陽炎の柩-17

路地裏で

「ちょっと待ってっ」
 飛季は肩を揺らした。自分への呼びかけか──いや、違う。勝手にそう決めて、両開きのドアを開けようとした。すると、腕までつかまれてしまう。
「待ってよ。もう帰っちゃうの?」
 知らない、女の子の声だ。この場所で、そう露骨に拒否する度胸を持てなかった。こわごわと振り向くと、そこには大きな瞳をした少女がいた。
「来たの、今さっきじゃん。ドリンクも飲んでないし」
 くるくるした瞳に飛季が映る。二重まぶたと快活に笑む口元。さらさらした茶髪は肩くらいの長さで、肌は健康的に瑞々しい。しなやかな軆つきで、身長は飛季の顎の高さくらいだ。
 実摘とは別種の美少女だった。実摘は愁いを含んだ内向的な美少女だが、彼女は野性的で外交的な魅力を持っていた。
 彼女は飛季の腕にかけた手を離す。飛季と目を合わせると、にこっとした。そんなにあけすけに笑顔を贈られたのは初めてだ。
「帰っちゃうの?」
「まあ」
「もったいないなあ。それで一杯ぐらい飲んでいけば?」
 彼女は飛季の手の中のドリンクチケットをしめす。もしかしたら、スタッフだろうか。「いらないので」と渡そうとすると、「そう言って声かけたら、」と彼女はにっこりとする。
「おにいさんについてく女の子、いっぱいいるよ」
 自分はそんな目的で来たわけではない。と言って信じてもらえるか分からないし、どうすればいいのか困っていると、彼女はおかしそうに咲った。
「ごめん。つまり、ここを出たいんだね」
 彼女は、飛季の腕に自分の腕を絡める。
「あたしも一緒していい?」
「えっ」
「どっちにしろ、ひとりで出たら廊下でカモになるよ」
 彼女は、くるくるした瞳に飛季をつかむ。彼女がやはりスタッフでなく、飛季に興味を持っている女であることは察せた。それに応えるかは分からなかったが、悩んだ挙句、安全にこの場所を脱出したいという当面の目的のためにうなずいた。
 飛季は彼女と廊下に出た。あぶれている女に、飛季は確かに一瞥された。しかし、彼女が腕に絡まるおかげなのか、いかがわしい声がかかることはなかった。
 無事地上に脱出すると、ほっと息が楽になる。大音量の音楽や熱気、混雑する匂いが残像している。すごい場所だったな、と内心で世間知らずの本音がもれる。
 実摘がよぎり、階段をかえりみた。置いていったことにはならないだろう。先に飛季を置き去りにしたのは、実摘のほうだ。
「まだいたかった?」
 彼女の問いに、飛季は首を横に振って、ビルも出た。相変わらずけばけばしく光る看板のかたわらで、彼女は飛季の腕に絡めた腕を離す。
「あたし、柚葉ゆずは
「は?」
「『は?』じゃないよ。名前。おにいさんは?」
 名前。ユズハ。
 変わった名前、と思って、偽名かと思い直す。
「俺は──」
 本名を教えかけて、実摘の忠告が思い返る。
「俺は──その、ロウ……かな」
「ふうん」と柚葉は舌にその名前を転がす。
「知らないや。あの店、来たことなかったよね」
「あ、まあ」
「そうだよね。おにいさんの顔、綺麗で目立つもん。来てたら絶対目にとまってる」
 飛季はうつむいた。どうしても、褒められるのには慣れない。飛季の様子に、彼女はくすくす笑う。
「ほかにもロウを狙ってる子、いたよ。どうやって出し抜こうか考えてたら、帰ろうとするんだもん。こんなかっこ悪い誘い方、初めてだよ」
「はあ」と飛季は間の抜けた返事しかできない。出し抜くとか誘うとか、飛季には縁遠い話だ。柚葉は飛季を見つめ、腕組みをした。
「ロウ、ミミと来てたね」
 ミミ。誰、と首をかしげそうになったが、実摘の偽名だ。
「知り合いなの?」
「知り合い、というか。ただの顔見知りかな」
「よく知らないんだ」
「君はあの子のこと知ってる?」
「うわさなら。直接の知り合いじゃないよ」
 そのとき、一組の男と女がいちゃつきながらビルを出てくる。飛季は後退った。それを引き止めるように、腕に柚葉のすらりとした腕が再び絡みつき、飛季は彼女を見る。
「帰るってことは、用事あるの?」
「え、いや」
「ヒマなんだ?」
「まあ」
 嘘をついたほうがよかったかと先行きを案じた。彼女の瞳はしっとり湿っている。
「あの、俺──」
「ヒマなんでしょ」
「ヒマ、というか」
 柚葉は、飛季の正面に来て咲った。
「あたし、おにいさんを知りたい」
 飛季はうつむいた。どう答えればいいのか分からなかった。
 彼女と寝るのか? 命令なら、従える。選択だったら、分からない。欲求は、ない。
 少なくとも、実摘に対するあの忘我状態にはなっていない。しかし、彼女は自分を欲しがっている。一応、あの状況から助けてくれた恩はある。自分はここには二度と来ない。後腐れもないだろう──そこまで考えて、飛季はようやく一夜の関係を承諾した。柚葉は一笑した。
 連れていかれたのは、彼女の部屋でもホテルでもなく、路地裏だった。建物と建物のあいだ、二メートルもない狭い通路だ。「あたしは、こういうとこで済ますの」と彼女は苔を踏み荒らして奥に進む。
「ホテルとか行って、お金入ると鬱陶しいし」
 そこは同感だった。空気はひんやりとしていた。注射器と空のミネラルウォーターのペットボトルが地面に転がっている。柚葉はそれを蹴って壁際にやると、立ち止まった。
 飛季も足を止めると、柚葉は軆ごと振り返った。ついで飛季を壁に倒し、背伸びして口づけてくる。柚葉の口づけは、濃厚だったが、貪欲ではなかった。実摘のように、貪るような感じはない──
 ふと飛季は、柚葉が背にするカビの生えた壁を見やった。何だか、実摘と彼女を比較してばかりだ。今、一緒にいるのは柚葉だ。実摘は関係ない。
 飛季は、柚葉に応えた。口づけあう水音が激しくなる。柚葉の手が飛季の軆を這って、服の中にもぐりこんできた。彼女は指先で飛季の軆をたどり、息苦しいほどだった唇を離した。
 飛季の開襟シャツのボタンを、柚葉はするすると外していく。飛季の胸をはだけさせた柚葉は、満足そうな笑みを浮かべた。
「思ってたの」
 柚葉は、ミニスカートの腰を押しつけてくる。布越しに性器が触れあう。
「いやらしい軆してるんじゃないかって」
「え」
「当たった。すごくやらしい。そそる。筋肉あるんだね、けっこう」
「はあ」
「ひけらかす奴はうざいだけど。ロウ、ぜんぜん分かってない。いい」
 柚葉は飛季に短く口づける。瞳が絡む。
「好みなの。そういう、やばい目してる人」
 再び口づけあい、お互いの軆をまさぐった。動きのたびに地面の苔がぬめる。
 飛季の勃起を感知すると、柚葉は手のひらで飛季の性器をさすった。飛季は息を詰める。柚葉は飛季のジッパーをおろして性器をあらわにした。彼女は自分のポケットを探り、コンドームを取り出す。
「今、片道切符だからね」
「何か、病気……」
「あたしはクリーンだよ。そっちは怪しい」
「俺は、」
「どうせ、ミミとやってんでしょ。あたし、あの子と寝た人は信用しないの」
 熱の最中で、飛季は血の気が引いた。
 病気。考えていなかった。実摘が何か病気を持っていたら。うつっていたら。ちっとも頭に浮かばなかった。実摘はおそらく、この街でめちゃくちゃに性交渉をはかっている。何かに感染していないほうがおかしい──
 柚葉は飛季にコンドームをかぶせ、その上から口で愛撫した。途端、走った快感が焦った懸念も奪い、飛季はうめいた。柚葉は飛季をじゅうぶん成長させると、立ち上がって背を向け、自分の脚のあいだに導く。飛季は誘われるまま、彼女のスカートをたくしあげて、後ろから挿入した。
 柚葉は、艶やかな息を吐いた。具合を窺って止まる飛季に、「いいよ」と彼女は腰を突き出して、揺すってみせる。そのうねった瞬間の刺激に、飛季も腰を動かしはじめた。柚葉は激しい声はこらえ、息遣いの中で喘いだ。彼女の湿った奥を突きながら、飛季は揺れる乳房もつかみ、敏感にとがった乳首を指先でこする。
 ふたりの軆が熱を帯び、汗が流れていく。柚葉は壁に手をついて、脚を広げて、飛季をさらに奥まで招いた。飛季はその腰をつかみ、動きも突き裂くように野蛮になっていく。彼女の快感がしたたって、動くほどにつながっている音が濡れる。
 ほてる軆で糸をたぐり、極まったとき、飛季は彼女の体内で射精した。柚葉も飛季の腕の中で痙攣した。狭い壁に呼吸を反響させつつ、飛季は柚葉と軆を離す。
 柚葉は膝に力が入らなかったのか、その場に崩れかけて、慌てて飛季は抱きとめた。柚葉は飛季の胸に倒れこむ。彼女の搏動が、肌に伝わってくる。柚葉はしばし動かなかったが、思ったより早く身を起こした。
 目が合うと、柚葉は軽く咲った。彼女はかかとに絡みついていた下着を身に着け、飛季もみずからを片づける。精液が溜まったコンドームを指にぶらさげてしまうと、「そのへんに捨てなよ」と言われ、注射器のあたりに投げ捨てた。彼女は、はだけている飛季の胸をボタンで隠していく。
「このへんに来たの、初めてなんだよね」
「あ、ああ」
「また来る?」
「え」
「来る気、ない?」
「………、さあ」
 意地悪ではなく、本当に分からない。飛季に来る気はない。しかし、実摘に引っ張られてくる可能性はある。
「あたし、だいたい毎日このへんに来てるんだ。また来て、また逢えたら、憶えててくれる?」
 第二ボタンまで留めると、柚葉は手を引いた。飛季は彼女を見つめる。彼女ははにかんだ。
「まわりくどいね。何か──ロウの軆、気に入っちゃった。忘れないでほしいの。誰にでも言うんじゃないよ、こんなの」
 照れ咲いした柚葉は、背伸びして飛季に唇をぶつけた。応える隙もなく顔を離した彼女は、「じゃあね」と歩き出す。飛季は彼女を見送る。彼女の唇の弾力が消えない。柚葉は通りに出ると、振り返らずに去ってしまった。
 飛季は壁にもたれた。こちらは、柚葉を抱いたことに大した理由はない。彼女との情事を思い出すと、なぜか罪悪感と羞恥が芽生えた。こんなのは、実摘とのセックスにはなかったのに。
 実摘。今、どうしているのだろう。会いたかった。実摘との白光に飲まれるような心地よい情交が、無性に恋しかった。

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