ただいま、おかえり
盆の帰郷を逃れた飛季は、先日、派遣事務所に呼び出された。例の万引き生徒が、今度は恐喝とナイフの所持で保護観察になり、家庭教師の契約も解除することになったそうだ。主任には、例によって飛季の力不足をなじられたが、そういえば彼のことをわざわざ脳内で殺してもいない。
さっきつけた明かりが、前髪の流れた目に当たる。まぶたをおろした。この夏休みを思うと、嗤わずにはいられなかった。飛季はひたすら、あの子を待ち続けた。バカげた時間だったみたいだ。
実摘は、飛季の生活を完全に失せてしまった。八月になって、一度も逢っていない。彼女の顔も思い出せなくなっているし、感触も熱も、心をえぐってきた澱んだ瞳も遠のいている。
けれど、そうして蒸発するのは、彼女自身という存在だけで、すべて忘却するという楽な手段も取れていない。ひずんだ心への所感や、そこに取りこまれた彼女への想いや、彼女が飛季にもたらした印象は強烈だ。彼女の不在は、空白として飛季に顕示されつづけている。
リュックとにらも、相変わらずそこにいる。実摘との時間には現実味が欠けているが、リュックとにらがそれを正した。
実摘はいた。彼女がリュックを背負ってこの部屋を訪ねてきたのも、にらに触って狼狽されたのも、現実だ。実摘への想いも、内界の心象ではなく、外界の刺激によるものだ。実摘の存在は妄想だったといっそ逃げようとするのを、飛季同様に放置されているにらたちが戒める。
飛季はリュックを向いた。はみでたにらを見つめる。
何でだろう、と思う。実摘が飛季を放置するのはある意味当たり前だとしても、にらが放置されるのはおかしい。実摘のにらへの崇拝と信頼は、異常の粋に達していた。そんなにらを彼女は二十日以上も放っている。飛季と顔を合わせたくないとかいう理由があったとしても、構っていられなくなる頃だろう。
なのに、彼女は来ない。実摘の精神は、狂っていておかしくない。飛季は心配になる。まさか実摘は、とうに狂って、にらを取りにくるという冷静な判断も下せなくなっているのではないか。
そんなことにはなっていてほしくなくとも、どうもあの子だと不安だ。実摘は、正気と狂気の境をわきまえていない。矯正された理性より、捻じれた本能に従いやすい。実摘の精神は今、正常な状態なのだろうか。
にらを取りに来れない状況だとも考えられる。家に帰らされたとか、派手なことをして警察に取り押さえられたとか。性格が変わったり、恋人ができたり、万にひとつ、にらなしでも生きていけるようになったというのもある。さもなくば、最悪の場合、死んでいる──。
飛季は息をついた。こんな不吉な予想も軽く浮かばせるあたりが、実摘の恐ろしいところだ。
伸ばしていた膝を曲げた。静かだ。引いたカーテンの向こうが長い夕暮れを溶き、夜になっている。今日も一日じゅう、実摘を想って過ごした。
ごちゃごちゃ思案する自分が恥ずかしかった。なのに、空漠とした彼女の行方を煩う。いつからこんなことになったのだろう。最初はあんなに関わってきてほしくなかった子に、すっかり心に棲みつかれている。
実摘がそばにいないと、落ち着けない。実摘の不在が苦しかった。彼女は飛季などいなくてもいいのだろうが、こちらはそうではなくなっている。心はこうして変化していながら、生活は昔に戻ろうとしている。実摘のいない、当たり障りのない生活に。
それでよかったはずが、飛季は拒んでいる。理念にひずみが生じている。実摘にいてほしい。
曲げた膝に額をぶつけた。自分は考えるばっかりだ。行動は起こせない。そんなに実摘に会いたければ、捜しにいけばいい。けれど、実摘に迷惑がられたらと怯えてしまう。飛季は真空の孤独にいた。誰かにこんなに執着したのは初めてだ。正直、どうすべきなのかも分からなかった。
顔を上げて、時刻を確かめる。二十時前だ。
空腹だった。何か食べるかと立ち上がる。リュックをよけてキッチンに行くと、視界を邪魔する前髪をかきあげ、冷蔵庫を覗く。ろくなものがない。カレーやシチューのルーを手にとっても、作る気がしない。弁当を買いにいくかと冷蔵庫を閉め、腰を上げたときだった。
部屋にチャイムが響いた。玄関を一顧する。実摘かと期待したが──違う。おとなしく、一回だ。
こんな時間に、と首をかしげて、玄関に行った。鍵を開けようとして、一応、覗き穴を見る。
はっとドアノブを握った。栗色の髪の頭があった。
慌てて鍵を開けて、ドアを押した。ドアの向こうで後退る音がした。ドアの向こうにある人の気配は、なかなか現れようとしない。靴を突っかけて、覗きにいこうとすると、ドアの影からおどおどと上目遣いの顔が出てきた。飛季は息を飲む。
実摘、だった。
「実摘──」
実摘は飛季を認め、曖昧に咲った。飛季は泣きたい気持ちになった。それが表情にこぼれると、実摘も瞳を濡らす。
むずがゆそうに、実摘は「ただいま」と言う。飛季は微笑んだ。「おかえり」と返すと、実摘は飛季に抱きついてくる。もちろん飛季は抱きしめ返した。
実摘は汗の匂いがした。髪もぼさつき、着ている服は汚れている。何より、かなり痩せていた。懐かしさの錯覚ではない。もともと細い子ではあっても、こんなに病的ではなかった。力をこめすぎると、折れてしまいそうだ。
飛季の背中にまわった腕もかよわい。その腕に提がっている何かが、背中に当たる。
軆に隙間を作ろうとすると、実摘は嫌がってしがみつく。飛季は体勢を崩さず、ドアを閉めた。鍵もかけると、実摘のだぼだぼのスニーカーを脱がせ、彼女を室内に連れていった。
実摘は飛季に手足を絡ませ、喉の奥を鳴らしている。鼻をこすりつける感情的な様子に、飛季は異質さを汲み取った。普段の実摘は、飛季の部屋に来ると、とっととベッドに入ったり床に座ってぼおっとしたりする。今日の彼女は、そんな余裕もなさそうに飛季の感触をむさぼっている。
飛季は実摘の軆を抱きかかえて、頭を撫でてやった。実摘は飛季に密着し、歓呼に唸る。
実摘をベッドサイドに下ろすと、丁重に軆を離した。絡みつこうとする実摘をなだめ、正面に腰をかがめる。実摘は飛季のほうへ腕を泳がせる。飛季は実摘のこけた頬に手を当てた。飛季に触れられると、彼女はあがきを静止させる。睫毛を伏せて、飛季の手のひらに頬をすりよせる。
飛季は彼女の頬を親指で撫で、眉を寄せた。ひどいやつれ方だった。頬のふくらみがなくなって、頬骨が堅い。くぼんだ目の下には真っ黒の隈がある。唇は荒れて、鎖骨が浮き彫りになっている。喉元に黒ずみがあって、凝視すると、それは痣だった。鎖のようなもので締められたようだ。
飛季は実摘を見た。実摘はこちらを見つめていて、飛季と視線がぶつかると嬉しそうに咲った。飛季は咲い返してやりながらも、まるで首を吊ったような痕を懸念する。着ている服は飛季の知らないものだ。実摘には大きくても、飛季の服ほど不格好ではない。
手に握っているのは、服とビニールぶくろだった。「飛季の服なの」と実摘は言った。受け取ると、確かにそうだった。ビニールぶくろには、食べかけのパンやおにぎりが詰めこまれている。飛季はまとめてかたわらに置く。
あらわになった、実摘の手もがりがりだった。血管の巡りがくっきりと映っている。左手首には、首と同様の青黒い痣があった。飛季は実摘の手に手を乗せ、枝の指や生々しい関節に胸を苦しくさせた。
どうやら、実摘はふらふらしていたわけではないみたいだ。好きでここに来なかったわけでもないらしい。彼女のこの様子が、全部物語っている。
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