見つめる瞳
答えは見つからないまま、さらに日が過ぎていった。その日は伊勇に、手錠を左から右に変えられ、ベッドに頭を向けて、四つんばいにされていた。首を垂らしていてもだるいので、実摘は頬をベッドサイドに乗せる。クーラーで冷やされたシーツがひんやりする。
下半身の服を取り上げられ、さっきまで口に含んでいた伊勇の性器が捻じこまれる。快感のない下腹部は圧迫感を覚えた。彼の先走った液と、実摘の唾液を頼りに、伊勇は実摘の膣を突く。
口の中には、伊勇の性器の感じがそのまま残っていた。染み出ていた液で、舌が変な味だ。陰毛もあった。唾と共に吐き出してやりたくても、だるい顎にその気力が出ない。
実摘は口を動かして陰毛を舌に集めると、秘かにシーツの裾を舐め、せめてそれらはぬぐい取った。ベッドに顔を埋め直す。伊勇は実摘の内壁で性器をこすりあげている。虚ろな目をしている自分が、まぶたの虚脱から感じられる。
伊勇が自分を抱く理由が分からなかった。分かりたくなかった。ひとつ考えたくない可能性がある。飛季に出逢う前、さまざまな男たちを渡り歩く前、支えはにらひとりであった頃、何人かの男が実摘を抱いた理由、それがある。
伊勇はときどき、その男たちがしていた目をする。伊勇はあの理由で実摘を抱いているのだろうか。だから、実摘を監禁しているのだろうか。そうだったら。彼が勃起しているのが、あのひどい侮蔑の衝動であったら。
背骨にあの瞳がただよう。毒に冒された瞳。素通りする盲目の陶酔。視線は透き通っている。軆を見ている。薄い肩、ほっそりした腰、柔らかい尻。顔を見たがっている。違いない。実摘の存在を抹殺した、この完璧な呪われた顔──
心臓が締めつけられた。息が苦しくなった。目をつぶり、呼吸を整える。鳥肌が立って、思わず腰をよじって伊勇を拒否した。骨盤を抑えつけられる。「いや」ともらすと、「何だよ」と伊勇らしい鬱陶しそうな声がした。
おそるおそる、首を捻った。そこには伊勇の怪訝そうな目があった。あの瞳はない。
錯覚かと実摘がうなだれておとなしくなると、伊勇は再び動きはじめる。恥ずかしさと情けなさが綯い混ぜになって、実摘は泣きたくなった。自分は、闇の支配を少しも逃れられていない。
伊勇の性器が、体内をまさぐる。ぎりぎりを保ち、達する気配はない。実摘はこれが嫌いだ。この抱き方も、あの男たちのものではないか。偶然であれば、ますます奇怪だ。
飛季もこんなふうではあったが、違った。飛季は、きちんと実摘を見つめてそうしてくれた。実摘の軆で、ではなく、実摘で、いってくれる。
実摘は目を細めて、息をついた。頬をシーツに沈めると、肩の力が抜ける。
飛季。会いたい。ここに来てどのくらい経ったのか。飛季の顔が思い出せない。軆も刺激も雰囲気も、つかもうとしたら消える。染みこんでいた飛季が乾涸びてきている。
軆の中に、暗雲が立ちこめはじめていた。飛季の残像という抗体が削がれ、にらもいない。飛季の免疫に包まれるのが、にらの中に埋まるのが、実摘の存在を保護していた。剥き出しになった意識に、現実に食いこむ暗い幻覚が混入する。
実摘は怯えていた。このまま飛季が空っぽになり、再びあの闇に制圧されてしまったら。そうなれば、ささやかな精神は崩落する。実摘は存在しなくなる。無自覚になるだろう。下手なことをやって、彼女に見つかったら──。
唇を噛んだ。にら。飛季。会わなくてはならない。
飛季は、実摘の存在だ。彼がいなかったら、実摘は無かった。心を巣食われ、肉の塊となり、壁の後ろで闇に凍えていた。
ずっと、統覚がばらついていた。にらの中にいるときのみ安定できたが、飛季は安定させ、安息もさせてくれる。氷の軆に、血を通わせ、温めてくれる。
生まれて間もなかった実摘の心は、彼に会えず、たやすく凍死しようとしている。ぬくぬくするのを覚えてしまった実摘は、それがひときわ恐ろしかった。あの部屋に帰りたい。飛季のベッドで眠り、飛季のごはんを食べて、飛季をたくさん感じる。
飛季がいい。実摘には飛季しかいない。必要なのだ。今まで実摘に足りなかったのは、飛季だった。
唐突に下腹部に熱がほとばしった。実摘は目をつぶった。膣に伊勇の体液があふれた。
こらえていた息を荒く吐いた伊勇は、性器を躊躇いなく引き抜く。乱暴な摩擦に、実摘は不快に唸る。
彼が離れると、クーラーの冷気が尻にあたり、つい腰をすくめた。伊勇の精液が、どろどろ内腿にしたたる。
後始末をしてジーンズを穿き、伊勇は実摘の手錠を元に戻す。実摘は彼と向き合うと、鋭い顎を上目で睨む。
「何だよ」
「どうして」
「は?」
「どうして、あんたは僕を抱くの」
「何で」
「僕なんか、何とも想ってないくせに」
伊勇は変わらない蔑んだ目をする。
「男なら誰だっていいんだろ」
「よくないよ」
「そんなにヒトキって奴はいいわけか」
「えっ」
実摘は狼狽えて、伊勇に顔を上げた。うっすら汗をかいた伊勇は、実摘の動揺に愉しげに嗤う。
「飛季を知ってるの」
「知らねえよ。お前がぶつぶつ言ってる名前だろ」
「言ってないよ」
「言ってるんだよ。寝たりしたらな」
うなだれた。がちゃっと手錠がはまった音がした。肩を落とすと、伊勇は実摘の下肢に服を着せ、ベッドサイドに腰をおろす。
「ヒトキって、お前の何?」
「関係ないよ」
「恋人か」
実摘は肩を揺らした。恋人。思いもよらない肩書きだった。
「………、違うよ」
「ふうん」
「大人の人なの」
「お前、ガキだもんな」
むっとして睨みつけると、伊勇はベッドに転がった。彼は実摘に背を向けて話しかけてこなくなり、実摘は首を正す。
カーテンの隙間は暗い。
ガキ。事実なのか悔しかった。実摘はガキだ。飛季は大人だ。そう、ずっとそばにいてほしいなんて、わがままが過ぎている。
でも、と思う。やっぱり、実摘は飛季にそばにいてほしい。彼をひとり占めしたい。
大人も子供も関係なく見てほしかった。実摘として見てほしい。実摘は飛季にそうしている。普段は彼の年齢なんか忘れている。
実摘は、伊勇のがりがりの背中を振り返った。
「さっきの、答えてよ」
「あ?」
「どうして僕を抱くの」
「さあな」
「どうして」
「知らねえよ」
「気持ちよくないでしょ」
「別に」
堂々巡りになるのを察して、実摘は質問を変えた。
「じゃあ、何で僕をここに閉じこめるの」
伊勇は黙り、嗤笑をした。実摘は彼に仏頂面になる。伊勇は仰向けになった。
「じき出してやるよ」
「え」
「ここ」
「………、今出してよ」
「今はダメだ」
「何で」
伊勇は実摘を眺めたものの、答えはよこさず無視に戻った。実摘はしつこく問うたが、彼は緘唇を解かない。あきらめた実摘は、真正面の黒いブラウン管を見た。
じき出してやる。伊勇の言葉を反芻し、気持ちに光が射してきた。慮外の福音だった。あとでがっかりさせるための嘘ではないかと冷静になろうとしても、喜んでしまう。
自由になれば飛季に会える。この男の意思はよく分からなくても、出してもらえたらこっちのものだ。飛季に会える。にらにも会える。あの部屋に行って、にらと一緒に飛季に抱きしめてもらえる。
笑みを噛んだ。遠かった望みが急激に近くなった。霞んだ飛季の顔も暗い錘にはならない。ここを出れば、新しく取りこみにいける。実摘は心が生き生きするのを感じた。飛季に会えるのだ。
安堵に酔って、実摘は気づけなかった。伊勇に見つめられているのも、その瞳が冷めた観察をしているのも、何にも。
【第三十一章へ】