陽炎の柩-42

腐敗する軆に

 カレンダーは十月に入っていた。乾涸びる前に汗にびしょ濡れになる夏も、ようやく過ぎ去ろうとしている。夜になれば開け放った窓の呼吸でじゅうぶん涼しく、クーラーでだるかった軆も軽くなった。飛季と実摘も、日中離れ離れになるのはつらくとも、それが日常であると組みこむようになっていた。
 もつれあった飛季と実摘は全裸でシーツに横たわり、汗で肌を融合させていた。実摘は、飛季の流れる汗を舌ですくっている。舐めたり咬んだり、実摘は飛季の軆を味わうのが好きだ。
 そういえば、実摘はゾンビが好きだった。思い出した飛季は、ひとりで噴き出してしまう。実摘は顔を上げ、首をかしげてくる。「ゾンビみたい」と飛季が言うと、実摘はまばたきをしてはにかんだ。「食べたいもん」と彼女は飛季の胸を咬む。
「食べてね、ずっと一緒になるの。飛季は、僕のお腹にいるの」
 飛季は咲い、実摘の頬を撫でた。実摘は飛季の手のひらに頬をすりよせる。彼女の内臓で彼女と共生する。悪くない。
 実摘は飛季の肉体に柔らかく歯を立て、幸福そうにしている。飛季は短い栗色の髪を指に絡め、彼女の長い睫毛やすべすべした肌を見つめた。満足した実摘は、飛季の腋に顔を埋める。飛季は彼女の背中を撫でた。
 肩の傷が剥き出しになっている。引き攣れたそれは、ケロイドになりはじめている。いつか実摘は、この傷は存在だった、と話していた。傷口との関連性は判然とせずとも、あんなに輝かしいふたごの妹がいれば、存在にも傷がつくと思う。優しくそこに指を這わせると、実摘は飛季にぴったりとくっついた。
 ガラス戸が閉ざされた部屋は、熱された空気が暑い。窓を開けようかと実摘に訊いてみる。実摘はこくんとした。飛季は重なった肌をゆっくり剥がし、実摘をシーツに寝かせた。実摘は飛季の挙動を目で追う。
 上体を起こした飛季は、顔にかかる前髪をかきあげた。ベッドを降りて下半身にジーンズを身につける。
 窓辺に行ってガラス戸のカーテンをめくると、暗闇に細い月が浮かんでいた。降りそそぐ光は、夜更かしをする部屋の電燈に紛れそうになっている。飛季は鍵をおろし、ガラス戸を半分開けた。ひんやりした空気が頬や胸をかすめていく。
 地上から離れたここでも、秋の澄んだ虫の声が聞こえる。網戸を仕掛けていると、いつのまにかベッドを降りた実摘がそばに来た。飛季が着ていた大きすぎるシャツのみ着て、にらを片手に抱えている。「どうかした?」と微笑むと、彼女は飛季の隣に立っておもはゆそうに咲った。窓が吸気する風に、実摘の腕にふたつ折りになったにらが揺れる。
「前ね」
「ん」
「飛季、訊いたの。にらが、何でそんなに大切かって」
 実摘の儚い声は弱くて、虫の声に負けそうだった。飛季は、実摘を抱き寄せる。実摘は、額だけ飛季の胸に当てた。長い睫毛が胸をくすぐる。
「僕のだからなの」
「うん」
「にらね、緑なの。僕ってことだったの」
 何か打ち明けようとしている、と察知し、飛季は実摘の髪に指をさしこむ。実摘の震える吐息は熱かった。
「実富、はね」
 一瞬、手を止めそうになった。何とか、ぎこちなくならずに愛撫を続ける。
「赤だったの」
「赤」
「そっくりで、見分けがつかなかったの。でね、お揃いじゃなくて、色違いにしたの」
 実摘は飛季の腰をつかんだ。
「僕のだった」
 押しつけられた顔面に、睫毛がつぶれる。飛季は、実摘のうなじをさすった。実摘は飛季に抱きついた。
「飛季も、僕のなの」
「うん」
「にらは、僕を守ってくれるの。飛季は、僕を作ってくれる」
 汗ばんだ軆に、清涼な風が冷えこむ。飛季はカーテンを閉める。
「僕、いるの」
「うん」
「僕はね、僕なの」
「うん」
「僕は、実富のおまけじゃないよ」
 肌に汗ではない雫が伝った。飛季は実摘を抱きしめる。実摘は声を殺して苦しげに泣いた。飛季は実摘のもろい背骨を撫でる。
「飛季」
「ん」
「飛季が僕の全部なの」
 実摘の声は、涙に壊れそうだ。
「僕、ずっと飛季が足りなかったよ」
 涙は腹をすべり、ジーンズに染みた。飛季は実摘の髪に口づける。実摘はもう何も言わず、静かに肩を震わせた。飛季も黙り、危うい彼女を腕に包む。
 しんとした部屋に、透き通った虫の声が響く。かすかな実摘の嗚咽は、その透明な羽音にそっと潜んだ。
 ──実富を受け持つようになって一ヶ月、飛季は彼女の母親とダイニングルームで面談した。ありきたりな会話が交わされた。実富の学力レベルや、聞かされる学校の様子、進路について。飛季は何も問題なさそうですとまとめた。
「私も、あの子はちゃんとできると思ってるので、家庭教師についてほしいって言われたときはとまどったんですけど。桐月先生にお願いしてよかったです」
 飛季は微笑を浮かべながら、実富の母親のほっとした様子を見つめた。実富に関する雑談が続いたのち、「おねえさんのほうは、どうですか」と飛季は慎重に切り出した。母親は、愁眉というより困惑した顔になった。
「まだ、信じられないんです」
「信じられない」
「あの子はいつも実富の隣を離れなくて、ひとりで何かするということがない子で。いつも実富が、あの子をかばっていました。あの子がいなくなってしまって、一番落ちこんでいるのは実富なんです。なのに、私たちのほうが実富に励まされていて──」
 飛季はかすかに不快感を覚え、ため息を飲みこんだ。何だろう。彼女の話は、結局実富に行き着く。今も失踪した娘の話題でありながら、実富の話になっている。彼女は実摘がいなくなったことより、実摘がいなくなって愁える実富のことを熱心に語る。
 実摘が、自分はおまけだと口走っていたのがよみがえった。確かにそうだ。この母親には愛すべき娘は実富ひとりで、実摘はおまけだ。彼女にそうした意思があるのかはともかく、飛季はそんな印象を持つ。「すみません、こんな話をしても仕方ないですね」と彼女は話を切り上げ、飛季はさしさわりなく笑んでいた。
 綾香家を去るとき、すでに空は暗く、涼しい風も抜けていた。飛季はオートバイを飛ばして帰宅する。
 にらをかぶった実摘は、ベッドに丸まっていた。「ただいま」と頭のあたりを撫でると、にらをうごめかせて実摘は首を伸ばす。彼女の硬化していた瞳は、飛季のそれと絡むと緩やかになった。軆を起こし、「おかえり」と飛季の首に抱きついてくる。飛季は実摘を抱え、「ただいま」ともう一度言う。彼女の軆に震えが残っているのが、腕にこぼれてくる。遅くなったのを詫びると、彼女は弱くかぶりを振った。
 実摘の震えが収まると、飛季は夕食の用意に取りかかる。実摘はやもりになる。
 今日は麻婆豆腐だった。実摘と出逢っていなければ、絶対にあつらえ品でしか食べなかった代物だ。実摘と暮らすようになって、妙に料理の幅が広がっている。
 実摘の頭が脇腹に生えてきた。実摘はくんくんとして、「飛季のごはんはおいしい」と言う。「そうかな」と首をかしげると、「飛季と食べるもん」と実摘は飛季の脇腹に顔をこすりつけた。さりげなく参っていると、実摘は照れたのか背中に隠れてしまった。
 夕食ができあがると、飛季は麻婆豆腐を皿に、実摘はごはんを茶碗によそう。「ほくほくほく」と彼女は歌う。実摘は食事時には機嫌がいい。ミニテーブルにつき、「いただきます」と夕食になる。実摘は麻婆豆腐の皿に、ごはんを落として食べた。そして、スプーンで麻婆豆腐とごはんの混ぜ合わせを作る。飛季は箸で別々のまま食べる。「おいしい」と言ってもらうと、作った甲斐もあって嬉しい。
 飛季が食器を洗っていると、頭ににらを被った実摘は、ビデオを観はじめた。ゾンビではなく、死体が腐る映画だ。あの映画を観ると、あんな映画を作る人がいるんだよなと感慨深くなる。子供騙しの大スペクタクルより、メンタルに重たく響いてくる。
 ゾンビ映画にはのんきにはしゃぐ実摘が、あの映画となると眼球を剥いて食い入る。死体になって柩が欲しい、と実摘が話していたのがよぎる。飛季が探していた柩で、飛季といられるのなら生きていても構わないと。とはいえ、あの様子では彼女は死への憧れを完全に捨てきっていない。飛季はこびりつく油に苦戦し、背筋に実摘の死への真摯な欲望を感じた。
 食器は水切りに、フライパンは焜炉の火で適度に乾かす。残った麻婆豆腐は冷蔵庫にしまった。夕食の残りは、たいてい実摘の明日の昼食になる。生ゴミの処理もして、石けんで手を洗うと、飛季は炊事に片をつけた。
 実摘は映画に集中している。飛季は、シャワーを浴びるか持ち帰った仕事をするか迷った。実摘は映画を観ているし、飛季が部屋にいなくても平気だろう。シャワーにするかとクローゼットを開けた。楽な服をあさっていると、突然脚をつかまれた。びくっと下を見ると、いつのまにか這いずってきた実摘が脚に絡まっている。
「実摘──」
「僕も」
「え」
「僕も」
 一緒に入ると言いたいらしい。「映画は」と確かめると、「止めるの」と実摘はテレビの前に這っていく。びっくりした、と心でつぶやき、飛季は実摘の服も選んだ。
 クローゼットを閉めると、実摘は映画に集中している。幻覚だったのかと思いかけたが、かぶっていたにらが落ちて脚にまつわっている。画面では、男の死体の全身に蛆が涌いていた。あふれる蛆が大写しになったり、全体像になったり、この映画はつくづく嗅覚の切除によって美しい。
 飛季がかたわらに立つと、「うじゃうじゃ」と急に実摘が声を発する。臆面した飛季に、実摘は真顔をしてきた。
「虫、うじゃうじゃなの」
「あ、ああ、うん」
「穴が空いてるよ」
「……うん」
「死んだらこうなるの」
「まあ、放っておけば」
 飛季は実摘を見た。実摘は真剣に画面を凝視している。
「腐れるのは幸せだよ」
「そう、かな」
「死んで腐るのは、命があったってことだもん」
 飛季は無言で服を抱え直す。
「虫がうじゃうじゃするのは、無くなる命があったってことなの」
 言い切ると、実摘は小さくうなだれた。細い指がにらを握った。
 飛季は腰をかがめ、白い頬骨に指を触れさせる。大きな瞳は、潤んでいた。実摘はゆっくりとまばたきをする。
「飛季」
「ん」
「僕にも、こんな虫、涌くかな」
 口ごもる。実摘は見つめてくる。飛季は彼女を抱き寄せた。実摘は素直に飛季の胸に顔を伏せた。飛季は彼女の背中をさすり、しばらくそうしたあと、尋ねてみる。
「何か、ない?」
 実摘は、もそりと身動ぎする。
「俺にこうされて」
 実摘は黙った。考えているようだ。彼女は飛季にすりより、ぽつりと答える。
「……どきどき」
「うん」
「どきどき、する」
 飛季は、軆を離した。微笑むと、実摘は泣きそうな顔になった。軽く口づけると、実摘は抱きついてくる。
「あのね」
「ん」
「飛季がいる、って思った」
 飛季は実摘を抱きしめた。実摘は飛季の鼓動に耳を澄ます。睫毛をおろし、「聴こえるよ」とささやく。
「え」
「聴こえるの。どきどき」
 飛季は、実摘の頭に顔を伏せた。彼女の耳元に口を寄せる。飛季の吐息に、栗色の髪が揺れる。
「俺も、実摘がいると思うよ」
 実摘は飛季の服をつかみ、こくんとした。そしてぎゅっと甘えて、飛季の鼓動に頬擦りをした。

第四十三章へ

error: