性器に触れた。指先が核をかすると、実摘は喉で弱くうめく。
 実摘の痣だらけの全身に口づけていく。実摘の深い息遣いが、シャワーの湯気が立ちこめるバスルームに響き渡る。肺を広げたその呼吸は、卑猥だった。
 実摘は飛季の腰を引き寄せ、肩に優しく歯を立てる。背筋がぞくりと甘く痺れる。もうこらえきれず、飛季は実摘の脚を持ち上げ、彼女に挿入した。
 腰を使いながらも、バカみたいに夢中になってしまうのはこらえ、奥を突く。実摘の揺らめく声や息が、聴覚を淫靡に刺激した。すっかり埋めこんだもので、繰り返し攻め上げると、実摘は濡れた声で喘ぎ、全身を切なく震わせた。
 初めて抱いた日と較べて、反応が抑えられていた。そのぶん、高まった快感が滲み出ていて、煽られる。ふたりの乱れた呼吸が反響する。軆が熱くなって、全身が搏動した。脈打つ欲望を強く刺した瞬間、実摘が声を上げて痙攣した。同時に締め上げられて、飛季も意識が飛びそうな絶頂に襲われた。
 苦しい呼吸が、鼓動に追いつけず駆け巡る。上下する肩以外、動けなかった。熱や息が落ち着くまで、実摘と重なりあっていた。シャワーの水音が脳をじかに抜けていって、ちょっと耳障りだった。
 先に動いたのは飛季だった。室内は熱気に湿って曇っていた。汗が流れていく。飛季はくらむ頭を揺すぶり、腫れぼったい思考を奮わせた。
 実摘を抱き起こし、彼女の軆を洗ってやる。実摘は途中で目を覚ましたものの、されるままになっていた。手持ち無沙汰に、飛季の脚を撫でたり、顔を観察したりする。そうして彼女が綺麗になると、飛季は自分の軆も流す。
 実摘を抱き上げて、バスルームを出る。実摘は飛季に手足をまとわせてしがみついた。バスタオルで包んだ軆を丁寧に拭いてやる。着せる服がないのに気づき、実摘を連れて部屋に行こうとすると、実摘はリュックを指さした。飛季はそれを持ち、実摘を部屋に連れていった。
 ベッドサイドに座らせた全裸の実摘は、シーツに転がってまくらに鼻を埋めている。
 飛季は手早く自分の服を着た。実摘に貸す服を選ぼうとして、洗濯してやった服があるのを思い出す。実摘にそれを渡しにいくと、彼女はベッドにうつぶせになって静止していた。
「実摘」
 飛季の呼びかけに、もそっと首が曲がる。
「服」
 実摘はうなずいたが、受け取ろうとはしない。
 飛季は服を抱え直し、彼女の軆をぼうっと眺める。長い脚、白い双丘、細い腰や華奢な軆をたどる。背中には痣が点在している。飛季の視線は、彼女の左肩で止まる。肩甲骨へと伸びる、あの大きな裂傷に。
 実摘が顔を上げた。目がぶつかる。凝視していたのが恥ずかしくなる。実摘は首を垂らす。張りつめた沈黙ののち、彼女は息を吐いた。
「この傷ね」
 飛季は抱える服を握る。
「僕の存在だったの」
「存……在」
「うん。これだけだったの。軆にあるのは」
 よく分からずにいると、実摘の肩が小刻みに震えた。思わず構えた。人格が変わると思ったのだ。
 が、彼女は暴れ出さなかった。代わりに嗚咽をもらしはじめた。鼻をすする音にはっとした飛季は、ベッドサイドにひざまずく。服はかたわらに置いて、彼女に声をかけた。実摘はうめいたが、言葉の反応はよこさない。
 あの破裂したような慟哭の影はなかった。溜めこんだ感情をこぼす、弱々しいすすり泣きだ。
 飛季は彼女の頭を愛撫した。実摘は喉で唸った。拒否の含みはなく、飛季の彼女の髪を梳く。
 実摘はこちらを一瞥した。見つめ返す。実摘は濡れた睫毛をしばたかせ、涙を流した。
「飛季」
「うん」
「来て」
「え」
「ここ」
 実摘は、ベッドの余白をしめした。迷ったけれど、素直にベッドに乗る。ふたりぶんの重みに、ベッドがきしむ。飛季の軆に身を寄せた実摘は、安らかそうに細目になった。
 飛季は彼女にブランケットをかけてやり、柔らかい髪をさする。実摘は飛季の胸にもぐる。彼女の息遣いが飛季の肌を温める。飛季は実摘の幼い軆を腕で包みこんだ。
 やがて彼女が眠りこんでしまうと、愛撫の手を止めた。すっぽりと腕に収まる実摘の感触は、飛季にも安堵をもたらした。
 実摘を覗きこむ。頬には涙が残っており、まぶたは腫れていた。飛季は実摘を抱きしめなおす。
 この傷は存在だった──彼女の涙は、その告白によって生まれたのだろう。飛季にはよく分からなくとも、彼女には記憶をこじあける忌まわしい言葉だったのだ。
 存在「だった」。過去形だ。たとえば、彼女は自分はいないと言う。あるいはこの傷を境界線にして、実摘は自律を失ったのか。分裂した性格も遊離した空気も、この傷が引き金になったのか。
 飛季は、そっと肩の傷に指を這わせた。かさぶたががさついた。実摘が儚いのは、これが彼女の存在の傷口で、ここから血と共に存在が流れ出たせいなのだろうか。
 いったい、誰がこんな傷をつけたのだろう。他者がつけたのは間違いない。その人間が、実摘をここまで貶めた。実摘は粉砕されている。何をされたのか、飛季には見当もつかない。実際に存在感を薄めてしまうほど、潜在的で暗示的な迫害だったのだ。それほどの虐待とは、何だろう。
 実摘は心地よさそうに眠っている。ふと胸が痛んだ。この子は、この部屋では安息している。そうやって眠れるのは、もしかすると、彼女には初めてなのかもしれない。

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