陽炎の柩-40

光と陰

「え……」
「実摘の名字って、綾香、じゃない?」
 実摘は目を開いた。肯定だ。
「今日、新しく受け持つ生徒に会ってきたんだ。最近、このへんに引っ越してきたっていう。その子が、実摘とそっくりなんだよ」
 実摘は硬直する。続けていいのか躊躇したが、確信を深めるためには引けなかった。
「ふたごの姉のほうが、行方不明になってるって話してた。それで、その生徒の名前は──」
「嫌」
「え」
「いやっ」
 実摘の全身はぶるぶると震えていた。「いや、いや」とうわごとを始める。顔はこちらを向いて、首をかしげ、話をうながしていた。口では、「嫌だ」とぶつぶつ繰り返しているのだ。瞳もゆがみ、わなないている。でも、口元は咲って、「それで?」と言いたげにしている。反応が分裂していた。本心と上辺が錯綜している。
「実摘、」
「いや。僕、そっくり。そうだよ。ぼ、僕は──、いや。やめて。怖い。そっくりじゃないよ。同じなの。僕は鏡だよ。そっくり、どうしたの。嫌だ。怖いよ。どうしたの」
「実摘」
「で?」
「え」
「新しい生徒が何。嫌だよ、しないで。どうしたの。僕にそっくりなの。怖い。嫌だ助けて。来ないで。名前は」
「いや、その──いいんだ、実摘、」
「名前はっ
 嫌だっ」
 もつれた舌が、相反する言葉を一気に紡いだ。ついで、実摘は聞き取り不能の混濁した言葉を連発しだした。
 飛季は後悔した。言わなければよかった。実摘は催促と拒否を無茶に混在させる。目を剥きながら穏やかに咲って、震駭しながら首をかたむける。舌は器用なくらい相容れないはずの言葉をこねくっている。
 飛季にはどうしようもなかった。従った。
「綾香実富、って──」
 途端、実摘は凄絶な悲鳴をあげた。喉を突き破ったようだった。飛季の耳はつんざかれ、耳鳴りも聞こえずに真っ白になる。
 実摘は唸り声をまきちらし、部屋をばたばたと暴れた。捻じり合っていた反応が統一していった。
「助けて」
 飛季は立ち上がった。実摘は床を転げまわる。にらが実摘の脚に絡まる。
「嫌だ。助けて。やめて。どうして。怖いよ。怖いよ。怖い──」
 飛季は、実摘の背中を抑えこんだ。実摘はまたもや絶叫した。声と共に血飛沫が飛ぶほどだった。
「実摘」
「いやあっ。あ、いや、違うです。ごめんなさい。しないです。拭くです。ごめんなさい、ごめんなさい、」
 実摘は、手のひらで吐いた血をぬぐおうとする。そのひどい怯え方に、飛季は自己嫌悪に陥りながら、彼女を仰向けにさせた。目をつぶってかぶりを振りまくる彼女の頭蓋骨を抑え、目を開かせる。
 実摘の瞳に、飛季が映る。
「飛季……」
 飛季は力なく微笑み、丁重に実摘を抱き起こした。実摘は飛季の胸にすがり、弱々しい声で泣いた。飛季は彼女の軆を抱きしめて、頭を撫でた。「ごめん」とこめかみに口づけると、実摘はびしょびしょの睫毛をあげる。
「ごめん。黙っておくのも危ないと思ったんだ。今まで通りに一緒に買い物とか行って、見つかったりしたら」
 実摘は飛季の服を握る。
「俺は、実摘と離れたくない。見つかったら、実摘は家に連れ戻される。……実摘に、ずっとここにいてほしかったんだ」
「飛季……」
「ごめん。わがままで。黙ってたほうがよかったかな」
 実摘は、首を横に振った。飛季は、実摘の涙を指ではらってやった。
「実摘が家に帰りたくないのも分かってた。実摘が嫌だったら、俺だって帰したくないんだ。実摘には、ここで落ち着いててほしくて。お節介かな」
 実摘は、再び首を振る。飛季は実摘を見つめたのち、うなだれた。
「俺のわがままなんだ。実摘が嫌だったら、ここを離れてもいいよ」
「えっ」
「家族がそばにいるのが怖かったら、どこかに逃げて。俺は気にしなくていいよ。ここで待ってる。帰りたくなったときは、いつ帰ってきてもいいよ。俺は待ってる。実摘のことなら」
「飛季──」
「だから、実摘がここにいたくなかったら、」
 実摘は、手足でぎゅっと飛季にしがみついた。飛季は口をつぐむ。「いるよ」と実摘は言った。
「いるよ。ここにいるの。飛季と離れるのはやなの」
「でも」
「嫌だよ。家族、……がいるの怖いけどね、ダメなの。飛季がいないほうがもっと怖いの。僕、変わったの。飛季とぬくぬくしないと死んじゃうの」
 飛季は唇を噛み、実摘を抱きしめた。実摘の涙が途切れていないのが、服に広がる染みで分かった。いつのまにか、炊けたごはんの匂いがしている。
「ここにいるの」
「うん」
「飛季、いるでしょ」
「うん」
「僕といてくれるの」
「もちろん」
 実摘は、飛季の肌に肌を食いこませた。皮膚が汗で溶け合いそうだ。
「じゃ、いいの。すごく怖くてもね、一番怖いのじゃないよ」
「実摘──」
「飛季がいたら、僕の一番はぬくぬくなの」
 飛季は実摘を抱いた。実摘も飛季の涙に湿った服を握る。
 すごく怖い。その言葉は心に刻んだ。一番はぬくぬくさせてやれるとしても、二番目以降は恐怖に埋め尽くさせてしまった。彼女が恐怖におののく日は、再来してしまう。
 けれど、悲観するのは間違いだ。飛季がすべきことは、二番目以降の抹殺ではなく、一番目の安穏を死守してやることだ。
「ずっとそばにいるよ」と飛季は実摘に誓った。実摘は素直にこくんとした。いつも、とつけくわえられない心苦しさも、彼女は理解してくれる。飛季は実摘を深く抱き、実摘は飛季にぴったりと密着する。一体化した軆は、ふたりの心を堅く契らせた。
 ──木曜日、十六時頃に綾香家を訪ねた。迎えたのは、セーラー服のままの実富だった。母親のすがたはなく、問うてみると母親もこちらで働くため、面接に出ているそうだ。実富は飛季と向き合うと、相変わらず悠然と微笑する。
 家に上がった飛季は、緊張を隠して「部屋に行こうか」と彼女をうながした。「はい」と返事した実富は、飛季を二階に案内する。背筋を伸ばした彼女の足取りは上品で、がさつな中学生らしくなかった。まとう空気も自信に満ちている。
 顔は実摘とそっくりだ。粗を探そうとしても見つからないほど、容姿には実摘と実富に個性がない。
 しかし、与えられる印象は対照的だ。実摘のあの卑屈さに反して、実富の雰囲気には自尊がある。
 実摘がいつだか言っていた。自分は陰にいて、光は全部持っていかれたと。あのときはよく分からなかったのが、実富を当てはめると明瞭になった。確かに、この印象をあっさり形容するとそうだ。実摘は陰に、実富は光にいた。
「ここです」と部屋のドアを開けながら、飛季の視線に気づいた実富は、優雅な笑みを向けてきた。飛季は咲い返しつつ、昨夜もこの腕にいた実摘を想う。今日の飛季の出勤時、実摘は蒼白の顔を隠そうと無理に咲っていた。
 切なかった。同じ顔だとしても、飛季の心を動かせるのは実摘だけだ。自分でも驚くほど、飛季は実富の笑顔に冷めている。
 家の中にはちらほらあった段ボールが、実富の部屋にはすでに見当たらず、整然としていた。「特に不安な教科とかある?」と訊くと、「英語かもしれません」と返ってくる。
「自分が英語で言うより、相手に日本語で言ってもらうくらいなので。もっと、自分で話せないとダメですよね」
 そう言いながら、実富はつくえに着いて英語の教科書を取り出す。そもそも、英語で会話する機会なんてあるのだろうか。そんなことを思いつつ、彼女は飛季とも人種が違うようなので、いろいろあるのかもしれない。
 昨今めずらしく、自分を確立している子だと感じた。自分の存否からして信じられずに怯えている実摘とは、本当に対極だ。
 実摘。どうしているだろう。結局そこにたどりつきながら、飛季はつくえの脇に置いてあった丸椅子に断って腰かける。実富は飛季に向かって「じゃあ、お願いします」と悠然と笑む。同じ美しい顔なのに、どうにもなじまないものを感じつつ、飛季は「よろしく」と短く答えて授業を始めた。

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