命が食べるもの
ある日、実富の勉強を見ながら、「みんなに追いつくの大変?」と訊いてみると、「合わせるのは大変です」と返ってきた。何だかその言い方は、実富のほうがクラスの水準にレベルを下げているようにも聞こえた。
用意したプリントの解答欄をあっさり埋め、「お願いします」と実富はさしだしてくる。飛季は目を通し、やっぱり家庭教師なんか必要な子じゃないなと感じる。
学校での生活も軽く聞いているが、クラスにはなじんでいるようだ。転校生イジメなどもなさそうだった。ただ、友達の存在を訊くと、「みんないい人だから」と返ってきて、何となく飛季はそれが引っかかった。
それは、みんないい人だから──みんな友達だ、と言いたいのだろうか? 中学三年生の子が? まさか、と思う飛季の感覚のほうが普通だろう。普通か、と飛季は実富の横顔をちらりとして、普通じゃないんだよな、と思った。
実富には、何とも言いがたい威光がある。伸びた背筋や、まっすぐな視線、揺らがない歩調やきちんとした仕草。完璧で、精緻で、かつそれらを自覚し、堂々としている。そして、自覚していることはあくまで隠然とさせ、自分以外は見下していることは気高さにすりかえて、誰にも反感を持たせない。何というか、狂信を呼ぶ教祖のような、狂おしい正しさに満ちていた。
実摘と実富は、外面は驚異的に酷似してても、内面は正反対だった。実摘は陰、内向的に脆弱で、空気に消えてしまいそうに儚い。実富は光、外向的に強靭で、自分の周りの空気をつかんであやつっている。
実富の性格を把握していくと、初めて実摘が家出した理由を邪推できた。こんなに完璧なふたごの片割れがそばにいたら、自信も喪失して逃げ出したくなるだろう。実摘には、多くの内的な欠陥があるのに対し、実富は無欠だった。実摘と実富を並べると、自信というものがどれだけ人格を左右するか窺える。
正直、飛季は実富が苦手だった。そもそも、飛季も自信の欠片もない人間だ。実摘と出逢って、ようやく彼女の熱に存在意義を見出せた。以前は、自分がなぜここにいるのか考えつづけていた。実富のような自信にあふれる人間は、飛季には理解不能だ。
部屋での実摘の態度もある。飛季の部屋に閉じこもる実摘の精神は、案の定、病的な破調を帯びはじめた。飛季が帰宅すると、実摘は床にうつぶせていたり、ベッドの足先とガラス戸のあいだの狭い隙間にうずくまっていたりする。
飛季は優しく声をかけ、そろそろと振り向いてくる実摘に腕を絡ませた。実摘は喉で泣いて、飛季にすがってくる。震えが残る軆は、飛季の胸を痛ませた。実摘の精神も存在も、奪ったのは家庭だ。確信は深まり、さらに、その核心は実富だったのではないかと飛季は察しはじめていた。
その夜も、ワイシャツにスラックスのままの飛季に抱かれ、実摘はあやされた。落ち着いてくると、彼女はこちらを見つめてくる。「何?」と問うと、「先生」と実摘はつぶやいた。「あ、着替えようか」と立ち上がろうとすると、実摘は飛季にしがみついた。飛季は実摘を抱え直す。
「あのね」
「うん」
「飛季、先生でしょ」
「え、」
「どう、してる?」
「どう、って──」
「飛季、教えてるの。どうしてる……?」
実富の動向をさしているらしい。別に──と飛季が語ろうとすると、実摘は突然激しいかぶりを振る。
「いいの。嫌なの。違うの。いらない」
鼻白んだ飛季は、おとなしく口を閉ざした。実摘はうなだれ、飛季の心臓を聴く。しばしそうして、安泰を取り戻すと、実摘は顔をあげて「ごはん」と甘えてくる。ふたりは、そんなやりとりを繰り返した。
実摘が繊弱な子でなくとも、実富相手では萎えてしまっても仕方がない。実富は絶対的だった。それは揺るがしようがないし、それはそれでいい。けれど、実摘はふたごの片割れという立場で、すべきではない比較をされてきたのではないか。
そうすれば、実摘が断然劣るに決まっている。実摘は飛季に、飛季は自分のものだからほかの人間にはクズだと言った。その理論は、実摘にも通ずる。飛季には実摘はかけがえのない大切な子であっても、飛季以外の人間には、実摘は何だか頭のおかしいクズだ。飛季専用の実摘と、大衆的な実富を較べるのは、あまりにもひどい。
これは、飛季が実摘の特別な存在だから判別できるのであって、ほかの人間には分かりようがない。なぜこんなにふたごで正反対なのか、実摘はさんざん中傷を受けてきたのかもしれない。何の遜色もない実富に、実摘が苦しんでいるのは確かだ。
正直、飛季も最初は、実富を自立した優等生だと思っていた。秘匿された毒を感知したのは、実富の視線に異質なものを見取ってからだ。実摘とぜんぜん違うな、と飛季が彼女を盗み見てしまうと、実富はすぐ気づいて、笑みを含んだ顔を向けてきた。
その笑みが、断じてこちらの好意を呼び起こす種類のものではなかったのだ。
次第に、こちらが視線を向けずとも、実富は飛季を眺めてくるようになった。採点しているあいだや、母親がいると誘われる夕食時、別れ際に振り返らないようにしているとき。実富は、うっすら微笑んで飛季を見ている。漫然とはしていない、何かしら感情は絡まっているのに、その感情の名称は読ませない視線だった。
不安をかき立てられながら、部屋では実摘と過ごした。部屋にいるときが、一番楽しかった。実摘が鬱して落ちこむとこちらも哀しくなっても、甘えられたりくっついたりされると、飛季の心身は癒やされる。そうして自分といて飛季がやすらぐのを見ると、実摘も元気になった。
「飛季がね、僕といて嬉しくなるのは、僕も嬉しいの」
照れ咲いする実摘に飛季は微笑み、口づけた。飛季も、実摘が嬉しいと嬉しくなる。自分たちはうまくできている。飛季の胸に頬を寄せ、実摘はにこにことしていた。
飛季と実摘は、一心同体になっていた。一緒にいれば至福であっても、疎通が深まるにつれ、反動は強烈になった。離れると、ちぎられた傷口が血膿を流す。
顕著なのは、実摘だった。飛季は心に実摘を思い返せば何とかなっても、実摘はそれができなかった。実摘は飛季に口づけられ、愛撫され、抱きしめられないとダメだった。彼女は、錯覚で精神をなだめることができない。
実摘がベッドの下に頭を突っ込んで呼吸を痙攣させていたとき、少し、距離に対する免疫を作ったほうがいいのかと悩んだ。けれど、飛季の腕に包まって一日の恐怖を何とか溶かしていく彼女に、そんなものを作る余裕などないのも現実だった。
帰宅すると、実摘は窓辺で膝をかかえていたり、クローゼットに閉じこもっていたりする。以前と似た状況になってきているが、異なるのは、現在の実摘はその行動を理由づけるところだ。なるべく外のそばにいて飛季の近くにいるとか、ここは飛季の服の匂いがするとか、切ない理由を彼女は述べた。
一度、実摘が部屋のどこにもいなくて焦ったことがある。クローゼットにもベランダにもいない。キッチンの戸棚まで開けた。トイレや物置、バスルームも見た。いなかった。息切れをする飛季は、バスルームのタイルに立ちすくんだ。
出ていったのか、と愕然と認めそうになったとき、なぜか蓋がされている浴槽から、かすかな音がした。まさか、と開けてみると、空の浴槽にはにらを被った実摘が丸くなっていた。飛季は、安堵に腰の力を抜かした。実摘はのそりと首を曲げてきて、「飛季なの」とつぶやく。飛季は大息して、どうしようもなくて、咲った。
このとき、彼女曰く、飛季に抱かれるのを思い出していたのだそうだ。確かに、飛季と実摘はバスルームでよく交わる。「出ていかれたかと思った」と告白すると、「いるもん」と実摘はふくれた。飛季はうなずいて咲うと、にらごと彼女を抱き上げ、部屋に連れていった。
突飛な場所で想いにふけったりしつつ、実摘は部屋を出ていくという行為には絶対出なかった。飛季の不在によって、どんなに生身の恐怖に襲われても、必ず飛季を待ち侘びていてくれた。
それでもときどき、実摘は激しい恐怖の発作に襲われた。だが、飛季を罵ったりするには至らなかった。飛季がなだめると、実摘は安らかになる。
飛季が心配しているのは、自分がここにいないあいだにも、彼女がその発作に襲われていることだ。最も危険なのに、これはどうも避けがたい。飛季が帰ると、実摘はかきむしったように髪をぼさぼさにしていたり、涙の痕があったり、隅っこで顫動したりする。もっと露骨になれば、部屋じゅうにゴミがまきちらされていたり、破られた服のかたわらに全裸で転がっていたり、逆に着衣のまま風呂の冷水に浸かっていたりする。「怖かったの」と現に口にするときもあった。
「飛季がいないと、怖いの考える。飛季がいないから考えたらいけないのに、飛季がいないからどんどん考えちゃうの。『助けて』って言っても、飛季はいなくて返事できないよ。分かってるの。言わないようにするの。でも言っちゃうよ。飛季、返事しないの。怖くなってね、もっと怖くなって、それで、」
飛季は彼女を抱きしめて口を塞ぎ、謝った。実摘はかぶりを振った。実摘の細腕が背中にまわる。仕事に行っていたのが、バカバカしかった。飛季はこの子のそばについていてやらなくてはならないのだ。本当は、ガキ共などに構っているヒマなんか──
激情に駆られて思っても、生徒たちにそつなく構うのが、実摘と生活していく切り札でもある。金を稼ごうとすれば、何をしたって家を離れる時間はできる。夕暮れの下、窓辺にぽつんと座っている実摘に、在宅職に転職しようかと考えたりする。しかし、飛季には流されるまま取った教職以外に資格も何もない。
実富と会うことになっているのが、火曜日と木曜日の午後なのは、実摘も察してきたようだった。不安定はその日にさらに増した。飛季が帰宅しても、頭が混乱しているのか、「飛季に会いたい」と実摘はにらを握りしめて泣き続けた。飛季は実摘が落ち着き、自分を認識してくれるまで、彼女を腕に抱いてあやした。
「飛季……」
「……うん?」
「飛季なの」
「うん。ただいま」
実摘は唸って、「おかえり」を言いながら涙をぼろぼろとこぼす。
「飛季に会いたくなってたの。でもダメだよ。しくしくなの。にらがおでかけしないの約束だよって言ったけど、それでも飛季探しにいきたかったの。待ってるのは痛いの」
「実摘……」
「痛いよ……」
実摘の傷ついた声は、飛季の胸をずきりと刺した。しかし、ここでこの部屋から逃げるのを勧めるのは、違う気がした。飛季は実摘の栗色の頭を抱いて、「実摘」と優しく耳元でささやいた。
「こんなので実摘が元気になるか、分からないけど。俺は、実摘のこと愛してるよ」
「え……っ」
「俺も仕事中は、実摘のことずっと考える。早く帰りたいって思ってる。実摘のそばにいたい」
「飛季……」
「だから、つらいかもしれなくても、ここで俺が帰ってくるの待っててくれたら嬉しい」
「飛季……僕がいたら、嬉しい?」
「当たり前だよ。実摘がいないと、俺も不安なんだ」
実摘は飛季にぎゅっと取りついた。何度も飛季の名前を呼んで、鼻を胸板にこすりつける。「あのね、」と実摘は飛季の腕の中で、ようやく緊張した軆の力を抜く。
「僕も同じなの。ずっとね、飛季は僕の心の中でぎゅうっとしてるの。ぎゅうっとしたあと、ぱっくりするの。そこでいっぱい飛季を食べるのに、飛季がいないとお腹が空くの。怖くなるよ。僕ね、たくさん飛季が欲しいの」
「うん」
「僕も、飛季を愛してるの」
実摘のつたない唇が紡いだ言葉を、飛季は噛みしめた。愛してる。名状なんてできない感情の間に合わせの言葉でも、実摘にもらうとやっぱり嬉しい。
「飛季は、僕の命のごはんなの」
飛季は口元をやわらげた。実摘の顔を覗きこんで、舌を絡み取るように柔らかく口づける。「おいしい」と実摘はやっとはにかんだ笑みを見せ、こみあげた愛おしさに飛季は実摘の頭を撫でた。
【第四十二章へ】