陽炎の柩-20

雨に霞んで

 飛季は柚葉と歩いていた。人混みではぐれるのを危懼して、柚葉のしなやかな腕は飛季の腕に絡まっている。柚葉のしっとりした肌は、体毛の薄い飛季の肌に直接こすれる。
 季節は梅雨になって、空気はじっとりしていた。今はやんでいても、雨はいつ降り出すか知れない。ネオンも濡れていて、地面にはところどころに水溜まりがあった。
 今日も飛季は、この街で実摘に置いていかれた。最近、街に出るのが苦痛ではなくなっている。実摘に置いていかれるのはむっとしても、柚葉を想えば、行ってもいいかと腰を上げられる。
 飛季のその変化が、実摘はおもしろくないようだった。雨の合間に街へと出かけ、その道のりで彼女は柚葉の話を出した。実摘らしく、切り口は率直だった。
「飛季は、あの人をどう想ってるの」
「どうって」
「あの人が好きなの」
「嫌いじゃないよ──」
 婉曲でずるい形容かと、言い継いだ。
「好きだと思う」
 実摘は、リュックの肩紐を握った。
「彼女にしたいの? 僕よりも、あの人とおうちで暮らしたいんだ」
「そういう“好き”じゃないよ」
「どういう“好き”なの?」
 返事に詰まる。柚葉への好意は、「処理させてくれる」という点が大きい。罪悪感がこみあげてくる。
「どういう“好き”なの?」
「………、さあ」
 実摘は肩紐を離した。街が近づいてきていた。
「あっちは飛季を狙ってるよ」
「え」
「飛季にそういう“好き”を持ってるんだ」
 それは察していた。応えられる自信がなく、鈍感な男を演じているが。
 柚葉との肉体関係を失うのが、怖くなっていた。飛季は性を営む生活を身につけはじめている。実摘とは寝ないし、そうなれば、どうしても柚葉が必要だ。実摘と寝たのは、あの二回きりだった。数ではもはや柚葉とのほうが上だ。質は──実摘とだけれど。
 そんな心理説明はしなかった。飛季と実摘は、黙々と歩いた。街に入ると、実摘に男の声がかかった。実摘はその男についていった。飛季は隣にいたが、男は通りすがりの人間だと思っているようだった。実摘がそういう態度を取るからだ。
 ふたりがいなくなると、飛季はたたずむ。実摘への怨みは断ち切り、柚葉を捜そうと思った。あの地下の店に行くと、さいわいすぐに逢うことができた。
 そして、こうして柚葉と平行している。あっちは飛季を狙ってるよ。実摘の言葉がよみがえり、飛季は柚葉を盗み見る。飛季にそういう“好き”を持ってるんだ。飛季の視線に気づき、柚葉が顔を仰がせてくる。
「何?」
「え」
「見てなかった?」
「別に。何にもないよ」
「っそ」
 気に障ったか心配になって、飛季は柚葉を向く。目が合うと、柚葉は微笑んだ。ほっとして飛季も口元をほころばせる。
 柚葉は飛季の肩に寄り添った。
「今日も、ミミと来たの」
「え、まあ」
「来たら別れちゃうんだね」
「向こうが俺を置いてくし」
「ふうん。来るのは一緒なんだよね」
 飛季はうなずいた。「ふうん」と柚葉は首を縦に揺らす。何かあるか尋ねると、柚葉は唸り、うやむやに肯定する。
「何ていうか、気になって。一緒に来るなら、いちいちどっかで落ち合ってんだよね」
「え」
「合流して、ここに来てるんでしょ? なのに、来たら別行動?」
 飛季は気まずく目をそらした。飛季の所作に、柚葉はこちらを覗きこんでくる。
「もしかして、一緒に暮らしてるとか?」
「えっ」
 飛季の反応に、柚葉は噴き出した。飛季は頬を染める。白状したも同然だ。
「暮らしてるんだ」
「暮らしては、ないよ。ただ、俺の部屋を知られてるんだ。泊めたりはする。ミ──」
 ツミ、と続けそうになり、咳払いをする。
「ミミにとっては、俺の部屋は、ただで泊まれるホテルだから」
「嫌じゃないの?」
「最初はわけが分からなかったけど、もう慣れた」
「そんなもんかな。彼女ではないの?」
 飛季は強く否定した。実摘とのあいだに、恋愛という甘い蜜はしたたっていない。
「やるんでしょ」
「しない」
「嘘ばっかり」
「したことはあっても、二回ぐらい」
 柚葉は飛季を眺めた。やましくない飛季は、それを見つめ返せた。柚葉は肩をすくめる。
「あの子、女王様なんだよね」
「女王」
「淫乱。やりまくるの。どんな奴とでも、どんなところでも、どんなことだって。主体性ゼロ」
 飛季は実摘の痣だらけの軆を想った。交わることはなくても、いろいろ問題を起こす実摘のために、彼女の裸体はよく目にしている。実摘の白い肌は、いつだって醜く犯されている。
「あそこまで来たら、自虐だよね。そうとう自分が嫌いで、痛めつけたいというか」
「自虐」
「でも、ロウとは寝ないんだね。あの子にしては妙だよ」
 柚葉の指したいところは、何となくつかめた。
 確かにそうかもしれない。近頃、実摘は飛季に性交渉をねだらなくなった。欲しがるのは、添い寝や愛撫だ。
「ま、あたしは、ミミのことなんてよく知らないんだけど」
 黙りこんだ飛季に、柚葉は軽い口調に切り替える。
「傍目で見て、変なのって思ったの。ごめんね。深く考えないで」
 照れ咲いした柚葉に、飛季も微笑した。ほどけた飛季の表情に、柚葉もほっとした様子だった。
 飛季と柚葉は適当な路地裏を物色する。よさそうな場所を選ぶと、そこにもぐりこんだ。絡んだ肌には、汗が介入してきていた。
 柚葉と軆を重ねて数日過ぎた夜、しめやかな雨音が響いていた。仕事もキリがつき、あくびがあふれるので、そろそろ寝るかとブランケットに手をかけた。
 そのときだ。突然チャイムが巻き起こった。飛季は眉を寄せ、眠気に緩んでいた脳を引き締める。チャイムは連打される。この迷惑な押し方は実摘だ。一回押せばいいと諭してやり、最近は守っていたのだが。
 飛季は眠たさにいささかいらだっていた。落ちそうなまぶたを揉み、玄関に向かう。ドアの向こうにいたのは、もちろん実摘だ。髪や服を湿らせた彼女は、ドアの隙間に無表情をさしこみ、軆をくねらせて侵入してきた。
「実摘」
 すれちがおうとした実摘を呼び止める。彼女は顔を上げる。
「鳴らすの、一回にしてくれるかな。それで分かるよ」
 実摘は飛季を見つめた。答えずに部屋に入っていく。飛季は小さく舌打ちして、ドアと鍵を閉めた。眠さにこめかみがくらみ、壁に手を当てる。
 深い息を吐いていると、ばたばたと慌ただしい音が聞こえた。何だ、と部屋に戻ると、実摘が床に転倒していた。リュックはベッドに放られている。
「実摘──」
 飛季の声を捕らえると、実摘は捻じれた唸り声を上げた。転がりまわってもがき、手足を暴れさせる。右肩と左肩を上に下にして、両腕と両足で床を殴る。威嚇しているように唸って、けれど、ちらりと見えた表情は弛緩していた。
 飛季は唖然としていたが、実摘が頭を床に打ちつけはじめて、慌てて彼女に駆け寄った。
「実摘」
 飛季が介抱しようとすると、実摘は唸り声を高め、全身をそらせて逃げた。なおも頭を床にぶつける。
「実摘!」
 おろおろしても効きそうにないので、一喝した。うつぶせになっていた実摘は、びくんとこわばった。飛季は息をつく。
「そんなことしても、分からないよ。ちゃんと言って」
 実摘は動かない。一定のうめき声を垂らしている。飛季は実摘を抱き起こそうとした。実摘は抵抗して、再び暴れた。
「実摘──」
「僕なんかいないんだ!」
「え、」
「いない、僕、いないんだもん。もうダメだよ。おしまいだよ。死ぬしかないよ。生きてないのに生きてたって意味ないもん。死ねばいいんだ」
 実摘は床を殴って、脚をばたつかせている。転げすぎてベッドに頭をぶつけると、さらに泣き出した。床じゅうに実摘の大量の涙が伸びる。実摘の顔はつぶれていく。
「飛季だってそうだもん」
「え」
「僕が死ねばいいと思ってるんだ。僕、いなくなれって。僕がいなくなったら、あの人とここでやりまくるんだ。僕を殺したいんだ。僕なんかいないんだよ。誰にもいないんだ。みんな僕を殺してるんだよ。バカにしてる。僕が僕だって知らないんだ。僕なんかいないよ。もうやだよ、助けてよ。殺して。何で生きてるの。おもちゃなのに。おまけだもん。どうしてこんななのか分かんないよ。嫌だよ。助けて。助けて。助けて。お願い。殺して。怖いよ。助けて──」
 飛季は実摘の薄い肩をつかみ、強引に床に抑えつけた。馬乗りになり、これから強姦するような体勢になる。実摘は暴れようとしたものの、年上の男である飛季の力には敵わなかった。
 かろうじての抗いか、桃色の唇は耳障りな自嘲を吐き散らす。飛季は振り乱れる実摘の頭も抑えた。実摘は口をつぐんだ。刺さりあった視線に、実摘の涙も引っこむ。
「実摘──」
 実摘は目をつぶった。怯えていた。怒鳴られると思っているようだ。当然、飛季はそんなことはしなかった。震える実摘を抱き起こすと、そっと胸に抱いた。
 実摘は飛季に狼狽えた瞳を向けた。飛季はその顔を胸に伏せさせ、頭を撫でる。実摘の髪は、雨で水分を帯びていた。実摘はとまどっていたが、すぐに泣き出した。その涙に狂暴性はなかった。
「飛季」
「うん」
「飛季は、ね」
「うん」
「僕、消えろって、思わないの」
 飛季は苦笑した。「思わないよ」と答える。「ほんと」と実摘は不安がる。飛季はうなずき、ここは実摘の家だと彼女に思い出させる。実摘は瞳を濡らした。
「いても、いいの」
「いいよ」
「おうち」
「うん」
「僕、いる」
「いるよ」
「分かる?」
「分かる」
「目の匂い、する」
「するよ」
「僕の気持ちだよ」
「たくさん裂けてる」
 実摘は飛季の胸にもぐった。頬を密着させて小刻みに呼吸をした。涙は止まっていた。
 飛季は実摘の背中を慰撫する。雨に湿った服越しに、浮いた背骨が指に伝わる。
 沈黙に雨音が流れた。静かな息遣いと、飛季の手が実摘を愛撫する音のみ響く。実摘は睫毛を伏せている。飛季は実摘の体温に集中する。
 ふと実摘が身動きした。彼女は衣擦れをさせて軆を伸ばすと、飛季の右肩に頭を乗せる。吐息が飛季の耳たぶにかかる。
「飛季」
 実摘のささやきは、近すぎてこもっていた。
「僕ね、いろんな人と寝るよ」
「………、うん」
「おじさんとか、おにいさんともするの。僕ね、いないの。けど、したら出てくる。熱くなって、血が、どくどくする。してたら、僕、いるの」
 飛季は実摘の頭を撫でる。何となく、安穏を保ったほうがいいと感じた。
「してないと怖いの。いつも誰かに抱かれるの。そうしないと、僕、透明だよ。分かんないの。見えない。軆の中に誰かいたら、入ってくるうつわがあるって分かるの。汗もかくよ。くらくらって、気持ちよくなる。僕ね、抱かれてるときは、自分がいるって自信が持てるの。僕を僕って思ってしてくれるなら、誰でもいいの。僕を見て、僕を触って、僕をかきまわしてくれるなら、誰でもいいの」
 飛季は実摘の話に真剣に耳をかたむける。逆上していない実摘が、こんなに饒舌になるのはめずらしかった。
「僕ね、陽炎なの。ゆらゆらだよ。熱くなると出られるの。でもね、ほんとはないでしょ。触れないよ。一緒なの。終わったら、僕、また、空っぽだよ」
 実摘のうなじをさする。実摘は頭を揺らし、頬を飛季の肩にすりつける。
「いないの。空っぽなの。誰にも僕が見えないんだ。透明だよ。すりぬけるの。陽炎なの。あんなにいっぱいの人としてて、何の病気にもなれない。全部透き通っていっちゃう。僕には何にも止まってくれない。僕にも僕が見えないよ。僕には僕じゃないとこがあって、そこに僕を支配するものがあるんだ。今、僕にあるのは、残りカスだけなの」
 実摘は飛季を覗きこんでくる。顎に実摘の頬がかする。
「僕は僕を自分のものにできないよ。ぜんぜん分かんない。僕は僕が分からないよ」
 顎に生温いものが落ち、喉元に伝っていく。飛季は実摘と軆を離し、軽く口づけた。実摘の鎖骨に、ぽろぽろと雫が乗っては落ちる。
 飛季は実摘を抱き上げると、ベッドに横たわらせた。リュックをベッドからおろそうとすると、実摘はそばに置いておくと言った。
 飛季が軆を離そうとすると、実摘は嫌がった。飛季はそのままベッドにすべりこむ。リモコンで明かりを消すと、明日にそなえて目覚まし時計をかける。実摘は飛季の軆に軆をなじませる。
「飛季」
「うん」
「僕ね、ずっと思ってるの。自分は何のために生まれたのかって」
「………、うん」
「分からないよ。僕は何のために生まれてきたんだろ。こんなのひどいよ」
 飛季は実摘の頭を胸の中に隠し、緘口させる。それでも実摘は言った。
「ひどいよ……」
 実摘の栗色の髪は乾いてきていた。飛季はその髪に口づける。実摘は飛季の腕に包まれ、力を抜いた。肩の傷が隠顕とした。
 何のために生まれてきたのか。実摘が言うと、切なかった。おそらく、実摘がその言葉に一滴も自己憐憫をふくませていないせいだ。
 彼女はまじめに悩んでいる。自意識過剰ではなく、重たく冷たい暗い傷口に沈んで懊悩している。雨に霞んで消えそうな自分に怯えている。
 実摘は動かない。眠っている気配はない。
 飛季は実摘を抱きしめた。ひかえめな雨音と詰められた息を、飛季はいつまでも聴いていた。

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