柩で眠るより
翌朝、ばたばたやらどんどんという音が鼓膜に侵入して、飛季は目を覚ました。クーラーをつけっぱなしで眠ったおかげで、全身がだるい。まぶたを上げると、室内はカーテンを縫って明るくて、朝が来てだいぶ経っているのを窺知させた。飛季は鈍重に上体を軽く起こし、こすった目で騒がしい音を確かめる。
全裸の実摘が、部屋を走りまわったり、床を踏み鳴らしたりしていた。一気に覚醒した。何だ、と飛季は軆を起こす。飛季の腹には、緑色の毛布──にらがかかっていた。
「実摘」と呼ぶと、クローゼットと物置の角で飛び跳ねていた実摘が、ぐるっと振り返ってきた。飛季が起きているのを認めると、素早くこちらに駆け寄ってくる。抱きついてきた実摘を、飛季は受け止めて腕に包んだ。実摘は飛季の肌にすりよって喜色した。
飛季は実摘を見て、いなくならなかったな、と思った。何かあったのかを尋ねると、実摘はこっくりとした。重ねて尋ねた飛季に、「うきうき」と実摘は答えた。
「は?」
「うきうきなの。また初めてだよ。起きたら飛季がいてね、うきうきだったの。飛季は眠ってるよ。痛くなかった。飛季、起きて僕がいたら喜ぶのって思ったら、うずうずしてきたの。走ってもダメだったよ。でも、飛季がこうしてくれるとすやすや」
「……はあ」
彼女の唐突な脈絡は、寝ぼけた脳では一段と解きにくかった。実摘は飛季にくっつき、くすぐったそうに破顔している。飛季は実摘の背中を抱きこんだ。
「飛季」
「ん」
「明日、僕、いたよ」
「………、うん」
「嬉しい?」
昨晩の飛季のわがままを憶えていてくれたようだ。飛季は照れ笑いして、うなずいて実摘を擁した。実摘は頬をほくほくとさせる。
「あのね、飛季。すごいの」
「すごい」
「飛季が嬉しいことは、僕も嬉しいんだよ。すごいよ。僕、毎日、朝いるよ。飛季、嬉しい」
「うん」
「僕も、朝、逃げなくていいのと、それで飛季が嬉しいの嬉しい。すごいね」
飛季は咲って、実摘の頭に頬を乗せた。実摘は「すごいすごい」と驚いている。愛してる、とあっさり言われるより、実摘のつたない言葉には血が通っていた。
彼女はおそらく、恋愛観念が極めて希薄なのだ。熟した感情を持っても、まだ彼女の心は収めきれないぐらいに幼い。
実摘は飛季に頬を押しつぶした。栗色の髪に口をつけると、実摘は上目遣いではにかむ。「おしゃべりだったの」と実摘は照れて、飛季はかぶりを振った。「どきどきする」と実摘はつぶやく。飛季は実摘の背中に手のひらを這わした。「力が入らないよ」と彼女は言う。嫌かと訊くと、実摘は頭を左右に揺すった。
「飛季といるとね、おやすみなさいって感じなの」
飛季は微笑み、彼女の繊柔な軆をさすった。実摘はやすらかそうに睫毛を伏せる。
夏休みが明けて仕事が本格的に始まるまでのあいだ、飛季は実摘と過ごした。実摘は右手ににらを抱え、飛季のあとをとことことついてまわった。買い物などにもついてきて、久しぶりにカーキのリュックを背負う実摘を見たりした。
買い物帰り、陽炎を揺らす道端を実摘と歩く。実摘は買ってあげたバニラアイスバーを夢中で舐めまわしていた。蝉の声は減っても、太陽は空気をべとつかせる。止まらない汗をぬぐっていると、実摘は飛季の服を引っ張って、アイスをさしだしてきた。飛季は口元をやわらげ、腰をかがめてひと口かじる。冷たく甘く、おいしかった。それを伝えると、実摘はにっこりする。
舌にアイスの破片を溶かしながら、覚悟は決まっていった。この子といられるのなら、家出少女を連れこんだロリコンだと思われていい。実摘と暮らしていきたかった。
実摘の軆も、次第に良くなった。やつれた印象はなくなり、繊細な印象を残す。蒼白かった肌も白くしっとりとして、むごい痣もじんわり消えていった。
痛ましかった実摘が陶酔させる少女に還っていくのは、喜ばしくもあり、欲望をつついて危うくもあった。飛季は実摘ににらをかぶせ、甘美な毒をさりげなく包み隠す。それでも実摘は、瞳をくるくるとさせ、脱いだにらを腕に提げて飛季にくっつきまわった。
実摘の幼い心は深まり、気持ちをそそげるものとなった。撒き散らしていた“うきうき”を彼女は心の情熱にしていく。流された想いが実摘の瞳や肌、仕種にこぼれ落ちていた。ばたばたと甘えられるのにも参っても、その実摘も飛季の性を刺激した。
ベッドサイドで、実摘は飛季の肩にもたれている。膝にはにらをかけており、足元にはリュックがあった。
飛季はそのリュックの中身を問うた。目を閉じてゆったりしていた実摘は、「いろいろ」と答えた。「いろいろ」と反復する飛季に、実摘は身をかがめてリュックを膝に乗せた。にらの入っていないリュックは、ほぼぺしゃんこだ。実摘はリュックを開き、中身をベッドに羅列してくれる。
ビデオテープ、結構な額の現金、携帯用の歯ブラシや爪切りなどの生活用品が入っていた。あんがい普通だな、と思ったところに、なぜかはさみが取り出された。悪い想像をしかけたけれど、彼女が伸びた髪に気違いじみた反応を起こしたことが思い返る。散髪にそなえているのだろうか。
最後に出てきたのは、コーンスープの缶だった。それには見憶えがあった。一考して、気づく。実摘と出逢ってごく日が浅かった頃、飛季が廊下で買ってやったものだ。実摘を向くと、彼女ははにかんだ。
「僕ね、最初、飛季追っかけまわしてたでしょ」
「うん」
「飛季がひとりぼっちなのと、これもあったの」
「これ」
「『ありがとう』ってね、言おうとしてたの」
実摘を見つめた。彼女は恥ずかしそうにして、出したものをかきあつめてリュックに放りこむ。飛季は切なくなって、実摘を抱き寄せた。口づけると、実摘はおとなしく受け身でいる。唇を離すと、実摘は頬を染めていて、「ありがとう」と言った。飛季は「どういたしまして」と返して細い腰を抱きしめた。
触れにくかった実摘が、飛季に浸染していった。実摘は飛季といると自分は生きているという。飛季も自分といる実摘は息づいていると感じた。
以前の彼女は、やはり死んでいた。現在の実摘は感情を育んでいて、飛季に心の息吹を聴かせてくれる。分離していた実摘が飛季だけには浸透を試みている。
ほかには、あのかけはなれた空気を放っている。つまらないテレビや、出かけたときの他人のことは、実摘は異様な異空間に閉じこもって拒否する。彼女は、飛季ひとりに生身の命を震わせた。心地の良い優越感があったのは否めない。
飛季のあぐらに座って、実摘はテレビの前に座る。そろそろ家庭教師の仕事も、通常通りになる。実摘がそれを知っているのか知らないのかは分からない。実摘はビデオをセットする。飛季のドアポストに贈り、放置されていたあのビデオだ。
実摘は飛季の胸に背中を預け、奇妙な映画を鑑賞する。飛季も共に眺める。例の男が自殺した頃、実摘が口を開いた。
「僕ね、前から何回も見る夢があるの」
「夢」
「殺される夢でね、僕、それ見ると生理が始まるよ」
生理。不順すぎるシーツの染みがよみがえった。
「僕ね、柩の中で眠ってるの。お花がいっぱいでね。むっとしてて、吐きそうになるくらいの匂いが詰まってる。僕、生きてるよ。大っきすぎるシャツ着てる。蓋が開く。空まで花畑で、いろんな色にちかちかするとこなの。蓋明けた人が覗きこんできて、顔は見えないの。その人、僕を優しく撫でてくれてね、そのあと、僕の心臓に杭を刺して殺すの。そういう夢なの」
テレビでは男の死体が転がっている。実摘はため息をつき、飛季に脱力する。
「僕、その人に殺されたかったの。捜してたの」
「……うん」
「でね、見つけたの。飛季なの」
「えっ」
「その人ね、飛季なの。飛季が僕を撫でてくれるのと、その人が撫でてくれるの、一緒だよ。僕を包んでくれる目も同じなの。僕、ずっと、飛季の夢見てたの。飛季が僕を殺してくれるの」
飛季は実摘の髪に口を埋める。さっき一緒にシャワーを浴びたので、シャンプーの匂いがした。沈黙に、映画の外国語が流れる。
「………、俺に、殺してほしい?」
実摘は首を横に振った。
「殺して、ほしかった。ほんとにこうやって出逢ってみると、嫌になったの。生きてて、飛季とぬくぬくしてたいの」
飛季は実摘の額に口づけた。実摘は微笑む。画面では男の死体に蛆虫が涌いている。
「殺しても殺さなくても、どっちでもいいの。僕、柩が欲しかった。死体になって眠りたかった。腐って、安心して、でも、飛季は生きてても柩になる。飛季といると、死んじゃったみたいにふーっと楽になれるの。命が溶けるの。飛季は僕の柩なんだよ」
飛季は、実摘の腹にまわした腕に力をこめた。彼女のこめかみに何度か口づけをした。実摘は飛季の行動に恥じらって咲った。
愛おしくてたまらなくなって、彼女の軆に軆を密着させる。死体の画面が変わる。実摘は飛季の口づけにうっとりとして、飛季も彼女へのキスに夢中になる。
柩。実摘の最大の別格になるのだろう。彼女の殺される夢を語るときの口調で窺える。飛季は自分がそうなれたことはもちろん、実摘が誰かをそう想えるようになったのも嬉しかった。
彼女が自分といれば安らぐのなら、飛季はずっと実摘のそばにいたい。彼女の肩の傷に目を落とし、この子がこんな傷口に溺れることから守りたいと思った。
飛季は実摘と笑みを交わすと、その笑顔が壊れないように、ぎゅっと彼女の心を胸にしまった。
【第三十六章へ】