きしめく記憶
実摘は朦朧としていた。知覚が薄れて、足元がおぼつかない。何日歩いたりうずくまったりしているかは、憶えていない。
現実感が消えるごとに、意識が締めあげられていく。膝が震えて、視覚がはっきりしない。すれちがう人混みが、襲いかかってきては流れていく。鼓膜をはじくものは耳鳴りになった。
息が苦しい。泳ぐ頭蓋骨にぐらついて、地面にのめりこみそうだ。
背中が寒かった。リュックがないせいだ。にらがいない。ゆいいつ、実摘の存在と命を包んで、守ってくれるにら。
なぜいないのだろう。憶えていない。忘れてきたのだろうか。どこに? 分からない。
にらをどこかに忘れてしまった。そんな。にらがいない──
記憶がきしみ、びくんと立ち止まった。五官に忍び寄る幻覚に、蒼惶としてあたりを見まわす。
人がたくさんいる。光彩が捻じれて降ってくる。きらびやかな店が続いている。話し声。笑い声。音楽。汗と排気と香水。気が遠くなる熱気。肌にまといつく空気。
汗をかいている。べとつきが流れていく。実摘は息をついた。手の甲で顔面をこすった。
再び、歩きはじめる。
軆がべとついている。何日も着続けている服は、たっぷりと汗を含んでいる。でも、着替えたくない。理由は忘れた。いや、確か──あの男のものだからだ。名前は何だったか。
そう、飛季、だ。
飛季。彼を想って、実摘の不快な胸の中はやわらいだ。背中にまわった腕や硬い胸、耳にかかった吐息を五感に流すと、かなり良くなる。
考えれば、にらもリュックも、彼の部屋に置いてきたのではなかったか。また行く、という伝言として。
そうだ。にらは飛季と一緒にいる。記憶がつながり、ほっとする。
飛季には、だいぶ会っていない。もしかすると昨日だったかもしれないが。いや、さっきだろうか。あんがい、何年も会っていないとか──。
いずれにしろ、今は飛季と一緒ではない。最後に去ったときは、いつも通りだったので憶えている。彼の安らかな寝顔に、胸が痛くなり、びっくりして逃げた。
飛季の寝顔は、心が崩壊しているぶん、無防備さが際立つ。それを目のあたりにすると、実摘の胸は疼いた。初めて知った痛みだ。痛覚を走りながらも、嫌悪には走らない。わけが分からなくて、まごついた実摘は、いつも逃げてしまう。
飛季に打ち明けるべきか、悩んでいる。一緒にいると胸が痛い、と。
実摘はうなだれる。
そんなことは言えない。傷つけるに決まっている。一緒にいると胸苦しい、なんて。
実摘は飛季が怖かった。彼への不可解な気持ちが怖い。つかみきれず、どう破裂するか分からない。
実摘は、彼に対して高慢な気持ちを持ってしまう。自分のものにしたいとか、ずっと一緒にいたいとか。
彼を縛りたい。その気持ちは、何だか嫌だ。誰だって、束縛なんかされたくないだろう。
本音を知られて避けられるのが怖ければ、こちらが避けて他人に戻ればいいのに、離れているのもつらいのだ。彼の胸におさまった具合や、穏やかな愛撫を想うと、実摘は泣きそうになる。
彼のそばにいると、軆がほてる。抱かれなくては冷たかった軆を、飛季は空間を共にすれば指先も熱くさせる。実摘は、彼の顔がおもはゆくてどきどきするし、名前を呼ばれたり視線をそそがれたりすると、嬉しさが細胞に染み渡る。
飛季は、いちいち交わらなくても実摘のかたちを証明する。めまいがしそうな発火でなく、微熱や感情で実摘の体内をなぞる。
そんな彼に抱かれると、実摘は快感のみに溺れられた。誰に抱かれても、実摘は肉体の発熱で、自分の存在を確認するほうに必死になる。快感は、無感覚のまま垂れ流しだ。
飛季は違う。飛季に抱かれると、実摘はその綺麗な軆に集中し、心も蜜でしっとりする。誇張した麗句ではない。飛季との情交には、精神も解き放つ特質があった。
飛季に抱かれると、ほかの人にもそうなのかは、分からない。でも、彼がそんな力を発揮し、それをじゅうぶん受け止められるのは自分だけであってほしい。飛季がほかの人間を抱くのは嫌いだ。彼が他者と接するのも嫌だ。
実摘が一番厭わしいのは、あの少女だった。彼女は飛季に抱かれた。実摘の目の前で飛季に口づけもした。実摘は彼女のさらさらした髪を生やす頭をかちわりたかった。彼女が、もし飛季に抱かれて自分と同じように感じていたら。そう考えただけで、実摘は節度を失いそうになる。
飛季と最後に逢った日も、実摘は切れた。ほとんど記憶はざらついている。いつも、時間が経てば絶縁体の名残は削れ、空白しか残らない。実摘はあの少女に唾を吐き、罵倒した。そして、飛季にも唾棄を散らした。
実摘は、いつも飛季をめちゃくちゃに罵ってしまう。憎まれてもおかしくない。事実、ああした逆上をほかの人間の前でやり、怒鳴られたこともある。実摘が正気に返るのは、耐えかねた相手にぶん殴られた衝撃だ。
しかし、飛季は実摘を憎まない。慰撫して、心配もしてくれる。抜け殻に還った実摘の心は、確かにむごいが、そんなのは相手には関係ないはずだ。飛季は蹴飛ばしたいはずの軆を抱いて、砕きたいはずの頭を撫でる。
何でそこまでしてくれるのか、実摘には分からない。飛季といると、こんな人がいるのか、と神の実在に茫然としたような気分になる。飛季は暗闇に埋もれる実摘をわざわざ模索し、まさか見つけてもくれて、抱きしめてくれる。
飛季は、実摘が出逢ってきた人間とあまりにもかけはなれていた。実摘は、ないがしろにされるあつかいしか知らなかった。飛季といると、実摘は自分が生きた人間だと思い上がりそうになってしまう。
いいことなのだろうか。悪いことなのだろうか。
──悪いことだ。実摘は人間ではない。この軆はおもちゃだ。存在しない。実摘はおまけなのだ。そして、実摘は彼女に──
途端、視界ががくんとぶれた。頭が逆流した。放流に頭がよじれ、焦って元の思考を取り戻そうとする。
遅かった。何を考えていたか分からない。鍵が次々に錠を開けて、不安が噴きあふれてくる。
周囲を凝視した。同じものがうごめいている。いっぱいいる。うじゃうじゃいる。それだけだ。誰もいない。何もない。ひとりでさえない。誰の瞳孔にも映らない。誰の瞳も透き通る。いつも、その瞳の先には──
『消えてごらん……』
実摘は目を剥いた。深くよろけた。道端にふらついてしゃがみこむ。喉が捻じれる。吐こうとしたが、胃は空だった。
全身ががくがくする。窃笑が聞こえる。軆を這う。陶酔した目。壊れた匂い。心を切断する。毒の瞳。
実摘はコンクリートに胃液を吐いた。にら、と反射的に思った。にらが要る。ぶるぶる震える手を背中に伸ばした。そこには何もなかった。
何で。リュックがあったのに。いつも背負っていたのに。どこに置いてきたのだろう。あの中には、にらもいた。
どうしよう。にらを失くしてしまった。にらを!
恐怖に殴られ、実摘はうずくまった。道路に顔を伏せた。アスファルトが熱かった。構わずに頭をかがめて身を守る。声が聞こえる。耳を塞ぐ。にらはいない。澄みすぎた瞳がつらぬく。口元に塩味がする。
「たすけて……」
軆がわなないた。喉が絞られる。記憶がぎしぎし言う。頭が痛い。きしめく記憶に光が刺さる──……
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