血を流す夢
自分に閉じこもって仕事に取り組んでいた飛季だったが、飯が炊けた電子音で我に返った。
黙々と夕食の用意をした。ハンバーグは電子レンジで温めた。飯をよそい、実摘は食べるだろうかと彼女を振り返る。
実摘はこちらを見開いた目で凝視していた。その眼つきにひるみつつ、夕食を食べるかを問う。実摘はうなずいた。飛季は、彼女のぶんの白米も予備の茶碗に盛る。
実摘は腰に毛布をかぶせ、四つんばいでやってきた。「ごはんだよ」と言っている。飛季でなく、毛布に言ったようだ。飛季はハンバーグのソースが垂れるかもしれないと言い、毛布は脇に置いておくのを勧めた。実摘はこくんとして、たたんだ毛布を背後に優しく寝かせた。
夕食を始めて、ハンバーグを箸で切り分け、飛季は実摘の背後を盗み見る。毛布がいる。過剰に大切にされているのを見せつけられ、飛季にもあの毛布には五感や意思があるように感じられてきていた。気味の悪い錯覚だった。
「あの毛布」と何気なく口にする。ハンバーグを頬張っていた実摘は上目をし、口の中を飲みこむ。
「にら」
冷静な彼女に内心ほっとして、飛季はうなずく。
「それ、名前だよね」
「うん」
「何で“にら”なんだろうって思ってたんだけど」
「緑だから」
ねぎは、と低レベルな異論が心に浮かんだ。いや、ねぎには白ねぎもある。しかし、食卓を見下ろすと、ハンバーグの添え物にいんげんがあった。緑のものなんて、この世にたくさんある。
「あと、嫌いだから」
「嫌い」
「僕は食べれるよ。なのに、嫌いなの。でも、これ、内緒」
「はあ」
実摘のちぐはぐな話し方には、飛季はいまだに鼻白んでしまう。
「それ、大切なんだね」
実摘は飛季を睨みつけた。
「それじゃないよ。にらだよ」
「………、にら、大切なんだ」
実摘は表情をやわらげる。過保護だな、とずれた感想が浮かんだ。
「ずっとね、いつも一緒なの。死ぬのも一緒。にらの中で腐るの。約束してるの」
「腐る」
「うん」
「何でそんなに大事なの」
「僕のだから」
とっさに理解できなかった。僕のだから。自分のものであったら、猫かわいがりして庇護するのか。にしては、リュックなどへの態度は完全に物あつかいだ。あんな異常な反応は、毛布相手に限られている。
比重が違うのだ。彼女の毛布への執着は、病的でかわいげもない。必死に崇めている。なぜそんなに大事なのか──僕のだから。
飛季は推考を放棄した。納得したふりをして、食事に徹する。飛季が話しかけなくなると、実摘も食事に専念した。
食事が終わると、実摘はホラーを観はじめた。相変わらず例のゾンビものだ。何度も観て飽きないのだろうか。
飛季は無言で食器を洗った。使わない脳で実摘や柚葉を沈思し、現実をかけはなれた。後ろでは、実摘が惨劇の悲鳴にはしゃいでいる。
それからも、飛季は実摘が絡みつく生活を過ごした。彼女といる時間は確実に増し、記憶はほとんど実摘に埋めつくされた。家庭教師をしているあいだのことが記憶にない。周囲からの苦情はないので、外面では変わりないのだろうが、内面では安定がなかった。
実摘は、ずいぶん飛季の部屋で時間を割くようになった。冷蔵庫には実摘の飲み物が並び、日用品も揃ってきた。この子は出ていって、前触れなく二度と来なくなる子だ。そう思っても、飛季は実摘のものを買ってきてしまう。
実摘は自分のものが増えるのをかなり喜んだ。その喜びはやや奇異だった。帰宅すると、実摘はカップや歯ブラシを床に並べ、うっとりしていたりする。実摘は “僕のもの”が大好きだった。
ぼうっとするのに挟み、気分の上下もあった。彼女は一日じゅう部屋の隅にうずくまって泣き続けたり、暴れてわめいて飛季を痛罵したりする。それに対しては、なだめたりやすんじたりするのを努めるようになってきた。実際、実摘は飛季の腕に収まると目をつぶり、ぐずりながらも落ち着いた。
実摘は鏡を怖がった。鏡の前に来ると畏縮し、露骨に顔を背けて逃げ出す。歯を磨くときは、わざわざしゃがんで磨く。隣で歯を磨いていた飛季は、理由を問うてみた。実摘は自分の顔が怖いと答えた。「僕の顔は呪われてる」と。
歯ブラシをくわえる飛季は、その意味が分からなかった。飛季も鏡は嫌いだったが、彼女ほど深刻ではない。
その日、実摘はシャワーを浴びていた。バスルームにも鏡はある。絶対に見ないようにしていたはずなのに、その日彼女は、何かの拍子で、どうやら視界に鏡を入れてしまった。
反応は凄まじかった。悲鳴に飛季が駆けつけると、実摘は床に倒れて泡を吹き、びくんびくんと痙攣していた。身構えたものの、人格は変わっていなかった。変わるヒマすらないようだった。ひどい震駭を起こしていて、死ぬのではないかと思った。
しかし、救急車をここには呼べない飛季は、全裸の実摘を抱き起こし、頬を軽くたたいて額をさすってやった。彼女はぱちっと目を開けた。
「はさみ」と実摘は言った。唐突な言葉に飛季はきょとんとした。「はさみちょうだい」と実摘は言う。
はさみ。躊躇った。はさみも刃物だ。この状態の彼女には、幼稚園児もあつかえるそれも危険な気がした。実摘は、「はさみ、はさみ」としつこく哀願してきた。心臓から軆の先端にかけて、芝居じみているくらいわなないている。
飛季は痛ましい彼女に従ってしまった。部屋に帰り、画用紙を切るはさみを持ってきた。実摘ははさみを手にすると、いきなり髪を切り出した。
出逢って二ヶ月が経っていた。彼女の髪は耳を覆いかけるショートボブになっていて、その長さを実摘は容赦なく切除していった。床や実摘の肌、飛季の脚に、栗色の髪がはらはらと広がる。肩の傷にも落ちた。彼女の髪を切る手つきには、怯えと憎しみが同居して震えていた。
実摘の頭は、味気ないショートカットになった。自分の頭に触れて、実摘は安堵した様子で床に横たわった。飛季は仕方なく彼女についた髪をはがし、軆を洗ってやった。服を着せて部屋に連れていくと、ベッドに寝かせる。ブランケットをかけた実摘は、ぐったりとしていた。飛季はしばらくそばにいて、短髪になった頭を撫でてやった。
実摘が眠ると、飛季はバスルームを掃除し、はさみも片づける。あんなに肉体的にも異変をきたした実摘は初めてだった。知らなかった実摘の面を突きつけられると、飛季はうつむきたくなる。共に生活しているだけで、飛季は彼女を何も知らないのだ。
たまに実摘は、 “おでかけ”と称して飛季を天鈴町に連れていった。しかし、実摘は飛季を置き去りにするために連れてきているようだった。理由は謎だ。飛季は不安やいらだちをこらえて、とっとと帰った。
そうして、よく柚葉に逢った。実摘とはまったく違う柚葉に、飛季は新鮮さを覚えはじめていた。彼女は飛季を誘い、飛季は彼女を受け入れる。
柚葉とのセックスも嫌いではなかった。実のところ、実摘への腹癒せに抱くときもあったが。
ただ、彼女とのセックスには、始終罪悪感がともなった。欲望に動かされて抱いたわけではないのが、あとで恥ずかしくなる。しょせん、飛季は彼女をないがしろにしているに過ぎないのだ。
澄んだ彼女の瞳が、飛季には痛かった。彼女はこんな終わった大人といるべき少女ではない。もっと別の場所がある。それは強く実感している。飛季は実摘の澱んだ瞳は吸収できても、柚葉の清冽な瞳は見つめるだけもつらかった。
そうした屈折した想いを抱いていても、彼女が好きだとは素直に思えた。あっけらかんとした柚葉は爽快だったし、はにかんだ表情も裏のない笑顔もかわいらしかった。
しかし、稀に彼女の透いた瞳には、影がちらつくときがあった。実摘であれば、そういうときは頭を撫でる。柚葉に対しては、飛季は口づけをした。そちらのほうが彼女は喜んだ。柚葉は心情より肉体を欲しがった。
柚葉との軆だけの逢瀬は、回数も重なっていった。実摘にも知れた。「あの人と寝てるの」と実摘に訊かれ、飛季はぎこちなくうなずく。実摘はなぜか憮然としていた。
飛季と実摘のあいだで、就寝時の添い寝は日常になっていた。飛季は実摘の軆を包み、実摘は飛季にくっつく。実摘の体温は柔らかく、肌の匂いは甘かった。その無垢な小さい軆に、飛季はまだ彼女が幼い少女であるのを思い出す。
圧倒されっぱなしであっても、実摘は二十年も生きていない子供なのだ。そう思うと、いろんなものを背負っている彼女がいじらしかった。つい彼女を抱きしめて、実摘は不思議そうに顔を上げる。慌てて飛季は力を抜き、痛かったかを問う。実摘はかぶりを振り、飛季の腕に埋まった。
飛季は彼女の髪を撫で、濡れる瞳を細めさせる。共寝が習慣になり、実摘には頻繁に生理が来るようになった。飛季はよくシーツを変えた。軆は大丈夫なのか訊くと、実摘はこくんとする。「夢見たから来るの」と実摘は言った。
「夢」
「殺される夢」
そんな不吉な夢のたびに、生理が来るのか。やはり、精神も関わる何かの異常ではないだろうか。
「誰に、殺されるの」
「分かんない。僕の大切な人」
「大、切」
「ほんとにいるのか分かんない。その人は、僕を殺してくれるの。僕ね、その人に殺されるか、逢えなかったら自殺って決めてるの。その人に殺してもらうために、僕、生きてるの」
飛季はシーツを握った。実摘の口調は、にらについて語るときと似ていた。それが、彼女の揺るぎない愛をしめすのは知っている。
「逢えなかったら……って、もうこれ以上生きても逢えないってとき、分かるんだ」
「うん。生理始まったときから見る夢でね、僕、夢の中では十五歳なの。十五歳じゃなくなったら、死ぬよ」
十五歳。というと、今ではないか。今が過ぎたら、彼女は死ぬのか。その人に逢えなければ──いや、逢っても殺してもらうつもりだ。
彼女は、今を過ぎれば、死ぬつもりなのだ。放言ではなさそうなのが恐ろしかった。
「死んでも、いいんだ?」
飛季の問いに実摘はうなずいた。続いた彼女の独白は、意味深だった。
「死ぬ以外、分からないよ」
【第二十章へ】