陽炎の柩-33

僕のおうち

 飛季は床にひざまずき、実摘を仰いだ。憔悴した実摘の顔は飛季と向き合うと輝いた。あの澱んだ瞳がなく、遊離した空気もない。飛季を飲みこむ瞳はさらさらと彩られ、溶解を求めている。
 飛季は手を伸ばし、実摘の頭を撫でた。実摘は無邪気に嬉笑した。
「よかったの」
「え」
「飛季ね、僕、憶えてたよ」
「憶えてるって」
「僕、飛季に会いたかったの。飛季は違ったら哀しかったよ。大丈夫なの。飛季、僕を忘れてなかったよ」
 変わらないちぐはぐな文章に、飛季は苦笑した。けれど、自分とこの子の胸中は変わらないものだったようだ。
 飛季は彼女の軽い軆を持ち上げ、床に尻をつけて抱きしめた。実摘は抱きついてくる。彼女の背骨はこちらが不安になりそうに突起していた。飛季はそれをさすり、微熱が染みていく細い軆を腕に収める。
「もう来ないかもって思った」
 彼女の耳元でつぶやくと、実摘はもそもそと顔をあげた。「来るよ」と彼女は言う。ややずれた返答に咲い、実摘の背中を撫でる。
「ずっと、来なかったし」
「来れなかったの」
「いろいろ考えたよ」
「いろいろ」
「何かあったかとか、恋人ができたとか、家に帰らされたとか」
「ここがおうちだよ」
「うん」
「おうち──」
 急に実摘の肩が震えた。飛季は彼女の瞳を覗きこむ。
「実摘」
「おうち、いい?」
「え」
「ここ、僕のおうち」
「うん」
「帰ってくるの」
「うん」
「飛季、嫌じゃない? 飛季が嫌なら、ここ、おうちじゃなくてもいいよ。飛季、迷惑なの」
「何で。そんなことないよ」
 実摘は口ごもってうなだれる。飛季は実摘の髪を梳いた。べたついた髪は、シャワーを浴びさせてやったほうがよさそうだ。塞いだ彼女に、「実摘の部屋だよ」と諭してやる。
「なのに帰ってこないから、心配だったんだ」
 実摘は飛季を見つめた。微笑みかけると、実摘はしがみついてきた。それが怖くて帰ってこなかったのかと訊くと、実摘はかぶりを振る。
「犬にされてたの」
「犬」
「つながれてね、出してもらえなかったの。鍵落として逃げられたの」
「つながれるって」
「首輪とね、手錠」
 実摘の喉と手首の痣がよぎった。首輪と手錠で、つながれて出してもらえなかった。それは──
「誰、に。知らない人?」
「奴隷の人」
「奴隷」
「怖かったの。死んじゃうよ。今は飛季と一緒なの。おうちもあるよ。怖くない」
 実摘は飛季の胸に埋まり、ぬくぬくと休まる。取り留めのない言葉の羅列でも、彼女がここに来れて安堵しているのは分かった。飛季に撫でられると、実摘は喉の奥で喜ぶ。
 実摘の背中に愛撫をほどこしていた飛季は、ふとベッドの下にいるリュックを思い出した。一瞥すると、はみでたにらが怨めしそうにしている──気がした。軆を離そうとすると、実摘は拒んで張りついてくる。
「実摘」
「飛季なの。いるの」
「いや、その、にらが」
「にら」
 実摘は勢いよく顔を上げて、きょろきょろした。ベッドの下をしめすと、飛季も引っ張って実摘はリュックの元に行った。嬉々と口元を綻ばす様子に、にらへの崇拝が退化していないのが窺えた。
 にらに触ろうとした手を、実摘はぱっと引っ込める。「汚れてる」と実摘は自分の手に眉を寄せた。シャワーを浴びるかを問うてみると、実摘はうなずいた。
 飛季は腰を上げる。実摘は「待っててね」とにらに残し、バスルームへの案内についてきた。
 脱衣した実摘は、視覚が痛むほど痩せ細っていた。実摘も自身を見て、「痩せたの」とつぶやいた。飛季は実摘の頭に手を置き、背中をそっとタイルに押してやる。実摘は一緒に入ってほしそうにする。
「飛季は」
「夕飯、作ってるよ」
「ごはん」
「食べたほうがいいよ。何か食べたいの、ある?」
 実摘は首をかしげ、こくんとする。
「飛季が作ったの」
「は?」
「飛季が作ったのがいいの」
 飛季が作ったものなら何でもいい、と訳した。レトルトであるのを断っておくと、実摘は再度こくんとした。
 彼女がタイルに踏み込んだのを見送ると、飛季は部屋に帰る。一度引き返し、バスタオルに重ねて、飛季の服を着替えとして曇りガラスの入口に備えておいた。シャワーの音がしていた。
 部屋にひとりになると、大息した。実摘が帰ってきた。その事実を交えて部屋を四顧すると、どこも変わっていないその空間に、不思議と安息を与えられた。単純だな、と決まり悪くなる。
 夕食の用意に取りかかる。作る、といえども、飛季の料理には限度がある。失敗しない確率を選び、カレーという結論に至った。無洗米を釜にそそぎ、野菜が腐っていないかを確認しながら手早く調理する。
 弱火で煮こむ段階になった頃、背後でぺたぺたという足音が出てきた。振り返った飛季は、一瞬硬直した。実摘は全身を濡らしたまま、服も着ていない。クローゼットに直行したところを見ると、着替えに気づかなかったようだ。
「実摘」
 実摘は首を捻じって、「カレーカレー」と歌った。
「軆、拭かないと」
 飛季は鍋の蓋を閉め、実摘に駆け寄る。
「タオルないの」
「置いてたよ。着替えも。ほら」
 実摘の痩躯を浴室に帰す。実摘は飛季に構われて嬉しそうにする。床は雑巾をかけなくてはならない状態になっていた。
 飛季は入り口に置いていたバスタオルで、実摘の軆を包んだ。ざっと水気を取ると、火がつけっぱなしなので部屋に連れていき、そこでちゃんと拭いてやる。実摘は鼻をくんくんとさせ、「カレーカレー」と繰り返している。
 髪や肌の水滴を吸い取ってやるかたわら、飛季は実摘の軆を盗み見た。暴力の痕跡はなかった。口づけの痕もない。縛られるのみの監禁だったのか。雪肌は蒼白くなっており、余計に喉と首の痣が目立った。肩の傷もちらりと覗いてみた。かさぶたがなくなって、代わりに大きく引き攣れていた。
 飛季は実摘に服を着せ、にらのところに行かせた。引っ張り出したにらを広げ、実摘が歓喜の声を上げるのを横目に、飛季はバスタオルで濡れた床も拭いてしまう。バスルームのかごにそれを放ると、キッチンに立つ。
 実摘は、抱きしめたにらを撫で、話しかけている。休み休み杓子でかきまぜ、カレーの煮こみ具合を眺めていると、不意に背中をぴったりと覆われた。
 振り向く前に、腰に細腕がまわってくる。実摘だ。
「実摘」
 うめき声がして、鼻先が背中にこすりつけられる。
「どうかした」
 実摘は飛季の服を握って、「こうしてるの」と言った。飛季はつい咲って、にらは放っておくのかと訊く。「にらもいる」と実摘は答えた。
 意味が測れなくて振り返ると、確かに実摘は肩からにらをかぶっていた。当然、飛季にもにらが触れている。飛季の脳裏に、にらに触れてしまったときの実摘の狼狽がよみがえった。
「俺に触ってるよ」
 実摘はうなずく。
「いいの?」
 うなずく。
「汚れるんじゃなかった?」
 実摘は飛季の腰を抱きしめ、はにかんだ声でささやく。
「飛季はね、いいの」
「俺、は」
「特別なの」
 飛季は、砕けそうな実摘の骨に手を這わせた。浮いた血管を指腹でなぞる。
「にらも言ってるよ」
「………、そっか」
「飛季だけだよ」
「うん」
「ほかはダメなの」
 飛季は離すまいという表示で実摘の手を取り、包んだ。実摘も飛季の手を握る。「こうしててもいい?」と声がした。「いいよ」と返すと、深い息が肌を温めた。
 ぐつぐつというカレーの煮えたぎる音と、その匂いが部屋にただよった。ほかは静かだ。実摘は動かずに息を詰め、飛季も呼吸をひかえる。切ないような緊張感が張りつめた。
 実摘の柔らかな熱が、飛季の体温を確かめていく。握りあった手には、汗が滲んだ。
 飛季は自分の彼女への気持ちを想い、彼女の心にそれに通ずるものがあるのではないかと探りたくなった。うぬぼれだろうか。この子には、やはり自分は都合のいいおにいさんなのか。実摘にとって、飛季はどういう存在なのか。
 炊飯器の電子メロディが鳴り、飛季は覚醒した。混ぜるのも忘れていたカレーはできあがっている。火を止めた。食器の水切りに並べっぱなしだった皿を持ってくる。実摘はもぞもぞと飛季を離れ、鍋に首を伸ばしている。飛季は彼女に、皿に白米を盛るのを頼んだ。こくんとして炊飯器を開けた実摘は、上がった蒸気に慌てふためいて、飛季はつい微笑んでしまった。
 飛季はカレーをかきまぜて味見した。それなりに仕上がっている。実摘がよそった白米にルーをかけると、ミニテーブルに並べる。飲み物がないのに気づくと、実摘は持ってきたビニールぶくろをあさり、パックのフルーツ牛乳を取り出した。飛季はコップにミネラルウォーターをそそぎ、ようやく夕食となる。
 実摘は無心にカレーを食した。食事も満足にもらえていなかったようだ。しばらく実摘が喜びそうな食事を続けようかと思いかけ、飛季は陰に後退した。
 言い切れない。明日目覚めると、実摘が消えている可能性もある。
 急に心が暗くなった。明日の朝、自分はまた取り残されているのだろうか。蘇生した虚しい所感に沈みこんでいると、儚い声に名前を呼ばれた。
 顔を上げると実摘が食事の手を止め、表情を曇らせていた。飛季は慌てて笑みを取り繕ったが、実摘は騙されずに身を縮めた。
「しくしくなの」
「え」
「飛季、泣いてるよ」
「な、泣いてないよ」
「僕、うるさい?」
「うるさくないよ」
「飛季が嫌だったらね、」
「違うよ。ただ、その──」
 実摘は、不安そうに睫毛を伏せる。飛季は嘘をつくかどうかに迷った。結局、面目のなさを認めた上で正直に告白する。
「実摘、明日はどうしてるかなって」
「あした」
「また出ていくのかな、って」
 実摘はまばたきをした。飛季はうつむいた。恥ずかしかった。二十五にもなる男が十五の少女にすがっている。実摘は、スプーンで半分に減ったカレーをいじくる。
「飛季、出ていってほしいの」
「俺は、……いてほしいけど」
 実摘のとまどった視線が来る。飛季は苦し紛れの笑みを作った。
「別に、気にしなくていいよ」
「え」
「俺の勝手な気持ちだし。実摘には迷惑だって分かってるよ」
 実摘は、無反応でこちらを見つめてきた。それは飛季の恥をかきたてた。
 飛季は無言でカレーを食べる。実摘もぎこちなく食事に戻った。ときおり来た彼女の目には、気づかないふりをした。

第三十四章へ

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