愛の味
走るあいだに土砂降りは落ち着いても、雨はやまなくて、飛季は濡れねずみになってマンションにたどりついた。エレベーターで上着を脱ぎ、水が跳ねたスラックスに舌打ちする。六階に到着すると、部屋の前に急いだ。
ドアを開けて、とっさにひそみをした。強い香辛料の匂いにつんと嗅覚を刺激された。顔を上げれば必然的に視界に入るキッチンに、目をみはった。鍋やまな板、野菜がめちゃくちゃに転がっている。包丁もあり、飛季は慌てて靴を脱いだ。
室内は散らかっていなかった。が、実摘のすがたがない。雨に湿る髪をかきあげて焦った。いつもなら、どこかに隠れていると思って不安は突発しないが、今日の心情ではそうもいかない。キッチンの散乱に加え、数時間前の実富への狼狽が後押しになる。
荷物を放り、「実摘」と呼びかけた。返事がない。家族に誘拐されてしまったのか。誘拐という言い方はおかしくても、飛季には同じだ。どんなに呼んでも、何も返ってこない。声が情けない、泣きそうなものに落ちぶれていく。
飛季は部屋を物色しまくろうとした。が、ベッドの先とガラス戸の隙間で緑のものがちらりとした。色褪せた緑──にらの色だ。
飛季は駆け寄った。にらをかぶって丸くなったものが、隅っこで蠢動していた。なめらかなくるぶしの、小さい足がはみでている。
実摘だ。認めた瞬間、ほっとしてへたりこみたくなった。
「実摘」
声をかけて、にら越しに実摘に触れると、彼女はびくんと硬直した。飛季は臆してしまう。そんな反応をされるとは思っていなかったのだ。
「俺だよ」
安心させようとした飛季の台詞に、彼女は顔を上げるどころかますます縮まってしまった。小刻みに震え出し、息を殺す音もした。
泣いている。
それを悟った飛季は当惑し、彼女のかたわらにしゃがみこんだ。そろそろと彼女の緩い曲線を描く背中を撫でる。実摘の震えが手のひらに伝わる。
飛季は不安になる。彼女が鬱屈する心当たりはあった。実摘はこの狭い部屋に、二ヶ月も閉じこめられている。嫌気が、さしたのか。飛季など無視して、この部屋を出たくなったのか。それとも、やはり恐怖に耐えられなくなって、遠くに逃げたくなったのか。
飛季は愛撫を止めた。実摘は顔を上げてくれない。この子がいなくなってしまったら。飛季は怖くなって唇を噛んだ。実摘の様子は、かりそめに現実味を塗る。
嫌だ、と激情が起こる。実摘がいなくなるなんて考えられない。考えたくもない。生きていけるかも分からない。実摘のいない生活はもうごめんだ。あんな暗くてじめじめした生活に戻るのも嫌だ。ずっと実摘といたい。一生、この子とこの部屋で暮らしたい──
「実摘……」
飛季の声は揺らめいていた。実摘はこちらを見てくれない。飛季は彼女を思いやれなかった。
「行かないで」
実摘の軆がかすかに動いた。
「ここにいて。実摘、俺のそばにいてよ。実摘がいなくなったら、俺、どうしたらいいか分からないよ」
にらがもぞもぞとした。栗色の頭が出てきて、こちらに首が曲がってくる。実摘の頬はびしょびしょだった。
「飛季──」
「お願いだよ。俺のそばにいて。実摘にいてほしいんだ。初めて、こんな、一緒にいたいって思えたんだ。実摘とここで暮らしたいんだよ。実摘がいないときに戻りたくない。どこにも行かないで。俺には実摘の代わりなんていないんだ。だから、」
声が詰まった飛季に、実摘はのろく軆を起こした。這い寄ってきて、彼女は飛季の膝に頬をすりよせてくる。
「そば、いるの」
「えっ」
「いるよ。ずっと一緒なの」
「……実摘、」
「僕も飛季とここにいるの。一緒なの。飛季がいないと、僕の命、死んじゃうよ」
飛季は実摘を抱き起こし、強く抱きしめた。実摘も飛季の胸に取りつく。飛季は実摘の首筋に顔を埋め、「よかった」とこぼした。実摘はうなずいた。
「実摘、が、ここにいるの嫌になったかと思った」
「ならないよ」
「うん」
「僕、飛季といるの」
「うん」
「僕、僕はね、飛季に『出ていけ』って言われると思ったの」
「えっ──」
飛季は驚いて、彼女を覗きこんだ。実摘は、落ちこんだ顔になって睫毛を下げる。
「どうして」
「飛季、『出ていけ』なの」
「言わないよ。……言えないし」
実摘は飛季に空目をし、しがみついてきた。飛季は実摘を抱え直し、「どうしてそう思ったの」と優しくうながす。実摘は飛季の服を握る。
「飛季……ね」
「うん」
「ずっと……いそがしくて、元気なかったの。飛季が元気ないのは、哀しかったの。僕が哀しいと、飛季は元気なくて哀しくなるよ」
「……うん」
「僕、飛季を元気にしようと思ったの。飛季、毎日ごはん作ってるよ。でね、ごはん食べたら元気になるの。僕がごはん作ったら、飛季お休みできて、ごはん食べれて、元気になると思ったの」
飛季はただよう香辛料を嗅ぎ、転がった野菜を思い返した。あれは無意味に引っかきまわしたのではなく、料理をしたあとだったのか。
「けどね、食べてみたら、ぜんぜんおいしくなかったの。野菜とかいっぱい入れたよ。元気になるの。全部無駄なの。台所も汚くなって、片づけしようってお皿洗ったら、落ちて割れたの。僕、ダメなの。飛季にやらせることだけ増えて、飛季、怒ると思ったの。『出ていけ』なの。でも僕、飛季とここにいないと嫌なの。どうしたらいいか分からなくてね、びくびくなの」
「実摘、」
「違うの。飛季、僕ね、飛季に元気になってほしかったの。困らせようとしたんじゃないよ。でも、うまくできなかったの。あのね、僕、」
飛季は実摘を擁した。実摘は噎せて声を上げた。「ごめんなさい」と彼女は言う。飛季はそれを制して、実摘の頭を撫でた。
じゅうぶん、嬉しかった。この子の愛情を感じるのが、飛季をもっとも安んじる。「ありがとう」と言うと、実摘は濡れた目で不思議がる。
「何で。僕、迷惑だよ」
飛季は咲い、実摘の涙をはらってやる。
「嬉しいよ」
「ぐちゃぐちゃなの」
「実摘が俺を元気づけようとしてくれたのが嬉しいんだ」
実摘は睫毛をぱたぱたをさせた。飛季は微笑み、彼女に短く口づける。塩の味がした。
「元気になれたよ」
実摘の顔がぱっと輝いた。「ほんと」と声も軽やかになる。飛季がうなずくと、実摘は破顔した。飛季は、にらごと実摘を立たせた。にこにこする実摘に、飛季も柔らかに咲い返した。
「じゃあ、食べようか」
「へっ」
「実摘が食ったごはん」
実摘はぎょっとした。初めて見た顔だった。「ダメだよ」と彼女は大袈裟に頭を振る。理由を訊くと、「まずいもん」と即答される。
「食べないと分からないよ」
「分かるもん。僕、食べたもん」
「俺は食べてないよ」
「ダメなの。飛季のお腹が痛くなるの」
「俺、そんなにやわじゃないし」
「おいしくないよ。どろどろでべちょべちょなの。変なのなの」
どろどろでべちょべちょ。臆する前に、いったいどんな料理かと思った。というか、この匂いはカレーだ。カレーならば、どろどろでいいだろうに。「ダメなの、ダメなの」と床を踏み鳴らす実摘は抱き上げてしまい、飛季はキッチンに行く。
なかなかの状態だった。シンクには欠けた皿がスポンジを従えて泡もついたまま放置され、その周りにはぶあつい野菜の皮が散乱している。台の部分には包丁やまな板、野菜の欠片がこぼれている。
飛季は、実摘がここで四苦八苦して料理をしている様子を思い浮かべた。すると、この惨状も微笑ましくなる。
炊飯器では白米が炊けているようだ。開けてみると、粥状態だった。実摘はうめいて恥ずかしがり、飛季は彼女をなだめてやる。焜炉には吹きこぼれた鍋があり、ふたを取ると、こちらのカレーは重たそうだった。野菜は沈んでいる。どうも、ルーの入れすぎだ。ルーの箱に書いてある作り方を読んだかを質問すると、実摘は頼りなげにうなずいた。「ぶくぶくしてきて怖くなって止めたの」と彼女は説いた。「魔女スープだったの」という比喩に噴き出す。
キッチンを見まわしても、食欲は減退していなかった。食べたい。実摘が作ってくれた料理だ。飛季は実摘を床に下ろし、食べると伝えた。
実摘は目を開く。「まずいの」と彼女は飛季を止めようとする。
「食べられるよ」
「べろがじんじんなの。からいの」
「大丈夫だよ」
「ごはんねちょねちょだよ。混ぜたらゲロだよ」
「ゲロ、って」
「ゲロだもん」
「ゲロでも俺は食べたい」
実摘は焦っている。どうしても食べてほしくないらしい。飛季は、水切り場にあるスプーンを取り、濃いカレーをすくってみた。口をつけようとすると、実摘は声を上げて飛季の腕を引っ張った。
が、実摘は飛季には非力だ。飛季は香気を放つカレーをすする。からい、を通り越して、にがい──「まずいよ」と実摘が叫んだけれど、まずくはなかった。「おいしい」と述べると、実摘は泣きそうな顔になった。
「おいしくないよ」
「おいしいよ」
「嘘だもん」
「ほんとだよ」
「飛季、僕を痛くしないってしてるの」
飛季はため息をつき、実摘を腕に包める。「違うよ」と言うひと言のあと、しばし二の句に悩んだ。どう言葉にすればいいのか。実摘は考えこむ飛季にまごついた。飛季は実摘の背中を撫でる。
「痛く、しないようにはしてる」
実摘は頭を垂れた。
「でも、俺の意思じゃないんだ」
彼女は上目遣いをし、小首をかしげる。
「ほんとに、おいしいって感じる。味がどうとかより、実摘が俺のために作ってくれたっていうのが、真っ先に来る」
実摘は黙って、飛季を眸子に映じさせた。飛季は色ぼけた告白に頬を染めた。どう言葉にするか、なんて、バカだ。たとえ事実でも、名状するべきものではないのだ。ばつの悪さに愧赧していると、実摘が抱きついてくる。
「あ、」
「飛季はね」
「え」
「飛季は、僕を全部飲みこんでくれるよ」
実摘を見た。彼女は飛季に頬をすりよせた。
「でね、飛季が僕を飲みこむと、僕の中は溶けるの」
こみあげた愛おしさに、飛季は実摘を抱きしめた。彼女の呼吸が、服に濾過されて飛季の肌に触れる。飛季は実摘の栗色の髪に口づけると、丁寧に軆を離した。
実摘は飛季を見上げた。飛季は口元をやわらげ、「食べよう」と言った。実摘はこっくりとした。
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