陽炎の柩-3

血があふれた瞳

「桐月先生、今日は藤牧ふじまきくんを訪ねる日ですよね」
 朝のミーティングが終了したあと、飛季がさっさと事務所を出ていこうとすると、主任である年配の男性講師が声をかけてきた。飛季は足を止め、「はい」と短く答える。
「彼なんですけど、昨夜警察に補導されたそうで」
「補導……ですか」
 飛季はその生徒を思い返し、正直すぐ納得した。が、驚いた表情を作っておく。
「万引きらしいんですが、何というか……そういうことに至る前に、話を聞いてあげたりはしましたか?」
 四十代半ばのこの主任は、飛季の淡々とした態度をよく思っていない。飛季もこの男が苦手だ。彼が話を切り出すときの顎をさする癖、そして、そのときの剃り残した髭が立てる不潔な音が、ひどく癇に障る。
「なるべく刺激はしないようにしていますが」
 飛季は努めて冷静に返した。
 その生徒には、個人的には関わりたくないと思っている。構ってくる親や学校の教師は邪慳にするくせに、黙殺する飛季には突っかかってくる。その無様な自己顕示に、飛季は嫌悪さえ催すことがあった。
「先生には、もっと子供たちに寄り添ってあげてほしいんですけどね」
 そう言った主任は息をつき、芝居がかった渋い顔をする。それから、訊きもしていない万引きの詳細を語りはじめた。彼の顔は沈痛で卑しい。まあ、人の悪事を吹聴するのは楽しいだろう。
 受け持つ生徒が人を殺しても、飛季はそんな悲痛な顔はしない気がする。むしろ、そのくらい覚悟しておかないと、中学生の相手などやっていられない。
 やがて、主任のくどい話の端々に、私情のトゲが突き出てきた。話はみるみる脱線し、飛季の講師としての不適任さをなじりはじめる。彼に話しかけられると、結局こうなる。
「先生がもっと気にかけていれば、藤牧くんも思いつめなかったんじゃないですかね。きっと、悩んでいたんですよ。こんなことになったのは、気遣いの足りなかった先生にも責任がありますからね。もっと、多感な子供たちと接している自覚を持ってもらえませんか。それができなければ、子供たちのためにも──」
 飛季の目が、さっと冷ややかになった。主任は焦って口を塞いだ。飛季は彼に静かに眼を向ける。
「そういうことは、派遣会社のほうにお願いします。こちらは構いませんので」
 飛季の冷遇な眼に、主任は口ごもった。飛季はただ、彼に視線を突き刺す。「とにかく、先生からも注意を」と下手に話を切り上げ、主任は飛季から逃げていった。
 飛季はその背中を見つめた。眼球が焼けた。まぶたを下ろし、息を吐く。
 午前中の生徒を見たあと、午後に問題の生徒を訪ねた。親は恐縮した様子で飛季を出迎えて、「あの子が自分の部屋に入れるのは、友達か先生だけなので」とすがるように頭を下げる。「様子を見るだけになるかもしれませんが」と飛季は断って、生徒の部屋に向かった。
「また来たのかよ。うざ」
 ノックをして、鍵のないドアを開ける。彼はベッドに仰向けになって漫画雑誌を読んでいて、こちらを一瞥すると吐き捨てる。飛季は後ろ手にドアを閉め、つくえの椅子を引いて腰かけた。
 彼は髪をけばけばしい茶色に脱色している。にきびを放置した顔立ちは荒れ、手足は細長い。
「補導のこと、聞いたよ」
 飛季の言葉に、彼の眼差しに軽蔑が混じった。さんざん周りに言われたのだろう。こちらこそ、興味もないのに注意などしたくない。もうしません。この一言を吐かせればいい。それが口先でも、飛季の立場ならそれでじゅうぶんだ。
「どうせ、何とも思ってないんだろ」
 ばさっと雑誌を床に放り投げ、彼は言った。
「俺が何したって、自分には関係ないとか思ってんだろ。そうだよ。あんたに話すことなんかない。自分の立場がかわいいんだろ。面倒くさくても、自分の立場が悪くなるのが怖いから、心配したふりしてるだけ」
 飛季は視線を下げる。目の奥が、陰険に引き攣りそうになった。本当に、うるさいガキだ。分かりきったことをいちいち指摘して、優越感でもあるのだろうか。
「ほっとけよ」
 そう言って彼は身を起こし、飛季を睨む。
「関係ないくせに、構ってきやがって。もし俺のことを理解したいとか思ってんなら、お前なんかいつだってクビに──」
 飛季は、彼に視線をかざした。まくし立てていた彼の口が、止まった。飛季の氷を帯びた瞳に、少年特有の薄い肩がすくむ。飛季はゆっくり、冷たく柔らかに微笑んだ。
「君がもうやらないって言うなら、それを信じるよ」
 彼は飛季を凝視した。飛季は優しい笑みを絶やさない。仮面を剥くわけにはいかない。禍々しい殺意が蓄積した素顔を、憎悪に焼き爛れた瞳を、さらすわけにはいかない。
 彼の表情に賢明な色が走った──こいつはやばい。
「別に……やらねえよ」
 彼は言いながら目をそらし、「そんなにおもしろくなかったし」と背を向けてまた寝転がった。「そう」と飛季も顔を伏せ、あとは彼に構わず、腕を組んで時間が過ぎるのを待つことにした。
 ──来そうだ。心の中に、びちゃびちゃと毒が飛び散る。
 理解? 思い上がるのもいい加減しろ。誰もお前のことを知りたいなどと思わない。そうだ。この会話は保身だ。お前が飯の種だから、仕方なく気にかけるふりをしてやったのだ。
 焼きついた記憶に眉を寄せた。視界が黒ずんでいる。忘れられないかもしれない。この忌ま忌ましい気分がぬぐえなかったら──幼い頃から繰り返すあの儀式で、感情を排除しなくてはならない。
 脳裏に焼きつこうとする記憶を惨殺する。それは、物心がつくかつかないかの頃からしている、飛季の自制の手段だった。
 自分の人生など、何ひとつ憶えていたくない。なのに、不快感を呼び起こす経験ほど脳にこびりつく。無感覚へと鍛えた頭に、感染しようとする菌を削り落とす。ゆっくり剥がしていたら、菌は染みこんでしまう。だから、早急に、乱暴に、記憶の核に取りつこうとする菌をむしり取る。
 多くの人間を殺してきた。昔は両親や同級生、今は同僚や生徒。忌まわしい記憶は、菌を培養した人間の存在を消して、なかったことにする。
 そうしないと、精神が保てないのだ。閉じこもった脳内に障ってくる人間を虐殺する。悪い菌をメスでえぐり、飛季の脳内は血まみれだった。ひとしきり殺して、心を安定剤に浸した翌朝、鏡の中の瞳には腐った血が滴っている。
 でも、錯覚だ。誰の目にも留まったりしない。
 次に会うとき、もちろんその相手は死んでいない。だが、先日のしこりが疼いたりはしない。忘れているからだ。
 今日も飛季は、菌を発した者を殺す。ひとりは頭をかちわって、脳を飛び散らせた。ひとりは喉を引き裂いて、血を奔流させた。ふたつとも、ぐちゃぐちゃに全身を切り刻む。それが何か分からなくなると、肉片を気が済むまで踏み躙る。
 踏んばらないと、一面の血で足がすべってしまいそうになる。荒くなった息をこらえ、低く笑う。無力な存在のかけらを一掃きし、飛季は空っぽになる。
 人を殺して、記憶を操る。それが飛季の調和だった。これをしないと、怖くてたまらない。凡庸でいたいと思っている。しかし、この妄想を現実化して露顕したら、さらし者になってしまう。
 嫌だ。誰にも憶えられたくない。誰も憶えていたくない。埋もれて、隠れて、知られずにいたい。
 だから、飛季は血みどろにする。手ではなく、心を。
 独りでいい。誰といたって、何かが気に入らなくて殺してしまうのだ。独りがいい。しょせん誰も愛せない自分を痛感させられるのは、たくさんだ。
 翌日は、曇っていた。朝陽の代わりに、淡い灰色の雲の陰りが顔にかかる。天を犯す太陽を抑えこむ、重苦しい雲を前髪越しに眺める。
 今日は、前髪を多めに下ろしている。妄想した次の日はいつもだ。錯覚だと分かっていても、瞳に血が散乱しているようで、不安だった。
 駐輪場に向かった。行き先に目をやり、思わずため息をつく。
 飛季のオートバイにまたがり、ぼおっと天を仰ぐ少女がいる。カーキのリュックを背負って、だぶだぶのジーンズの脚をぶらつかせている。その爪先は地に着いておらず、危なげだ。彼女の小さな軆は、飛季のオートバイには不釣合いだった。
 その隣では高校生らしき少年が、自転車を出している。彼は、どう見ても他人のオートバイに勝手にまたがる少女に、かなり怪訝そうにしている。天を仰ぐ彼女は、その視線など意に介していない。少年は納得いかない顔で自転車に乗り、飛季のかたわらを通り抜けていった。
 彼を避けて後退った飛季は、突っ立ちそうになっていた自分に気づく。鍵を手に整え、オートバイに歩み寄った。
「それ、使うんだけど」
 声をかけると、彼女は首をのろく捻じってきた。彼女の首の捻り方は独特だ。骨がないのかと思いそうに、腰がない。
 飛季は彼女のそばで足を止める。彼女は頭をもたげ、澱みに飛季を取りこむ。いつも力の抜けた撫で肩なので、リュックはずりおちそうになっている。
 澱む瞳に、飛季の瞳が揺らめいた。前髪のかかった自分の瞳に、喉がぎゅっと苦しくなる。血が流れている。いや、錯覚だ。きちんとぬぐい取ってきた。だけど、ぬぐった痕が──
 さえぎった。視線をよそにやった。
 飛季の瞳を取り逃がした彼女は、線を引きそうにゆっくりとした動きで、目を正面にやった。彼女のひずんだ視線は、空中に水たまりを作る。
 黙ってうつむいていると、彼女はのそりとオートバイを降りた。こちら側に降りてきたので、一歩下がる。彼女は背中をくねらせてリュックの背負い具合を整えた。そして、飛季の横をすり抜ける。
 すれちがって、重なりが離れたときだった。彼女は、ぼそりとつぶやいた。
「……嘘つき」
 振り返った。彼女は歩いていく。リュックはふたが閉まっておらず、緑色の毛布が覗けていた。
 動けない。息が震える。心臓がすくみ、その奥で、激しい搏動が暴発する。
 嘘つき。
 狼狽えた。喉元が曇って、吐き気がした。なんて、飛季をあっさり表した言葉だろう。
 彼女は角を曲がっていく。
 飛季はうなだれた。嘘つき。言葉の陰惨な根深さと、彼女の華奢で儚げな声の落差が、冷や汗をかかせる。
 彼女が飛季を読んだのか? あるいは、飛季が今日、特に陰気だったのか?
 恐らく前者だ。こわばった心が恐怖にほどけ、おののきはじめる。
 彼女は、何なのか。いったいどこの子で、何をしているのか。何のために飛季につきまとってくる? 何を考えている?
 デイパックのストラップを、強く握りしめる。
 嘘つき。胸が痛む。ひどいではないか。今まで誰も気づかなかった。気づいてはくれなかった。
 なのに。
 揺るぎない嘘は、真実と化しているのだ。もういまさら、飛季はそれを壊してほしくなかった。

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