彼女の行き先
相変わらず、実摘は飛季の部屋にいる。彼女のすがたは徐々に部屋になじみ、他者は許さなかった飛季の聖域は、実摘ならしっくり許すようになっていた。
ベッドサイドや窓辺でぼうっとする実摘は、何時間もそこを動かない。ときどき独特な内容の話はしても、基本的に口もきかない。うつむいたり天井を眺めたり、何にもない壁を睨んだりする。
澱む瞳には、空間がただよっていた。性格が立ち替わりもした。気違いの笑いにはめまいがして、悲鳴には鼓膜を裂かれる。
壮絶な罵倒もされた。飛季はそこに切れた糸を感じて、やり返すことができなかった。
おとなしいときの実摘は、例の毛布と戯れていた。胸に抱いたり膝にかけたりして、話しかけたり撫でたりしている。相手がぬいぐるみならぎりぎり絵になっても、彼女の場合は毛布だ。顔も立体もない、ただの布だ。それに熱心に話しかけるさまは、異様だった。
カレンダーは、六月に突入しようとしていた。晴天の週末、飛季は実摘と過ごしていた。
飛季は、梅雨が来る前に、毛布を干してやったらどうかと実摘に提案した。考えこんだ実摘は、抱いている毛布に干すか否かを訊いた。黙然としたあと、「干してもいいって」と実摘は返してきた。肩をすくめた飛季は、実摘をベランダに案内した。
晴れていても、外に出ると風があった。実摘は、毛布をかける手すりを、着ている飛季の服で遠慮なくごしごし拭いた。そして、毛布を広げ、そこにかける。陽に当たる毛布を眺め、実摘は嬉しそうに表面をとんとんとたたいた。
飛季は、風にそなえてふとんばさみを彼女に渡した。実摘は嫌がった。
「今日、風あるよ」
「痛いよ」
「痛い、って」
「痛いのはダメなの」
「飛ばされるよ」
「にらに嫌われるもん」
にら、というのは、その毛布の名前らしかった。やはり、野菜の韮から来ているのだろうか。
押し問答を続けていると、不意に突風が吹きつけた。実摘は目をつぶって身をすくめる。飛季もとっさに顔をかばった。
次の瞬間、実摘が悲鳴をあげた。見ると、毛布が向こう側に舞いあがろうとしている。実摘は身投げしそうに乗り出した。しかし指先は届かず、飛季が慌てて毛布をつかむ。
何とか、毛布は飛ばされずにすんだ。実摘はほっと息をついている。飛季は毛布を彼女にさしだして謝った。彼女は首をかしげる。
「触ったから」
実摘は睫毛をぱちぱちとさせて、毛布を受け取る。
「いいよ」
「え」
「飛季、助けてくれたの。ありがとう」
思わず拍子抜けした。そこまで偏屈ではなかったか、とつい彼女を見直してしまう。
しかし、実摘はさすがに、毛布を干すことはもう嫌がった。代わりに、レースカーテンも開けた窓辺に毛布を広げる。ガラス越しに陽光を当てる策だ。
実摘は毛布のそばにしゃがみ、その裾を撫でる。飛季は彼女の横顔を見た。毛布相手だと、実摘の瞳はきらきらしている。毛布は、実摘の愛を独占していた。
もうひとつ、実摘について知ったことは、彼女の生理が不順なことだ。月に一度だけ来るはずのものだが、かなり断続的に出血している。実摘は気に留めていないようだったが、軆の異常ではないかと飛季は心配だった。
そんな毎日が続いた。無論、実摘は常に飛季の部屋にいるわけではない。ふらふらと出かけ、数日ここで休養すると、また出かけていく。
どこに行っているのかは分からなかった。ただ、彼女には軆じゅうにセックスの名残があった。数え切れない痣、内腿の精液、頬のほてりがあるときもある。
彼女がほかの男と絡みあうのが、飛季は複雑だった。誘ってくる実摘を、飛季はさりげなく断る。ほかの男に犯された彼女を抱く気にはなれなかった。
一回、実摘に訊いた。ここに来ないとき、どこに行っているのかと。ゾンビ映画を観ていた実摘は、飛季を仰いできた。見つめあった。彼女は答えずに、画面に目を戻した。
踏みこんだ質問だったかと飛季はやや後悔し、結局、突きつめずに仕事に逃げた。実摘はゾンビの食事に窃笑していた。
それからしばらく経った日、「おでかけしよう」と実摘に誘われた。土曜日の夜、夕食時だった。白米だけ炊いて、あとは惣菜をおかずにしていた。
発泡スチロールに盛られたままの煮魚を食べていた飛季は「おでかけ」と復唱する。うなずいた実摘は、今日で滞在三日目だ。おそらく、今日の夜か明日にはいなくなる。
「こないだ、飛季訊いたでしょ。僕がどこに行ってるかって」
「え、まあ」
「そこにね、おでかけするの」
飛季は手を止めた。実摘は楽しげに咲う。
「連れていってあげる」
「え……」
「知りたいでしょ。一緒に行くの」
飛季はいまだに、彼女が出かける場所に予想もついていない。ただ、間違いなくいかがわしい場所だ。
「どういう、ところ?」
「言えないから行くの」
「変なところには行けないよ」
「何で」
飛季が口ごもると、実摘は割り箸で魚の目をつぶした。
「大丈夫だよ。どうせ正体明かさないもん」
「人はいる?」
「いるよ」
「……もし、知り合いとか……教えてた生徒とかいたら、」
「いても平気なの。勝手に昼間のことをばらしたりするのは、ダメってなってるの」
実摘は、断る隙を与えない。「おでかけおでかけ」と単調に繰り返し、魚と白米を食べる。
飛季にも好奇心はあったが、やはり身の安全のために断りたかった。だが、実摘がそうはさせず、夕食を済まして食器も片づけた飛季を引っ張り、結局ふたりでマンションを出た。実摘と並んで歩きながら、飛季は気まずく顔を伏せていた。
駅前に出た実摘は、ロータリーを横切り、その裏手にある地区に進んだ。その街は飛季も知っていた。天鈴町。治安の悪い日陰者の巣窟だ。飛季は慣れていない肌触りの空気を、実摘は平然と縫っていく。混み合う堅気ではない人種に、飛季は何だか吐き気がしてきた。
実摘が向かったのは、風俗店やホテル街でなく、騒がしく音楽が入り混じる通りだった。狂おしいネオンが夜を殺している。髪を染めたり、タトゥーやピアスを入れたりした、素行の悪そうな少年少女とすれちがう。やり場のない視線を落とすと、フライヤーやビニールぶくろが落ちていた。
不意に実摘は軌道を変え、けばけばしい看板がある雑居ビルに踏みこんだ。看板には“LIVE HOUSE”や“MUSIC BAR”といった字がある。実摘はエレベーター奥の地下につながる階段を降りていき、飛季はおそるおそるついていった。鼓膜でなく全身に響くような、大音量の音楽が聴こえてくる。
「あのね」
実摘が振り返る。彼女の動作がいつになくきびきびと感じられるのは、飛季の不安のためだろうか。
「本名は面倒だよ」
「え」
「偽名がいいよ。僕はミミ」
「ミミ」
「自分で適当な名前考えて」
「え、いや、でも」
急に言われても、偽名なんて思いつかない。階段が終わって、煤けた廊下へと進む。
そこにある光景に、飛季はまごついた。何組も男女が壁にもたれて重なり、口づけを交わしたり、腰をこすりつけあったりしていた。
両開きのドアの前に着いた。飛季は使う機会があるのかも分からない偽名を考えていた。実摘が飛季を覗きこんでくる。
「じゃあね、ロウ」
「は?」
「名前。ロウ」
意味を訊く前に、実摘は両手でドアを開けた。飛季もすくみそうになりながら足を踏み入れる。
真っ先に、きついクーラーにも負けない熱気が肌にまといついた。音楽のボリュームがありすぎて、逆に聞き取ることができない。その上、叫んだり笑ったり歌ったり、喧騒が立ちこめて聴覚がどうにかなりそうだ。
汗や香水、酒の匂いがする。落とされた照明で、かなり視界が悪い。カウンターで入場料金を出し、五感が慣れてくると、壁や床を疾走する光の下で、人間がうごめいているのが分かった。
実摘を向く。実摘は瞳を分裂させ、飛季を置き去りにして人混みに混ざろうとしていた。不安に駆られて、呼び止めようとする。しかし、毛深い男の腕がぬっと現れ、実摘の肩を奪った。追いかけて奪い返す勇気もなく、飛季はカウンターに取り残される。
「ねえ、ジンソーダ!」
キャミソールワンピースの少女が、ドリンクチケットをかざしながら、カウンターに声を上げる。飛季は初めて、自分がその場で邪魔になっていることに気づき、慌てて壁際へと引いた。
壁も空気も、音楽で振動していた。話し声や笑い声に混じり、どこかで喘ぎ声もしている。暗がりの中で、ビニールぶくろを吸ったり葉巻をふかす者もいた。
飛季はしばらくたたずんでいた。衝撃が去ると、急に恐怖が湧いてきた。ここは自分のいる場所ではない。実摘を想って、彼女に会いたくなった。けれど、今頃実摘は、あの毛深い腕に抱かれているのか。
冗談抜きで泣きたくなった。壁に預けた背中を浮かせ、とりあえず、帰ろうと思った。体重も足に返した。帰り道を憶えていないが、駅前に出れば何とかなる。
飛季は出入り口へと歩き出した。
そのときだった。
【第十七章へ】