陽炎の柩-27

そばにいてはいけない

 意識が覚醒したとき、実摘の腰には鈍痛がとどこおっていた。起き上がろうとしても、力が入らない。
 顰め面をしていると、腹に熱が降った。びくりとすると、ベッドサイドにいた上半身裸の伊勇が、煙草の灰をわざと実摘に落としている。睨むと、彼は冷笑して手を引く。部屋にはいびきが反響していた。
 実摘はシーツに背中を預ける。軆じゅうが精液まみれだ。薬品じみた小便の臭いもする。
「腰、痛いだろ」
 伊勇は嗤っている。
「お前、最後は出血してたぜ」
 実摘は無視して目を閉じた。癪であっても、確かに腰がだるかった。筋肉が分解したように鈍い。
 眠かった。すぐ熟睡に引きずりこまれそうだ。
 伊勇は、実摘の裸体に視線を向けている。実摘はささやかな拒絶として、だるさをおしてうつぶせになった。まくらに顔を伏せると、膣や尻の穴からどろりと液体があふれる。
 たぶん血も混じっている。下腹部に違和感はないので、生理ではない。出血するまでされたのかと他人事感覚で思った。
「髪、切ったんだな」
 伊勇の骨張った手が、後頭部に置かれた。骨張る、といってもその骨は細く、力強くはない。彼の手の動きは愛撫ではなく、髪をあさっているだけだ。
「伸ばせよ」
「関係ない」
「似合うぜ」
 実摘は、顔をまくらに押しつけた。彼は何も知らない。髪を伸ばすことが、実摘にとって、どんなに恐ろしいことか。
 髪をあさる手がなくなると、ベッドがきしんだ。腿にデニムの生地がこすれる。尻のふくらみに熱い息がかかって、あふれている液体をすすられた。ずるずるという下品な音が、いびきと重なって鼓膜を引っかいてくる。
 頭が重い。眠りたい。でも、眠ってしまって放っていかれたらバカだ。
 尻の割れ目から膣まで、ぬるぬるした熱が這いまわる。空っぽの心とクーラーの冷えた空気に、ぼうっとしていると、脚のあいだに埋まっていた顔が離れた。ジッパーを下ろす音がした。
 実摘は動かない。骨盤をつかまれ、尻を突き出させられると、唾液に濡れたそこに硬直があてがわれた。拒否しようとすると、腰を抑えこまれ、いきなり猛ったものをねじこまれる。
 実摘はあきらめ、内臓に加わる鈍痛に唇を噛んだ。伊勇の動きは緩やかで、しつこかった。絶頂を焦らして、実摘を味わっている。そんなふうに実摘を抱いていいのは、飛季だけだ。ほかの男のくどい劣情などいらない。
 とっとといってほしくて、協力するように実摘は腰を振った。実摘の呼応に、かすかなうめき声がして、動きが速まる。
「サシでやりたかったんだ」
 伊勇の声だ。煙草の臭いもする。無視しようかとも思ったものの、吐き捨てる。
「最初からそうしてよ」
「お前の腰を砕かなきゃいけなかった」
「何で」
「おとなしくさせるためだ」
「何──」
「次起きたときに訊け」
 突然、奥深くをえぐられた。激痛が突き抜け、実摘はびくっと痙攣する。体内に放出が散る。背中に体重が覆いかぶさったとき、実摘の意識は暗く途絶えた。
 ──目覚めたとき、首に妙な感覚がした。ぴったりと肌につき、喉を絞めてくる。寝ぼけた頭が垂れそうになると、それはぐっと喉に食いこんだ。慌てて顔を上げ、絞めつけられた息を吐く。
 目を開けると、実摘はぽかんとした。そこには知らない光景があった。
 照明の下、見憶えのない部屋がある。とまどってきょときょとしようとして、首輪がはめられているのに気づいた。なぜか持ち上がっている左手首は、手錠でつながれている。
 混乱しながら、クーラーのきいた部屋を見まわす。カーテンが引かれたガラス戸、ビデオデッキに載ったテレビ、押し入れや玄関──。背後には壁に面したパイプベッドがあり、実摘はそれにつながれている。
 手錠はスタンドのパイプにつながり、首輪の鎖の先にあるリングはベッドの脚に通されている。リングは鎖が緩みないおかげで、脚の根元まで来ている。頭を垂らして首が絞まったのは、そのように鎖が短いせいだ。つまり、リングを床へと動かし、ベッドの脚から抜いてはずそうとするほど、首が絞まる。軆自体を床に伏せるのは、手錠が邪魔した。
 拘束ではないか。そう思っていると、奥で物音がした。
 首を捻じって身構えると、足音が近づいてくる。下半身にジーンズを通したばかりで、ブラックブルーの髪をバスタオルで拭きながらやってきたのは、伊勇だった。
 実摘が起きているのを認め、彼は口元をゆがめた。実摘は不安を殺して睨み返す。
「何これ」
「静かなんで、まだ寝てるかと思ったぜ」
「外してよ」
「まだ寝てれば」
「外せよっ」
「嫌だね」
 伊勇はベッドサイドに腰をおろした。脚に咬みつこうとしても、首を絞められて動けない。
 伊勇は不自由な実摘を見下ろし、満足そうに髪を拭く。飛んだ飛沫がかかって、実摘は顔を背けた。フローリングの床には、ホコリがたまっている。
 彼の部屋だろうか。どうやって連れてこられたのか、まったく憶えていない。あのモーテルで崩れかけていた腰を直撃され、気を失ったのは憶えている。そのあとは分からない。
 服は着ている。ちゃんと飛季の服だ。あのモーテルと、この部屋が遠くなかったとしても、あんなもので昏睡するのはおかしい。気絶した直後に、何かされたのかもしれない。
 そういえば、こめかみから眼球にかけてが重い。水道水がどうとか言っていたから、この男はニードルだ。実摘は蒼ざめて、腕に注射の痕がないかを調べる。
「何だよ」
 実摘の挙動に、伊勇は手を止める。
「僕に何か打った?」
 伊勇は目を眇め、「『僕』ね」とタオルをベッドに放る。
「ただの睡眠薬だぜ」
「打ったの」
「連れてきたかったんだ」
「何で」
「誘ったって来なかっただろ」
 伊勇は脚を組み、湿った髪を軽く振った。
 彼の軆は、不健康にもろげで、腰つきもかなり細い。浮いた骨組みや頑丈ではない筋肉は、病的な感がある。明らかに薬物中毒で、腕にもケロイドがあった。
「五万円ぶん、やったよ。ちょうだい。それで終わりだよ」
 伊勇は実摘を一瞥し、面倒そうにジーンズの尻ポケットをあさった。くしゃくしゃの福沢諭吉が五人、実摘の膝にゴミクズ同然に散らかる。
 実摘は、つい拾うのを躊躇った。こんなものをかきあつめるのは、いかにもあさましい。自由な右手を動かせずにいると、「いらないのか」と伊勇が嗤ってくる。その嗤いは、明らかに実摘の自尊心に向かっていた。
 むっとした実摘は、全員を乱暴につかみ、飛季のジーンズのポケットに突っ込む。伊勇を睨めつける。
「おしまいだよ。外して」
「ダメだ」
「こんなとこいたくない」
「外せないな」
「こんなの監禁だよ」
「悪いか?」
 伊勇を睨みつけた。実摘の目見をそっけなく見返し、伊勇はベッドサイドを立つ。
「金はやるぜ」
「え」
「ここでおとなしくしてるなら、週に三万やる」
 実摘はひそみをした。いるだけで週三万。
 ベッドを立った彼は、押し入れを開けて適当なシャツを選んでいる。
「何で僕なの」
「俺はお前をそばに置いとかなきゃいけないんだ」
 服を着た伊勇は、低く唸る冷蔵庫を開けてごそごそした。実摘は首を垂らす。飛季の服が目に入った。
 飛季。ここにいれば、飛季に会えなくなる。飛季には会いたい。けれど、会う勇気はない。
 実摘は飛季を所有物にしたいし、飛季はそれを断るに決まっている。彼と時間を過ごすほど、実摘は飛季を縛りたくなる。今の自分のように、飛季の心を拘束したくなる。会わない以外に、このよこしまな気持ちの成長を留める方法はない。
 飛季のそばにいてはいけない。そばにいるほど、実摘は飛季に執着する。離れたほうがいい。次に会うのは、にらを取りにいくという用事のときで、それが最後だ。
 実摘が哀しいのはどうだっていい。実摘は、飛季の生活を失せなくてはならない。それしか、飛季に嫌われない術はない。
 伊勇がベッドサイドに戻ってくる。実摘は、顔を上げた。
「いいよ」
「は?」
「僕、ここにいても」
 ビールのプルリングを開けようとしていた伊勇は、こちらを流し見た。実摘はうなだれる。
「いいよ」
 何秒か黙然とした。伊勇は、ビールのプルリングを抜く。
「お前の返事なんか、関係なかったけどな」
 実摘は黙って、ベッドサイドに体重をかけた。上がりっぱなしの手首はだるいし、首輪は気持ち悪い。伊勇が飲むアルコールの臭いがただよってくる。
 飛季のあの心地よい部屋とは正反対だ。けれど、ここにいれば飛季に嫌われずに済む。
 飛季を想った。静かな瞳や優しい愛撫、安息できる腕も。彼は、実摘には不相応なのだ。そばにいてはいけない。
 小さく息をつくと、実摘は、痛む心を背中で閉ざした。

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